国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2008年2月号

2008年2月号
第32巻第2号通巻第365号
2008年2月1日発行
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エッセイ 世界へ≫≫世界から
未来
 養老孟司
 最近は暇があると、虫の標本ばかり見ている。いくら見ても、それまで自分がきちんと見ていなかったことに気づく。それまで気づかなかった、新しい発見がある。世界をちゃんと見るには、人生は短すぎる。しみじみそう思うようになった。
 そんなことはわかっている。若いときには、よくそう思った。でも本当はわかっていないのである。個々のものは見えても、見えたもののあいだのつながりがわからない。ものごとの関係は順列組合せだから、たいへんな数になってしまう。しかもそのつながりに、深い意味があるときと、ないときがある。
 意味のあるつながりがひとつでも見つかると、とても嬉しい。学問上の発見とはそのことである。他人がどう評価するか、それはじつは無関係である。その嬉しさは、経験しないと、むろんわからないであろう。古稀を越えて、そのつながりをまだ探し続けている。
 それだけやっていられれば、こんな幸せはない。そう思うけれども、浮世の義理がいろいろある。それを怠けてもいいと思うほど、もう若くもない。若いときなら、いずれという気持ちがあったが、もはや「いずれ」はない。明日浮世から消えても、べつに不思議はない年齢になった。それならすべては一期一会、そのつど完結しなければならない。そういうのは簡単だが、実行するのはむずかしい。
 ともあれありがたいのは、まだ元気なことである。暇を見つけては、虫を眺めて、ああでもない、こうでもないと考える。日本中いたるところに見られる、ふつうのゾウムシを見ているだけだが、それでも地方による個性がある。それが人間のする地域の区分と妙に一致していたり、していなかったりする。
 思えば当然の話であろう。人間もまた生きもので、もともと自然のなかで暮してきたからである。東北から中国地方にいたる区分にしても、元来は本州というひとつの島になる以前の、独立だった島々の区分を反映している。虫はその過去にむしろ忠実に生きている。虫から見れば伊豆と箱根は別な土地で、それは人間にとっても同じだったから、伊豆と相模にわかれたのであろう。
 知らないことがたくさんあって、人生は楽しい。未来とは、それに気づくことではないのだろうか。

ようろう たけし/1937年神奈川県生まれ。解剖学者。東京大学および北里大学名誉教授。東京大学医学部卒業。医学博士。『からだの見方』(筑摩書房)、『バカの壁』(新潮社)など著書多数。


特集 国境
国家間の政治や経済の関係により、国境の役割はずいぶんと違ってくる。緊張感のただよう国境もあれば、まったく感じさせない国境もある。特集では、国境の諸相を紹介し、人びとがどのようにかかわり合って生きているのかを考察したい。

国境の使命
国境の諸相
 はじめて国境というものを実体験したときの印象は強烈であった。東西冷戦時代の一九七一年夏、鉄道でソ連からフィンランドへ入国したときのことである。国境の最後の駅で、銃をもった兵士が幾人も列車にのり込み、入国の際の税関申告書を片手に財布の中身からベッドの下まで調べあげられた。列車が国境に近付くにつれ、幾重もの頑丈な鉄条網の柵をぬけながら、窓越しにも監視塔の兵士の鋭いまなざしを感じるほど張り詰めた時間であった。
 数年後、今度はフィンランド北部からノルウェーへバスで旅行する機会があった。当時すでに北欧諸国間では国民同士は身分証明書だけで相互入国できることは知ってはいたが、外国人である自分はそうはいくまいと、パスポートを手に検問所を待ち構えていた。やがてバスはバラックのような小屋の前でスピードをおとし、運転手が小屋にむかって手をふるとそのまま通過してしまった。通関職員も見えず、遮断機もない国境にあっけにとられた。国家間の政治や同盟関係が国境にいかに反映するのか、その両極端を見た気がした。
 また、一九九ニ年、バルト三国のひとつであるエストニアの南部での経験である。当時エストニアは、五〇年のソ連支配から独立を回復したばかりであった。ソ連を継承した大国ロシアとは、それまで実質的には行政境界にすぎなかった古い国境の再画定問題で外交ではもめていた。エストニア南部ではまだ国境を示す柵も溝もない森林や畑が多く、しばらくは人びとや物資が往来していた。自分もそれに乗じて幾度かおそるおそる小さな越境をこころみた。しかし、一年も経たないうちに両国間には頑丈な鉄条網の柵や緩衝地帯が設けられ、セトゥ人のように国境の両側に住む人びとは、距離以上に果てしなく遠く隔てる制度によって分断されることになった。
 
