国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

特別展「先住民の宝」|Q&A

このページでは、特別展「先住民の宝」の「研究者への質問コーナー」に掲示した質問と回答を整理して掲載しております。

多くは精霊信仰などのアニミズムです。イスラム教徒やキリスト教徒の人もいます。(信田敏宏)
 
私も古いダカのショールやそれを再利用して作られた帽子が大好きで、折にふれカトマンズのアサンにある帽子専門店をのぞいています。古ダカの帽子は稀少で、いつもあるとは限りません。経糸も横糸も素材は綿です。昔のダカはガーゼのように薄い透ける布で、白い裏地をつけて使われてきました。
ダカ織の模様は、アトラスと同じように幾何学模様で、色使いも鮮やかで確かに似ていると思います。しかし、両国の間に目立った交流があった記録はなく、伝播というより別個に多系的に発生したものと推定されます。ダンスモア(1993: 103)によれば、「ダカ織の模様(ブッタ)は、菱形、ジグザグ、蝶、花などをモチーフとしており、模様に固有の名前がつけられているのは、寺、ゾウの鼻に限られます」。帽子屋の主人は、白い部分が少なく派手な模様ほど良い帽子だといいます。(南 真木人)

Dunsmore, S. 1993 Nepalese Textiles, London: British Museum Press.
 
足首飾りの素材には繭が使用されています。(池谷和信)
 
マヤ民族の女性は、衣装のデザインをおばあさんやお母さんから教わります。それを元にして、自分で工したり、友達とアイデアを交換したりして、デザインを決めていきます。(鈴木 紀)
 
北アメリカの北西海岸地域は、日本の北海道よりも北にありますが、北太平洋海流とアラスカ海流のために温暖多雨な気候でした。また、サケやオヒョウ、ニシンなどの魚やスギ科やヒノキ科の木々が大変に豊富でした。このため、この地域の人々は日々の生活に困ることはなく、雨の多い冬には狩猟や漁労はせず、お祭りを行ったり、手の込んだ工芸品や日用品、儀礼の道具を作ったりすることができました。(岸上伸啓)
 
現在は、どちらにおいてもキリンの狩猟は行われていません。それぞれの国の法律で禁止されています。(池谷和信)
 
Aオランウータンは、ご推察の通り、マレー語です。ウータン(utan)はマレー語で「森」を意味するので、オランウータンは「森の人」です。(信田敏宏)
 
アイヌと北西海岸先住民のデザインの類似の間には、直接的な関係はないと考えられています。しかし、類似については、次のような3つの可能性が考えられます。(1)アイヌが住む北海道と北西海岸先住民が住むカナダ西海岸では、自然環境が似ており、同じような木や草や、動物、魚が生息しています。それらを見ながらデザインを作り出しているため、相互に似通っている可能性があります。(2)長きにわたる交易や交流において多数の人の手を介してモチーフが伝わった可能性があります。(3)現代の制作者が他のグループの人が作った作品を参考にしてデザインを作った可能性もあります。(岸上伸啓)
 
アフリカの遊牧民の場合、自らの家財道具をつぎのキャンプ地に運ぶ必要があります。その際に、人が背負うことも可能ですが、ソマリの場合は、家屋の骨組み、家の屋根、ミルク容器などかなりの量のものを運ぶ必要があるのです。このため、オスラクダを使用して荷物を運搬します。そのときの様子は、展示場の映像をご覧ください。(池谷和信)
 
彫像や仮面は、彼らの精霊に対するイマジネーションの産物です。ただし、親子などで代々受け継がれている形状のものもあります。なので、同じ名前の精霊でも、違う形状になることがあります。オラン・アスリのコーナーでは、そんな精霊の一部が紹介されていましたが、本当はもっとたくさんの精霊、100以上の精霊が確認されています。(信田敏宏)
 
