国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

巻頭コラム

国境について考える~オーストリアの村から~  2021年1月1日刊行

森明子

国境を越える人やモノの移動はますます活発であるが、そのために国境の意味が薄くなることはない。ひとたび難民の大量流入やテロが起きると、国境はまたたくまに閉じられる。ウィルス感染症もまたその契機になることを、私たちはいま目の当りにしている。
国境は不動の壁ではない。閉じたり、開いたり、引き直されたりして、人びとの生活とともに歴史を紡いできた。地域の人は国境とどのようにつきあってきたのだろうか。オーストリアの村から考えてみたい。

 

わたしが長年通っている村は、オーストリアの南東の端に位置する。その国境は、多民族を統治していたハプスブルク帝国から南スラブ人が独立して国家(のちのユーゴスラビア)をうちたてようとしたときに引かれた。スロヴェニア語話者とドイツ語話者が混住する地域で、住民投票が行われ、国境は村を分断することになった。

 

その後も村の国境は国際政治を映し出す。ナチス・ドイツがオーストリアを併合しさらに東方へと侵攻していた時期、国境は開かれ人びとはかつての村域をとりもどした。ただし、ナチスのゲルマン化政策は、公的空間でのスロヴェニア語を禁じ、森を住処としてナチスに抵抗するパルチザンは、自らの食糧を住民から暴力的に調達した。住民は、ドイツ官憲とパルチザンの、どちらの要求にも黙って従うことで生き延びた。

 

戦後は、オーストリアの国家条約に付された少数民族保護条項が、村を含む一帯の地域に重要な意味をもつことになった。学校教育や地名表示をめぐって、二言語の制度化を求める側とそれを嫌う側の闘争が、長期にわたる地方政治の争点となった。冷戦下の国境では、西側よりのオーストリアと東側よりのユーゴスラビアが対面していた。

 

1990年代以降、国際政治は大きく展開する。スロヴェニアはユーゴスラビアから独立し、オーストリアにつづいて2004年にEUに加盟した。これによって村の国境は無用になったかと思われた。ところが2015年に難民の大量流入が起こると、検問が抜き打ちで行われるようになった。2020年のウィルス感染症拡大で、国境はふたたび閉じられた。

 

2年前の初秋、村の記念事業として国境の歴史散歩というプログラムが企画された。建造物を見て、古老の話を聞き、森の道を抜けて、国境の向こうにあるかつての村空間を体験するもので、翌年このプログラムは、世界ジオパークのコースに加えられた。私の知る村の人びとは、国境やスロヴェニアについて用心深く、多くを語ろうとしない。プログラムのスタートは、それが変わりつつあるのかと思わせた。その矢先に、感染症拡大に見舞われた。こののち、プログラムがどのように育っていくのか、とても気になる。

 

森明子(国立民族学博物館教授)

 

◆関連写真

第一次大戦後、税関役場として建てられた建物は、小学校分校を兼ねた。現在は個人所有。


 

古老の話を聞く。


 

森の中の警告サイン「注意!国境」と、小道の両側におかれた国境石。石の正面/背面に、オーストリア側/スロヴェニア側を示す記号(Oeおよび RS)が番号とともに刻まれている。


 

国境散歩ではウシが闖入者に抗議する。むこうはスロヴェニア。