国境と幻想
 近代国民国家にとって、領土とそれを囲む国境はその威信にかけても死守すべきものらしい。たとえ何の役にも立ちそうにない不毛の地でもけっして国家は一歩たりと譲ろうとはしない。それは国家民族、国家語などと同じように、国境に取り込むことによって人びとを他から分断し、その均一性と忠誠を確保できると信じる国家の宿命なのかもしれない。しかし実際には、パレスチナやベルファストの例を見るまでもなく、一国の支配下にありながら、物理的な壁とともに、国境以上の精神的な壁が人びとのあいだに立ちはだかっている場合もある。むしろ、そのような地域的な住みわけさえ存在せず、雑居する人びとのあいだにあっても、国民国家が国境に託した甘い幻想は、いたるところで冷酷な現実によって打ち砕かれている。かつて独立回復まえのエストニアではエストニア人の多くは、人口の三〇パーセントをしめたロシア人と決して個人的にまじわることはなかった。
 現在、グローバル化が進行するなか、多文化政策の一環として、多様な言語、文化、はては国籍さえ異にする人びとを住民として国家に取り込む方法が模索されている。国家はそのときどのような使命を国境に託すのであろうか。
 
代理の国境
国境のもつ力
 中国の遼寧(りょうねい)省で長期調査をしている韓国人の研究仲間が、一度ぜひ遊びに来いと言ってきた。「ビジネスマンに観光客に留学生。韓国人がいっぱいいるぞ!」。この誘いに乗って、わたしは昨年九月に初めて中国の地を踏んだ。彼の調査地は大連(だいれん)の東隣りの丹東(たんとう)市。旧「満洲国」について御存知の方には、一九六五年まで使われていた「安東(あんとう)」という地名の方がなじみ深いだろうか。街の東を流れる鴨緑江(おうりょくこう)を挟んで、北朝鮮と接する街である。
 彼が調査の足がかりとしているのは、韓国企業の現地事務所。そこを訪れると、同じく中国の青島(チンタオ)から三年前に家族連れで移ってきたという韓国人の支店長が、北朝鮮資本の料理店に連れて行ってくれた。他のテーブルで中国語が飛び交うなか、北朝鮮から働きに来ているウェイトレスたちと「韓国」語で話すのは、異民族であるわたしにも愉快だった。「今や青島は韓国企業でいっぱいだけど、ここ丹東はこれから面白いぞ。なんせ国境のもつ力がある」。
 支店長の会社は衣料品の委託製造をしている。取引先の工場について行くと、応対に出たのは中国の少数民族のひとつとして認められている朝鮮族のマネージャー、縫製室にいるのは中国と北朝鮮の女性労働者たちだった。
 このように中韓朝の三ヵ国の人びとが行き交うという状況は、この街のいたるところで目にすることができる。中朝が共同統治する鴨緑江に船で乗り出して、わずか数十メートルの距離から北朝鮮の街を見物することは、ここを訪れる韓国人や中国人にとって必須の観光コースとなっている。国境に掛かる橋には、朝は中韓に売る漢方薬や各種工業製品を積んだ北朝鮮のトラックが列をなし、夕方にも同じトラックが積荷を韓国産の家電製品などに替えて並ぶ。極めつけには、河を介して夜な夜な中韓朝の人びとがコミュニケーションをおこなっているという噂話まであり、観光客にとっては格好の土産話ともなっている。
 こうした状況に触れるにつれ、支店長のいう「国境のもつ力」というものが、わたしの目にも見えてくるようだった。