死者に着せる衣服は、それまで着ていたもののなかからあてられ、特別に作るのは手甲・脚絆・帯・履物です。地域による違いもありますが、多くは黒色などの生地に白の木綿でアップリケのように文様をつけたもので、日常着よりも文様の白い部分がひろく、全体が白っぽく見えるのが特徴です。また、ふだん身に着けるものより、少し小さく粗末なものだったとの記録もあります。(齋藤玲子)
 
(1)アイヌと北西海岸先住民の渦巻き文様が似ているものがあるというご指摘ですが、起原の点では別物であると考えられます。
(2)類似については2つの可能性があります。両者とも人間として事物に対して同じような認識の仕方をし、それに基づいて表現した結果、文様が似ていることが考えられます。また、近年のグローバル化や相互交流によってアイヌと北西海岸先住民との間で同じ文様が共有された可能性があります。(岸上伸啓)
 
ネパールの展示のパネルに「ヒンドゥー化させられ、カースト体系の中位に位置づけられた先住民は、高カーストから差別されてきたが、低カーストのダリット(元不可触カースト)に対して差別する側にも立ってきたのである。」と書きました。先住民より下の最下層のカーストとみなされてきたのは、ダリット(元不可触カースト)の人びとです。
ネパールの国民(約2694万人)は、高カースト(31%)、先住民=諸民族(36%)、マデシ[低地帯マデシュの北インド系](15%)、ダリット(13%)に大別されます。支配階層の高カーストとダリットは、ネパール語を母語とする同じ集団(山のヒンドゥー教徒)に属する人びとです。彼らは10世紀から11世紀にかけてイスラム教徒が北インドを侵略したのに伴い、現ネパールを含むヒマラヤ山麓に避難してきた人びとの末裔です。ダリットを名乗るカーストの伝統的な職業には、鉄鍛冶師、金細工師、仕立師、楽師、皮革細工師などがありますが、現在はそれらに従事していない人も多くいます。(南 真木人)
 
展示をしていた県名の地名のカードは、例として一部を紹介したもので、もっと多くの県名のついた場所があります。カードの裏に説明を入れたとおり、その地域(県)から団体で北海道に移り住んだので、集落の名前になり、いまも地名として残っているのです。数のうえでは東北や北陸からの移住者が多いのですが、関西や四国、九州からも集団で移住したことがわかります。(齋藤玲子)
 
ウイピルという言葉は、スペイン人がアメリカ大陸にやってきた16世紀頃、メキシコで広く話されていた先住民言語ナワトル語の「ウイピリ」(女性の衣裳の意味)に由来します。現在は、メキシコだけでなくラテンアメリカの多くの地域で先住民の女性用貫頭衣のことをウイピルと呼びます。(鈴木 紀)
 
ラクダにはヒトコブラクダとフタコブラクダに分かれます。ヒトコブラクダの場合、ソマリア、インド、スーダンなどで多いのですが、西アジアから北アフリカにかけて広くみられます。(池谷和信)
 
美しい紋様のあるウイピルは身分の高い女性が正装として着ていたと考えられています。庶民が日常的にどのような服を着ていたかはよくわかっていません。(鈴木 紀)
 
両者の違いの一つは、毒の強さです。アフリカ・サンの甲虫の体液からとれる毒は、あまり強くありません。動物の体内に毒が入ったとしても、動物はすぐに亡くなることはありません。翌日、弱った動物をサンが槍などを使用して仕留めるというのが一般的な猟の形です。(池谷和信)
 
グアテマラのマヤ民族の場合は、古代マヤ文明に由来する伝統を共有しているので衣装の色彩感覚が似ているように見えるかもしれません。しかし、集落ごとに紋様のデザインや色使いが異なる点も見逃さないでください。(鈴木 紀)
 
