国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

巻頭コラム

射真-まちあるきの記憶を展示する  2019年8月1日刊行

広瀬浩二郎

7月14日、滋賀県の信楽で「射真」ワークショップを開催した。午前中に信楽のまちあるきを楽しむ。午後にはまちあるきで得た各人各様の信楽の印象を粘土で作品にする。本ワークショップには全国各地の博物館関係者など、46名が参加した。その中には視覚障害者7名も含まれている。まちあるきでは、あえて写真は用いず、触覚的な型取り(フロッタージュ)で信楽を記録することを課題とした。このフロッタージュが午後の作品制作の土台となる。参加者はそれぞれのフロッタージュを加工したり、五感でとらえた街の風景を追加し、オリジナル作品を完成させた。

 

そもそも、写真とは真実を写すのだろうか。たしかに、人間の記憶を記録・伝達する手段として写真は有効である。昨今はデジカメ、スマホなどの普及により、写真は現代人の生活にとって不可欠なメディアとなった。写真は視覚優位の近代文明のシンボルともいえよう。しかし、人間の記憶は視覚に限定されるものではない。聴覚情報に関しては録音技術が開発されているが、嗅覚・味覚・触覚を記録する方法はないものか。こんな問題意識から、僕は「射真」という概念を提案している。

 

写真と同様に、近代文明の重要な産物であるミュージアムにおいても、視覚的に「見る/見せる」展示が大前提とされてきた。そんな視覚偏重の博物館のあり方を問い直すのが「ユニバーサル・ミュージアム」運動なのである。「射真」とは、視覚的に撮影・鑑賞される写真をユニバーサル化する試みともいえるだろう。

 

信楽のまちあるきでは、多くの参加者が登り窯の内壁を型取りしていた。近年の技術革新で登り窯が使われることはなくなったが、古い窯は焼き物とともに歩んできた信楽の歴史、職人たちの思いを感じさせるものである。また、目に見えない世界を想像するという点で、神社もフロッタージュの人気スポットだった。写すのではなく射る、見るのではなく思い描く。こんな原則を共有することにより、今回のまちあるきは視覚以外の感覚への気づきを促す機会となった。

 

作品完成後、参加者には自作に関するコメントを書いてもらった。以下は僕のコメントシートの抜粋である。ちなみに、僕は登り窯の煤けた煉瓦、神社の石段をフロッタージュした。そして、二つのフロッタージュを実際の道路(地図)に似せた粘土の線で結んだ。我が作品の上には二つの謎のボール(団子)が転がっている。

 

「カマとカミをつなぐカメ」

なぜ僕は歩くのか。それは、目に見えないカミを感じたいから。なぜ僕はさわるのか。それは、燃え上がる火のような「生命のエネルギー」をとらえたいから。カメは一歩一歩、地を這うように歩む。カメはジグザグ、ヨタヨタ進む。だからカメは、天の上、地の下の目に見えない道を知っている。
二つのボール(団子)は、まちあるきをする際、白杖の先に付けた粘土を丸めたものである。杖はあたかもカメのように、カマとカミをつなぐ道を僕とともに歩み、信楽の生命エネルギーを吸収する。このボール(団子)を握り、作品の上をゆっくり動かせば、きっとあなたは信楽の「目に見えない街」を感じることができるだろう。

 

「射真」ワークショップは初回としては成功し、ユニークな作品も揃った。これらの作品は、来年開催予定の民博の特別展「ユニバーサル・ミュージアム」(仮称)で展示するつもりである。「射真」作品の展示では、来館者が信楽のまちあるきを追体験できるような仕掛けを考えたい。今、信楽の風、地面の凹凸などを思い出しながら、展示への夢を広げている。そういえば、夢も写真には撮れないんだっけ!?

 

広瀬浩二郎(国立民族学博物館准教授)