悲しい休戦ライン
 では、どうして支店長は中朝国境の力に頼ろうとするのだろうか。
 各種メディアでも報じられているとおり、南北朝鮮のあいだの往来は過去数年のあいだに目を見開く進展を続け、韓国人の北朝鮮観光や南北の合同運営による工業団地も軌道に乗った感がある。しかし、交流がいくら深まっても、韓国人にとって南北をへだてる線は軍事境界線、つまりあくまで休戦ラインである。その線を越えることは「出境」「入境」とよばれ、厳しい制約下にあるのが現状だ。肯定的に国境だととらえられるようなものでも、必要に応じて自由に越えられるようなものでもない。一般的な国境のようにはいかない、悲しい線なのである。
 ほんらいは北緯三八度にあるその力をほしいままにできないとき、一部の韓国人はビジネスマンや観光客や留学生となり、中朝のあいだに「代理の国境」を見出すのだろう。


時代を映す鏡-中国とモンゴル国の国境の町から
児玉香菜子(こだま かなこ) 総合地球環境学研究所拠点研究員
命の保障から迫害へ
 同じ民族でありながら、中国とモンゴル国というふたつの国に分断されたモンゴル族にとって国境がもつ意味は時代とともにめまぐるしく変化してきた。
 中国内モンゴル自治区はモンゴル国と長い国境をもつ。そのなかでもモンゴル国ともっとも長い国境をもつのが内モンゴルの最西端に位置するエゼネ(額済納)旗だ。
 エゼネ旗は広大なゴビにその上流に降った降雪雨が河川となって流れ込むことで、オアシスが形成されている。ゴビに形成されたオアシスは東西、南北を結ぶ交通と軍事の要衝であった。
 エゼネ旗にはエゼネ=トルゴードとよばれる人びとをはじめ、さまざまな出自をもつ人びとが住んでいるが、なかでも多いのがモンゴル人民共和国(現モンゴル国)に出自をもつ人びとである。というのは、一九三〇年代、多くの人びとが人民革命後の宗教弾圧を逃れて中国へ亡命してきたからである。彼らにとって、国境は命を保障する「境」であった。
 その後、一九六〇年代よりはじまる中ソ対立によって、国境がもつ意味が大きく変化する。軍事的な緊張が高まるにつれて、国境が完全に遮断され、多くの軍人が駐在するようになる。まさに国境は軍事的なシンボルであった。現在でも、当時の塹壕(ざんごう)を国境近くで散見できる。
 一九六六年からはじまり一〇年間にわたって吹き荒れた政治的混乱、文化大革命では、モンゴル人民共和国から亡命してきた人びとの多くがスパイとして迫害された。また、モンゴル国とやりとりをしていた人、訪問したことがある人も迫害の対象となった。皮肉にも、命を保障する国境が迫害の原因となり、政治的な象徴となったのである。

経済的な窓口として
 次いで、一九八九年、中ソ和解によって国境が開かれるようになると、エゼネ旗の国境は経済的な窓口となる。モンゴル国から畜産品をもった多くの人がやってきて、さまざまな日用品を大量に買い込むようになったのである。
 現在、中国政府は環境破壊を避けるため石炭を輸入に切り替えている。輸入先のひとつがモンゴル国である。エゼネ旗の北に良質の石炭を産出する鉱山があるため、ここが輸入の窓口となって大量の石炭が運び込まれている。その石炭を中国各地に運搬する大型トラックが押し寄せている。さらに、石炭を運搬するための鉄路の建設が急ピッチで進んでいる。建設作業のための労働者、宿泊施設、食堂など、町が急速に拡大している。鉄路はさらに多くの人を引き寄せるであろう。国境は、いつでも国の政治経済的な状況を反映する鏡であった。今や、エゼネ旗の国境は激動する中国の象徴となりつつある。