文化は人類の共有物です。そのため原則的に、他の民族の文化に関心を持ち、学んだり、その人たちが作ったものを入手して使用したりすることに問題はありません。ただし、ある民族がその文化の扱い方に配慮を求めている場合は、それに従うのが礼儀だと思います。グアテマラのマヤ民族の女性たちの中には、自分たちの民族衣装のデザインが無断で盗まれていることに心を痛めている人々がいます。マヤ民族衣装を購入する場合は、彼女たち自身が作った本物を選ぶことと、彼女たちに確実に報酬が払われていることを確認するようにしてください。確認できない場合は、買わない方がよいと思います。(鈴木 紀)
 
世界の国や地域には、それぞれの土地で育まれてきた文化があります。環境が異なれば、異なる文化が育まれることも十分にあります。先住民の生活だからある、都市の生活だからない、と2者択一で判断するのは難しいでしょう。
ただ、先住民の人たちがそれまで暮らしていた環境から離れ、都市に住むと生活の様子が変わることもあります。例えば、先住民の信仰には聖地と言える大切な場所があります。それは山であったり森の中の大きな木や巨石であったりと、自然の中にあるものです。都市に移住したり、遠く離れた場所に住むと、どうしてもそうしたものに日常的に接する機会は少なくなってしまいます。とはいえ、それは必ずしも信仰を失うという意味ではありません。定期的に聖地を訪れたり、都市の生活の中に写真や絵を携えることで、信仰や聖地への思いを持ち続けることは少なくありません。
都市への移住は、先住民の人たちにかぎらず、生まれ育った場所でつくりあげてきた親族や友人たちとの日常的なつながりが薄れてしまうことがよくあります。一方で、移住した人たちどうしが移住先で連絡をとりあい、一緒に食事をしたり、遊びにいったりということもよくあるかと思います。最近では、インターネットを利用したコミュニケーションも盛んです。(野林厚志)
 
民族人口の多少のみが分類の基準ではないため、必ずしも人口と先住民の区分は相関していません。国家民族開発委員会という政府機関は、59の民族を教育や経済の程度、民族統合の程度(民族協会の有無やアイデンティティ醸成の程度)、母語(民族語)が使われる程度、人口などを基準に、「恵まれた民族」、「恵まれない民族」、「周縁化された民族」、「極めて周縁化された民族」、「消滅の危機にある民族」という5区分に分けしました。この区分は、積極的差別是正制度などの支援策を政府が提供する際、優先順位を考慮する目的で作られました。(南 真木人)
 
タオ族の大切な漁労活動に、トビウオとシイラの季節漁があります。2月の終わりから3月にかけて開始し、7月のはじめには終了します。トビウオとシイラは食料としても重要ですが、タオ族の社会のなかでは観念的にも大切な魚とされており、初物がとれた時には祭礼を行います。その際には大切に育ててきた家畜のブタやニワトリを、魚の恵みの御礼として天に返します。それが、船の上でニワトリを切り、その血をシイラにかける行為です。ニワトリはその後、家に持ち帰り家族で大切に食べます。(野林厚志)
 
真珠母貝(アコヤガイに代表されますね)を使った装身具は、素材をそのまま使うとかなり重いですが、うすく削って加工した場合はそれほど重くなくてすみそうです。
とはいえ、貝を使った装身具は確かに重くなります。台湾のタイヤル族の貝性ビーズを縫い付けた男性用の服は10kg以上になることもあります。これは社会的にその地位を認められた人が着用できるものとされてきました。こうした重い服は責任を感じさせるものだよという話もうかがったことがあります。身体感覚も文化や社会と深くつながっているように思います。(野林厚志)
 
先住民サンの場合は、年による降雨の状況によっては芋虫がとれないことがあるのですが、それをよく食べます。女性が、原野に出かけて芋虫を採集します。その後、虫の体液を外に出してから火を通してから食べるのです。昆虫は、人々にとってタンパク源として栄養的にも重要なものです。(池谷和信)
 
