国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

巻頭コラム

World Watching from Uzbekistan  2013年10月18日刊行
佐々木史郎

● ウズベキスタンから世界を見る

8月5日から21日まで2週間少々、中央アジアのウズベキスタンに出かけた。2015年度に控えた中央・北アジア展示場新構築に向けての資料収集のためである。それは実に28年ぶりの訪問だった。首都タシケントで、当時の記憶を呼び覚ますような懐かしい光景が見られるかと必死になって目をこらしたが、28年の歳月とソビエト連邦崩壊による1991年の独立後の変貌は大きく、そのようなものは全く目にできなかった。

今回のウズベキスタン訪問は、織物・織機の専門家の吉本忍教授が同行してくれた。古都ブハラを中心に発達した絹織物文化を調査し、織機と若干の織物見本を購入することを目的としていたためである。そのために、タシケントの他、中央部のサマルカンド、ブハラ、東部フェルガナ盆地のフェルガナ、マルギランといった町を訪れた。現在ウズベキスタンの織物業はブハラとマルギランが中心である。しかし両者ともに社会主義時代の苦い経験を持っていた。

ブハラでは、最後まで近世以来の王(エミール)が残っていたため(ブハラの宮殿が革命軍に明け渡されるのは1920年)、王宮の需要に応えるべく絹織物をはじめとする各種美術工芸技術が高度に発達していた。しかし、社会主義政権は1930年代にそれらをすべてブハラから剥奪することを決め、絹織物の場合には職人をフェルガナ盆地に移住させて、マルギランにその中心をおいた。しかしその後、絹織物の戦略的価値に気づいたソ連政府は、統制しやすいように、機械化による大量生産一本に絞り、職人による個人的な手織りの織物生産を禁止した。その結果、職人を失ったブハラだけでなく、マルギランでも手織りの技術が衰退してしまったのである。

手織りの技術に誇りと民族のアイデンティティを抱いていた職人たちは、陰でこっそりと織機を使ったが、時にそれが当局に発覚して投獄されることもあったという。1991年のウズベキスタン独立によって、伝統の手織り技術による絹織物生産も可能になったが、そのときにはすでに職人たちの数は激減していた。それから20年、ブハラとマルギランでは相互に協力し合いながら、手織り絹織物生産の復興が進められている。

佐々木史郎(先端人類科学研究部教授)

◆関連ウェブサイト
ウズベキスタン共和国(日本国外務省ホームページ)