北の国境、南の国境
アメリカへ出稼ぎ
 メキシコには二本の国境がある。一本はティファナからマタモロスにかけて約三二〇〇キロメートルにおよぶアメリカ合衆国との国境である。もう一本はタパチュラからチェトゥマルにかけて約一〇〇〇キロメートルのグアテマラ、ベリーズとの国境である。メキシコ人の生活にはこれら南北二本の国境が大きな影響をおよぼしている。
 メキシコ南部チアパス州のソコヌスコ地方はコーヒー栽培を主産業とする農業地帯である。ここで農家の女性たちと話していると、メキシコ人と国境とのかかわりが見えてくる。フロンテラ(国境)とは普通、近くのグアテマラ国境ではなく、はるか遠くのアメリカ国境を意味する。アメリカで稼いだ金で立派な家が建ったという話をよく聞く。人びとは国境の向こうの富に憧れているのだ。
 しかし実際に国境を越えるのは容易ではない。グロリアの夫は最近アメリカへ行った。夫の話をするとき、彼女は声をひそめる。正式なビザがなくてもアメリカへ入国させるブローカーとどうコンタクトをとるか、そのブローカーに払う高額の手数料をどう工面するか。国境を越えるには、大きな声では話せないことが多い。
 一方、国境を越えた出稼ぎに批判的な声もある。ルーペは夫とともにコーヒー作りに精出す女性だが、二〇〇七年は政府の補助金の支給対象から外れたといって不満顔。金を受けとったのは、夫がアメリカへ出稼ぎ中の世帯の妻たちだという。ところがそうした世帯のコーヒー畑に限って、ろくに手入れもされず荒れ放題のことが多い。さらにルーペは主食のトウモロコシ価格が近年急騰しているのはメキシコ人の出稼ぎと関係があるといぶかる。アメリカ人はメキシコ人を雇ってトウモロコシを作り、メキシコへ輸出する。メキシコ人は稼いだ金を母国の家族に送金し、家族はアメリカ産のトウモロコシを食べる。これが事実とすれば、儲けているのは出稼ぎメキシコ人ではなく、国境をはさんでトウモロコシの生産と流通を支配するアメリカ人企業家たちというわけだ。

グアテマラ人に期待
 ところでルーペが補助金にこだわる理由は何だろうか。補助金があれば人手を雇ってコーヒーを効率的に収穫できるからだ。とりわけ勤勉で従順、豆だけの食事でも文句をいわない出稼ぎグアテマラ人が狙い目だ。コーヒーの収穫期、彼女の村では住み込みで働くグアテマラ人の姿をよく見かける。南から北へ、国境をはさんで賃金は階段状に上昇する。そのあいだで暮らすルーペは、北の国境を越えていくメキシコ人に憤慨しつつ、南の国境を越えてくるグアテマラ人を待望している。
 
ペルシア湾の小島
海の上の国境
 海の上には物理的に国境線を引けない。国連海洋法条約では、海岸線から二〇〇海里(約三七〇キロメートル)より沖は「公海」とされ、国と国が接する「国境」は海原にはない。だが境目が曖昧であるからこそ、海域をめぐってナショナリズムはぶつかり合う。名称問題だけでも議論が尽きない。ペルシア湾かアラビア湾か、イギリス海峡かラ・マンシュか、日本海か東海か韓国海か・・・。
 二〇〇七年春、イラク領海をパトロール中の英海軍兵士一五人がイラン領海を侵犯したとして拘束されたころ、わたしはちょうどイラン滞在を計画していた。しかも、これまで訪れたことがなかったペルシア湾岸まで行ってみたいと思っていた。幸い出発の前日にイギリス人兵士たちは「恩赦」で解放され、国際危機には至らなかった。