タオのこの儀礼はマヌガオイとよばれています。マヌガオイは悪霊、おばけを退散させるタオ族にとってとても重要な儀礼です。新たな家屋の落成式や新船の進水式に際して、男性が渾身の力をこめ、口々に甲高い声をはりあげ、目をつりあげ、頭をふり、大地を力強く踏み鳴らし、左手を下腹部にあて、右手の握り拳を力強く振り回し、アニトとよばれる悪霊を追い払います。目的や行う機会は、マオリのハカとはずいぶん異なるように思います。
ただ、タオとマオリの人たちの母語は両方とも、オーストロネシア語族に属しています。これらの言葉はその祖先を同じくしているとも言われています。もしかすると、マヌガオイとハカには歴史的なつながりがあるのかもしれません。(野林厚志)
 
人類は、肉を得るために毒を使うのであると思います。(池谷和信)
 
まず、現地の自然環境を説明します。灌木と草からなる自然で、部分的に林があります。このため、ハンターが獲物に接近したときに、灌木のかげに隠れることができるのです。つまり、矢の威力が弱くても獲物に到達できる弓が重要であります。また、弓と毒のどちらが先に生まれたのかは定かではありません。私は先に弓があって、そのあとに毒が発明されたと思っています。その結果、キリンのような大型の哺乳類を人は捕獲することができるようになったのです。(池谷和信)
 
毒矢の毒は、土壌中に生息する甲虫の体液からつくられています。(池谷和信)
 
アフリカの(ヒトコブ)ラクダは、逃げてしまうことはありませんが、灌木でおおわれた放牧地で、ときどき迷子になることはあります。放牧では、数十頭のラクダの群れを若者(2人)がみていますが、ラクダの食欲は強く、朝の7時ごろから夜の9時すぎまで放牧する必要があるのです。とくに夜の放牧の際に迷子になることがあります。なお、これは、とてもよい質問です。逃げてしまう家畜にはトナカイなどが知られていますが、それは家畜化が進んでいないので野生的な側面を維持しているためです。ラクダの場合、4~6千年前にアラビア半島で家畜化されていて、その歴史の古さがあるので逃げないのではないかと思います。(池谷和信)
 
自然素材を用いて染めた糸を使っていました。主な色(素材)は1)赤(コチニール、別名カイガラムシ)、2)紺(藍)、3)紫(貝紫)、4)黄色やオレンジ色(アチヨテという植物の実)、5)黒(ロッグウッドという木の樹皮)等でした。(鈴木 紀)
 
石の硬さに応じて穴を開けるのが難しくなります。先史時代においては、対象よりさらに堅い石で先をとがらせて使われていたといわれています。(池谷和信)
 
北西海岸先住民の歌や踊りはもともと家族や親族集団、村ごとに異なっていました。したがって、入場の歌にも家族集団や親族集団ごとに違いがありました。ハイダを例にすれば、現在でも多種多様な歌や踊りが存在していますが、そのうちのいくつかは村全体やハイダ民族全体で共有されています。(岸上伸啓)
 
トーテムポールには祖先と特別な関係にある動物や特別な事件に関係する動物が彫られています。記録に残したい事件や語りたい物語に出てくるいくつかの人や動物を選んでトーテムポールに彫ります。たとえば、民博の新しいトーテムポールは、上からワシ、シシウトル(想像上の生き物で、2つの頭を持つウミヘビ)、ハイイログマ、サケが彫られています。制作者のビル・ヘンダーソンさんは、次のような理由でそれらの生き物を選び、合体させました。ワシは、ヘンダーソン家とゆかりの深い生き物で、ヘンダーソン家の紋章だからです。シシウトルは非常に強い力を持ち、人々を守ってくれる生き物であるためです。クマは、ビル・ヘンダーソンさんのお母さんの家族とゆかりの深い動物で、お母さんが生まれた家族の紋章だからです。ヘンダーソンさんが住む町はサケ漁がさかんで、サケの都(みやこ)と呼ばれているからです。ヘンダーソンさんは4つの生き物を合体させて、民博のためにトーテムポールを制作しました。(岸上伸啓)
 