ペルシア湾に臨む
 こんな事件の直後だったこともあり、海自体がまだピリピリと電気を帯びているようなイメージを抱きながら、イラン人が行楽に訪れる島、キーシュに行ってみた。キーシュはイラン本土南岸から一八キロメートル沖に浮かぶ小さな島だ。最近のイランの中流家庭はドバイ観光を好むようであるが、国内の保養地としては比較的インフラの整ったキーシュの人気は根強く、何かと話題にのぼるので一度は見ておきたかった。
 島の目玉は、広大な鳥類園と、イラン唯一と謳われるイルカショー。海岸沿いにはホテルが建ち並び、なかでも数年前にオープンしたばかりのダリユーシュ・グランド・ホテルは、アレクサンドロスに滅ぼされたアケメネス王朝の都ペルセポリスを再現したかのような建物自体がアトラクションと化している。ラスベガス的なキッチュな雰囲気は拭いきれないものの、実物のペルセポリスに迫るそのスケール、特に正面の列柱廊と門は結構迫力があり、興味深い歴史の疑似体験となった。
 キーシュはいわゆるフリー・ゾーン(経済特区)でもある。買い物目的で訪れる観光客も多いらしく、島の中心部には巨大なショッピングセンターがいくつもある。
 他のリゾート地と違うイランならではの特徴といえば、女性専用の海水浴場が隔離されていることだ。女性が公共の場で顔と手以外の肌を露出してはいけないという法律のあるイランでは、水着姿なんぞを他人の男に晒(さら)すわけにはいかないのだ。それでも、ズボンのすそをたくし上げ海に入り、海水浴をする家族を一心にビデオに収めているお母さんたちの姿が男性用ビーチの端の方では見られた。この海の沖を外国の戦艦が行き来しているとは思えない、平和な光景だ。
 海は遠浅で澄んでいる。波はほとんどない。小さな魚が群れ、日本の海辺だったらすぐに捕って食われてしまっているであろうウニもいる。ムスリムは、ウロコのある魚を食べることは許されているが、貝・甲殻類・ウニ・タコなどはあまり食べない。
 わたしも足だけ海につけ、日向ぼっこをするヤドカリたちを眺めながら、こんな美しい浜辺に戦車が上陸してくるような事態になりませんように、と祈った。
モノ・グラフ
50年前のメコン河流域
田口理恵(たぐち りえ) 東海大学准教授
 民博の映像音響資料収蔵庫には、旧文部省資料館から受け入れた写真資料約七〇〇〇枚が保管されている。そのなかの約二六〇〇枚は東南アジア稲作民族文化綜合調査(以下、稲作調査と略す)の第一次調査隊が残した写真である。総合地球環境学研究所の研究プロジェクト「アジア・熱帯モンスーン地域における地域生態史の統合的研究:1945‐2005」による研究から、これら写真の存在に行き当たった。この稲作調査は、日本民族学協会が創設二〇周年の記念事業として実施したものだ。第一次調査は一九五七~一九五八年の約八ヵ月にベトナム、カンボジア、ラオス、タイへ、第二次調査(一九六〇年)ではインドネシア、第三次調査(一九六三~一九六四年)ではインド、ネパールに調査隊を送り出している。
 第一次稲作調査による写真は一枚ごとに台紙に貼り付けられ、台紙には整理番号、撮影者、撮影場所、日時と、写真のタイトルもしくは対象に関する説明が書かれている。撮影場所等が不明な写真を除くと、タイが約七八〇枚、カンボジア約七八〇枚、ラオス約九六〇枚となる。もっとも台紙の記載事項にはばらつきがあり、撮影日時が月のみ、場所も国名のみのものから、村の名前や観察内容が詳細に記されているものもある。第一次稲作調査では、メンバーが途中でわかれ別々のルートを移動し、合流し、またわかれるといった動きをしているが、同じルートを動いたメンバーが、よく似た写真を撮っているケースもある。
 稲作に関係する諸事象を写した写真から、道中の様子、記念撮影のような人物写真までさまざまな写真が残されているが、その多くは台紙の記載情報も少なく、何を目的に撮ったものなのか実際のところよくわからない。そこで、五〇年前のラオスを撮影した写真を携え、稲作調査隊の踏査地を訪問する旅を試みた。
 ビエンチャン近郊の村をいくつか回ってみると、一九五〇年代末当時の状況を知っているであろう七〇歳以上の老人が思いのほか少ないことに気づかされた。村では、集まってきた人びとが写真をのぞき込んで思い思いに話をはじめ、また人を呼んでくる。稲刈りや収穫儀礼の写真から、かつての祭りの賑わいについて話に花が咲く。一九七五年の社会主義革命後に政府が高収量品種の稲を普及させてから儀礼の一部がおこなわれなくなったことや、家々や井戸、道路などの様子は一九八〇年代に入るころまであまり変わりがなかったことなどを聞かされた。一九七五年の革命や、一九九〇年代からの急速な都市化が村の生活にもたらした変化の断片、断片を教えられた。
 じつは、子どもたちの写真を見てこれは自分だと言い出す人がいるだろうと思っていた。しかし現在の五〇~六〇歳代にあたる撮影当時の子どもたちは、子どもの写真よりも成人の写真に反応を示す。「これは○○婆さんの若いころだ」と。幼少時からの自画像を記憶しているという思い込みは、成長の過程を収めた写真アルバムをもつわたしたちの側の錯覚なのだろう。
 たかが五〇年、されど五〇年。不安定な政情によって時代状況を探る史料が乏しいフィールドでは、あいまいな内容に翻弄されつつ相手の体験を聞きとり、現在までの変化を推察することになる。その際に”当時を写すモノ“は、相手の記憶を引き出すための手がかりになる。写真というモノの場合、モノが語り出すというよりも、それを肴(さかな)に人びとが、さまざまな事柄を勝手に語り出してくれるのだ。こうした写真の効果を考えれば、データベース化された稲作調査隊写真資料をフィールドツールと位置づけ活用することも可能だろう。
 稲作調査隊は五〇年前の写真を残してくれただけではない。彼らが収集したモノも、一九七五年に所蔵登録された日本民族学協会コレクションのなかにある。民博設置に伴い、日本民族学協会附属博物館から文部省資料館に移管され、そこから民博に移管されたモノたちだ。同時に、この移管の過程が、台紙に貼られた写真が標本資料としてあつかわれるという不思議な状況を一時的に生み出した。神奈川大学常民文化研究所に移管された、日本民族学協会および振興会の事務局関係文書も含めて、日本民族学協会にかかわる諸資料は現在、複数の研究機関に分散している。移動を繰り返したことで権利関係が不透明となり、所蔵先それぞれであつかいの難しい資料になっている。先人が残した調査資料を、あつかいにくい難物とするか、貴重な財産として活用するか、モノを生かすも殺すも、これからのわれわれ次第である。