タンザニアにおけるハッザの人びとの場合、植物から毒をとります。(池谷和信)
 
もともと、彫像は、病気の治療に使われていました。病気の原因となっている精霊の彫像(小さなものです)をつくって、それにお供え物をして、野に返すというものでした。精巧なものが作られるようになったのは、現地の博物館からの依頼や土産物店などで販売されるようになってからです。(信田敏宏)
 
私もカラハリ砂漠に滞在していて、水が貴重ですので、手を洗うことはあまりありません。手に砂をかけて汚れをおとしたりします。スイカの種を細かく砕いて、手をこすってアカをとっているのを見たこともあります。水の供給の少ない乾燥地では、手を洗うことはないですが、意外に清潔を維持しているのです。(池谷和信)
 
北アメリカの北西海岸地域に住む人々は、おもに次のような理由でトーテムポールを作りました。
(1)むかしのできごとを記録したり、祝ったりするために作りました。
(2)なくなったおじいさんやおとうさんをたたえるために作りました。
(3)おはかとして作りました。
(4)家の中のはしらや家の出入り口用のもんとして作りました。(岸上伸啓)
 
ふつうのカルタと同じように、読み上げられたことばに合う札を見つけてとります。読み札は、日本語・アイヌ語のどちらでもできます。
また、裏返しに置いて、神経衰弱のように遊ぶこともできます。
公益財団法人アイヌ民族文化財団のウェブサイトに「アイヌ語教材テキスト」の補助教材として出ており、遊び方の説明もついて、カルタやすごろくなどをダウンロードすることができます。(齋藤玲子)
 アイヌ語教材テキスト[pdf]
 
好きな色や多く使用する色彩は、先住民族によって異なります。したがって、色彩に関してすべてのグループに当てはまる回答はありません。そこで、今回、展示している北アメリカの北西海岸先住民ハイダらの場合についてお答えしたいと思います。これまでの研究によると、ヨーロッパ人と交易を始め、多彩なペンキが入ってくる以前は、この地域で使用される色は、おもに黒、赤、青、緑でした。黒と赤の使用については4000年くらい前から使用されていました。2000年前ぐらいになると、仮面やガラガラの縁(枠)取りに黒や赤が使用されていました。人間の顔の仮面の場合は、まつげは黒、唇や鼻孔は赤で、肌や入れ墨は青や緑が使われることが多いといえます。色の意味ですが、赤については良く分かってはいませんが、トリンギット(クリンキット)という先住民族の間では、青色は貴族や高貴であることを意味していたそうです。(岸上伸啓)
 
アイヌ語に限らず、まったく初めてのことばに接するときは、質問者が推察したとおり、ひとつひとつ指さして聞き取りをするやり方だったかもしれません。言語学者として著名な金田一京助の「心の小径」(旧題「片言をいうまで」)という随筆に、初めて樺太に行ったとき、アイヌの子どもたちから「何?」ということばを引き出して、単語を集めたことが書かれています。

江戸時代には「蝦夷通詞」と呼ばれる和人とアイヌの通訳者がいて、なかには辞書を作った人もいました。明治時代に北海道に来たイギリス人宣教師のジョン・バチェラーもアイヌ・日・英語の辞書をつくりました。後の研究者たちは、先人の作った辞書で学び、現地に行ったことでしょう。金田一京助は北海道アイヌ語の知識があり、樺太アイヌ語の調査に役立ったようです。(齋藤玲子)
 
昔は、自動車や列車はありませんでした。荷物を運搬するためにラクダを飼育したのです。(池谷和信)
 
ラクダは、重い荷物を載せた場合、辛いものであると思います。正確な荷物の重さを測定したことはないのですが、200kg以上は可能かと思います。(池谷和信)
 