地球ミュージアム紀行  -アイナ・マハル博物館/インド-
震災に立ち向かう心意気
 二〇〇一年一月二六日インド西端のカッチ地方を襲った大地震では、一万五〇〇〇人以上が死亡し、無数の家屋が破壊された。筆者は震災直後から何回かカッチを訪れ、この地方の古都ブジを中心に復興過程を調査してきた。国際機関、政府、インド内外のNGOの活動により、震災から丸七年が経つ今日、居住エリアの復興はほぼ完了するところまできている。
 しかし、ブジの貴重な文化遺産のひとつ、旧王宮は復旧が大きく立ち遅れている。その一部を利用した博物館であるアイナ・マハルにも手ひどい被害の爪あとが残ったままだ。
 アイナ・マハルは一八世紀半ばの宮殿で、一九世紀創建の新宮殿とともにカッチの政治や文化の中心であった。インド独立後、王家が出資する財団の下でアイナ・マハルのニ、三階部分が博物館となった。二階の入口ホール、王の寝室「ダイヤモンドの間」やその回廊、礼拝用の部屋、王が音楽を楽しんだ「噴水の間」、三階の「謁見(えっけん)の間」などに、王家の調度品、衣服、楽器、写真や絵画が集められ、王族の生活の様子や王国時代の職人芸の粋が展示された。建物自体も魅力的だった。ヨーロッパで修業を積んだ職人が作ったタイルや鏡、回廊のヴェネツィア・ガラスのシャンデリアなど随所に見られるヨーロッパ趣味が、ヒンドゥーやイスラームの様式と融合して独特の雰囲気を醸し出していた。つまりここは、植民地時代以前から既にインドで進んでいた三つの文化の混成の状況がわかる好例だったのである。
 震災の結果、三階部分はほぼ壊滅、また二階も「噴水の間」は大きく壊れ、それ以外も壁や床がひび割れるなどの被害が出た。博物館が私的な財団の下にあることが障害となって政府からの復旧資金がえられず、他の機関も支援に消極的だったため、復旧は進んでいない。昨年一一月にここを訪れた際も残った部分で細々と展示がなされていた。残りの部分だけでも十分見ごたえはあるし、文化の相互交流の様相をうかがうことはできたけれども。
 運営責任者のジェティ氏は、あくまで前向きである。「ないものねだりをしても仕方ない。手に入る資金と材料でやるだけです」と笑う。昨年は政府から若干の補助をえて、三階の部分的復旧にやっと着手できた。もとの資材を生かし、費用の節約に工夫をこらして地元の職人たちが懸命に復旧作業をしていた。災害にくじけない心意気が印象に残る一方、所蔵品の保全や往時の魅力の復活にむけた復旧とその支援の必要性を強く感じた次第である。


表紙モノ語り
現在に生きる頭飾りの伝統
頭飾り(標本番号H204345、幅/24cm 奥行/33cm)
 アフリカ大陸の南部には、サン(ブッシュマン)とよばれる人びとが古くから暮らしてきた。彼らは、野生植物の採集を中心にして、キリンやゲムスボックなどの狩猟をおこないながら移動生活を送ってきた。しかし現在の彼らの多くは井戸の周囲に定住化しており、毛皮製の服ではなく洋服を着て、木製ではなくコンクリートの家に住むようになった。なかには、携帯電話をもつ人も生まれている。
 その一方で、彼らの生活のなかで変わらないものもある。それは、ビーズ作りの伝統である。女性は、ダチョウの卵の殻の破片をくだいて穴を開けて、それを直径五ミリ程度の円形に整え、ゲムスボックの腱(けん)をほどいた糸を使い首飾りを作る。これは、古い考古遺跡から見つかっていることから、人類最古のビーズのかたちであるともいわれる。また、かつてはガラスビーズ、現在ではプラスティクビーズを購入して、赤や緑や青などのカラフルな玉からなる首飾りも作る。つまり、ビーズの素材は変わっても、その作り方やそれを作ることじたいは変わっていない。
 しかし、写真のような女性の頭飾りになると別である。わたしが長期間滞在したサンの村では、頭飾りを作ることはない。その理由はよくわからないが、この頭飾りを身につけてきたのは、ボツワナ北西部からナミビア北東部にかけて暮らすサンの言語集団のひとつクンの女性のみである。かつて彼らの居住域はニ国の国境に分断された結果、親族同志の行き来は法的には難しくなった。しかし、国境上の高さ二メートル余りのフェンスは途切れている場所があり、こっそりとなら現在では行き来することができる。
 残念なことに、一九八九年に、わたしがクンの村を訪れた際には、その頭飾りをつけている人はすでに見られなかった。写真のものは、ダチョウの卵の殻をつなげた白色の部分とさまざまな色からなるプラスティクビーズが組み合わさっており、それらは動物の腱ではなく紐でつなげられている。これは、クンの女性が民芸品として作ったものであり、一九九六年にわたしがナミビアで仲買人から購入したものである。ここでもビーズはさらに進化を遂げていたのである。


万国津々浦々
カントゥの褌(ふんどし)
西本太(にしもと ふとし) 総合地球環境学研究所非常勤研究員
建て替えの費用に
 天理大学附属天理参考館で開催されていた企画展「モチゴメの国ラオス」(民博・総合地球環境学研究所共催)に、ラオス南部の少数民族カントゥの褌「ガン・チャルレン」を展示してもらった。
 褌といっても、関取の化粧回しのような装身具である。長さは約四・五メートルで、基調色の朱に、黒と黄の縦縞が織り込まれ、両裾にはたくさんの鉛玉が縫い込まれている。精霊に水牛をささげる儀礼をおこなうとき、カントゥの男たちはこれを着け、手に大刀と盾をもって「アンヌート(膝曲げ)」という振り付けで水牛の周りを踊る。鉛玉が錘(おもり)となり、踊り手が一歩踏み出すたびにズルッズルッと裾が引きずられる。そのかたちの変化が美しいという。儀礼に欠かせない衣装である。
 四年ほど前、ある行きがかりから褌を日本へもち帰ることになった。現地調査をしていた村で、下宿先の大家が家を新築することになった。その費用の足しに、自分の甥から借り受けた褌を換金するというので、引取りを申し出たのである。
 村では、毎年一~三月の農閑期に五戸前後の家屋が新築される。この村は一九九六年に現在の場所に移ってきたが、移住直後のにわか普請のせいで、多くの家屋が傷んできていた。そのため、建て替えを希望する家がたくさんあったが、二、三年先まで待たされるのがふつうだった。普請は共同事業であり、親族や姻族のあいだで資金や労力を融通し合ってはじめて成り立つから、互いの順番を調整し、少ない資源を集中させる必要があるのだ。それでも、各家の負担は決して小さくなかった。