多くの方が文様の類似性を指摘していますが、アイヌと北西海岸先住民との間には直接的な関係はなかったと考えられています。ただし、1万4千年ぐらい前に、人々がアジアからベーリング海峡を渡ってアラスカや北西海岸地域に移動し、その後、南下し、南米に達したと考えられています。(岸上伸啓)
 
特別な意味はないと考えます。ただし、踊りの姿勢などが反映されている可能性があります。
なお、人形はかつての北西海岸先住民の姿を知らない人に見て知ってもらうために制作されたものです。また、今回の展示では、展示を見に来た方がその姿を見やすいように配置してあります。(岸上伸啓)
 
主に、センダン科の木(現地ではニレー・バトゥ(nyireh batu: xylocarpus moluccensis)と呼ばれている)と、キョウチクトウ科の木(現地ではプライ(pulai: alstonia spathulata)と呼ばれている)です。これらの木は、マー・ムリの人びとが暮らすカレイ島にありましたが、開発による伐採によってほとんどなくなってしまいました。現在は、他の島に取りに行っています。(信田敏宏)
 
毒が効くのに2日ぐらいかかります。このため、毒を注入したあとに翌日は、獲物の足跡を追うことになります。毒が少しでも効いていると動物を見失うことはないのですが、あまりうまくできない時には、獲物は逃げてしまいます。(池谷和信)
 
足首飾りは、普通、男性の両足首につけられるものです。今回の展示のなかでは、女性のシャーマンが病気治しをしている場面があります。この場合は、女性が足首飾りを身につけます。この事例は、近年になって生まれたもので、注目してよい現象であると考えています。(池谷和信)
 
タオ族と日本列島から琉球列島の人たちがどのように交流していたのかは、それをはっきりと裏付ける証拠はなかなか見あたりません。もちろん、1895年に日本による台湾統治がはじまると、タオ族と日本人との交流はさまざまなかたちで始まることになります。島には駐在所や学校ができて、警察や学校の先生が赴任しました。
興味深いのは、タオ族の住む蘭嶼島が黒潮の真ん中にあるということです。これは、黒潮にのってやってくる同じ魚を、タオ族も日本列島の人たちや沖縄の人たちも見てきた可能性が高いということです。同じ魚を見て、同じ魚を捕ろうと思ったとき、その技術が同じようなものになる可能性はあるかもしれません。人類が自然をどのようにとらえ考えてきたのかはとても大切な研究テーマです。(野林厚志)
 
北西海岸先住民のトーテムポールの素材は、「レッドシダー」と呼ばれるヒノキ科クロベ属の木です。学名は、Thuja plicataです。木質が比較的柔らかく加工しやすい木です。(岸上伸啓)
 
タオ族の船は小さいものはタタラ、大きいものはチヌリクランとよばれています。タオ族の船は中心部に竜骨を据えてその周りに板を組み合わせてつくるので、乗り組む人たちの数にあわせて大きさを変えることができます。1本の木で作るカヌーとは異なります。船の端の部分の曲線を描いた板は、熱帯、亜熱帯地域の木にみられる板根とよばれる部分を利用しています。船の中には美しい彫刻を施されるものもあります。こうした船が完成したあかつきには盛大な進水式が催されます。(野林厚志)
 
ラクダは、背中が地面に平行であり、荷物を安定して置けること、じょうぶな背骨が発達していることで運搬用に使われます。(池谷和信)
 
最初にタバコについてお答えします。北アメリカ中西部の平原地域の先住民は、和平交渉や話し合いの場で参加者がパイプを交換しながらタバコを吸う慣習がありました。彼らにとってパイプやタバコは今でも聖なるもので、そのけむりは邪悪なものを追い払い、その場を清めると考えていました。北西海岸地域の内陸部に住むネズ・パースという集団はヨーロッパ人と接触する以前の1200年前にはタバコを栽培し、吸っていたことがわかっています。また、北西海岸地域のトリンギットやハイダはヨーロッパ人と本格的に接触する以前から、紙タバコをたしなんでいたようです。北アメリカの一部地域ではヨーロッパ人と接触する以前から地元にある植物を利用してタバコを作り、吸う習慣が存在していました。

次のご質問は、研究方法に関するものです。北アメリカ大陸では、ヨーロッパ人らによって新しく持ち込まれた道具や考え方、行動が先住民の文化や社会に大きな影響を与え、変化を生み出してきました。このため、考古学者や文化人類学者、歴史家は、外部から持ち込まれた道具や考え方が、先住民の人々がどのように受容したり、拒絶したりしているか、その過程で先住民の社会や文化がどのように変化してきたかを研究しています。たとえば、かつての極北地域の狩猟採集民であるイヌイットは弓矢や槍で、集団で野生トナカイやホッキョクグマをとっていました。そこに高性能のライフルが入ってくると狩猟のやり方が変わり、集団ではなく、個人や少人数で野生トナカイやホッキョクグマをとるようになりました。このような場合、新しい技術が彼らの活動をどのように変えてきたかを研究します。現在では、車や料理、思想が世界の隅々まで広がるグローバル化が起こっています。最近では、このグローバル化が先住民の社会にどのような影響を与え、先住民の人々がどのように対応しながら生活しているかを研究しています。(岸上伸啓)
 
他にも、バッタ、セミ、クモなどの精霊像があります。ただし、本館では所蔵しておりませんので、収集に努めたいと思います。(信田敏宏)
 
マヤ民族の言語では、通常、「緑」と「青」を区別しません。私たちが「緑」と認識する色は1960年代の化学染料による色糸の普及によって使用されるようになりましたが、伝統的には使われてきませんでした。(鈴木 紀)
 
一般に、貫頭衣(かんとうい)とは、布にあけた穴に首を通して着るスタイルの衣服のことを言います。マヤの女性たちのウイピルも貫頭衣です。(鈴木 紀)
 
輪廻転生は、わかりやすくするために用いたという面もありますが、マレーシアをはじめとする東南アジアには、基層的にインド文化の影響がありますので、マー・ムリの信仰はアニミズムですが、「輪廻転生」というヒンドゥー的、仏教的な観念が見られるのかもしれません。(信田敏宏)
 
①信頼されているのは、トランスによって超自然的力を持つからです。
②シャーマンと言ってもよいかと思います。役割に注目して強調したので、ドクターと呼んでいます。
(池谷和信)
 
アフリカの先住民とは、狩猟採集や牧畜を主な経済的基盤にする非農耕民としてとらえています。具体的には、ピグミー、サン、ハッザ、サンダウエ、マサイ、トゥルカナ、レンディーレ、ソマリ、フルベ、トゥアレグなどが該当します。このため、おのおのの先住民の生態環境に応じて大切にしている動物が異なります。ピグミーではゾウ、サンではキリン、マサイやフルベではウシ、ソマリではラクダなどとなっています。(池谷和信)
 
人食い鳥の仮面が作られた時には恐竜はすでにいませんでした。別の言い方をすれば、この地域の人々は、恐竜がいた時代にはいませんでした。人食い鳥はこの地域に住む人々の神話や伝説に出てくる想像上の生き物です。(岸上伸啓)
 
実は、つむじ風の精霊像の大きさは色々あります。この精霊像は、たまたま小さなものを制作者が作りたかったからだと思います。材料となる木材が手に入りにくくなっているので、精霊像はだんだん小さくなっているということもあります。(信田敏宏)
 
アイヌの首飾りは、おもにガラス玉でできていて、古銭が一緒につづられていたり、金属製の飾りがついていたりすることも多いので、大きめのものは500g前後、重さが1kgを超えるものもあります。長い時間着けていると、首が痛くなると思います。「歌うだけなら良いけれど、首飾りを着けて踊るのは大変だ」と話してくれた人もいます。(齋藤玲子)