元の持ち主へ
 大家の甥も、今にも崩れそうな家屋に大家族で暮らしていて、かねて建て替えを希望していたが、まずは、おじたちの普請に最大限、協力する義務があった。そうすれば、いずれ自分の順番が回ってきたとき、彼らの援助を頼みにできる。彼の貧しい家財のなかで、この褌は虎の子だった。町の土産物屋に持ち込めば、結構な値段がつくが、手放してしまえばそれきりである。あれこれ考えをめぐらした末の決断だった。
 物入りのたびに古民具が換金され、むかしをしのぶ「よすが」が失われていくが、村の人たちはそれほど感傷的でもない。むしろ親族間の助け合いのほうが、よほど確かなものとして頼みにされているように見える。そして、親族関係に参与し続けるには、少々強制的に見えなくもないが、この気前のよさこそが肝要なのだ。
 褌の話も、大家が高いことをいうので最初、聞き流しかけたが、急に思い直して預かることにした。時間を十分おいて、元の持ち主にプレゼントしようと思う。彼は当時、日雇いの仕事をしながら、二人の子どもを町の学校に通わせていた。プレゼントしても、また売りに出されるかもしれないが、成長した子どもたちが、これを着けて儀礼に参加する機会がきっと一度くらいはあるだろう。押入にしまい込んだまま、虫に食わせるわけにもいかず、今回、展示の機会をえたのは幸いだった。


時論・新論・理想論
「脚のない鳥」からの便り
影響力のある世界華商大会
 会議中、携帯電話に留守電が入っていた。耳に響く印象的な広東語アクセントの中国語。「今東京にいるので会いませんか。神戸で会った『脚のない鳥』です。覚えてますよね」とのメッセージ。二〇〇七年秋、世界華商大会のVIPミーティングで会った香港華商だとピンときた。
 「華商」とは、中国系の企業家やビジネスマンのことである。目まぐるしい成長を遂げている中国の広大な市場を背景に、世界経済での存在感を増している。中国市場に参入を図る外国企業や経済人は、ことばや文化、社会的な繋がりなどに精通する華商の仲介を頼りにしている。わたしに電話をくれた香港華商も、アジアを中心に不動産事業で活躍している。
 彼とは二〇〇七年九月に神戸で開かれた世界華商大会で出会った。同大会は、二年おきに世界各地でおこなわれ、各国の経済に一定の影響力をもつ華商たち数千人が集合し、名刺交換、情報交換をする。
 世界華商大会の開催は、その開催地の行政にも大きな意味をもつ。行政は自国に住む華商と連携し、国や地域のビジネスを宣伝するとともに、各国華商からの投資の誘致や経済協力関係を構築することができる。昨年の開催地である神戸も、阪神大震災を経験し、地域の復興と発展のため、十数年来大会の誘致に力を入れてきた。そして、その思いがようやく実り、第九回大会を主催。世界三三ヵ国・地域から、約三〇〇〇人の参加者が神戸に集まった。フィリピンからは大手の銀行や航空を支配する経済界の重鎮、タイからは政界と強いコネクションをもつ有名華商などが参加した。

「関係」を武器に
 冒頭の香港華商も中国、シンガポール、日本、アメリカを飛び回り、ホテルやショッピングモールの開発事業などの投資をコーディネートする新進気鋭のビジネスマンだ。同じようなビジネスマンが集う世界華商大会では、話のスピードも早い。中国と羽田間を往来するプライベートジェットの計画を話す日本の華商の一人に、彼はすばやい反応で、「小型ジェット機ね。アメリカにいる友人に話をしてみよう。今度紹介するよ。いつ香港に来る?」と切り返す。わたしに笑顔で「こんなビジネスの仕方だから、僕には翼はあるけど、脚がないみたいに感じるんだ」と語った。実際、香港を拠点にしている彼が自分のオフィスにいる時間は限りなく少ない。「根無し草」のようで不安要素が多いと思われがちだが、彼の事業拡大のバイタリティーは不安をはるかに上回る。
 華人社会では特に「関係(グワンシー)」が大切だと言われる。ビジネスにおいてもコネクションや人脈がものを言う社会だ。関係の象徴である名刺を頼りに、ビジネスのネットワークが展開されていく。世界華商大会は、関係を築く格好のチャンスであり、ここで集めた名刺が次のビジネスの扉を開ける招待状になるかもしれない。
 「脚のない鳥」たちが「関係」を武器に世界中を飛び回る。明日の世界経済の潮流を描き出しているにちがいない。華商大会誘致を一過性のものとせず、同じ潮の流れを感じビジネスチャンスを掴みとることができるか、日本の鳥たちにも問われている。


外国人として生きる
蕙質蘭心(フェッランシン)-蘭のよき香りを日本で。台湾から嫁いで四半世紀
山口隆子(やまぐち たかこ) 神戸大学大学院総合人間科学研究科
子どもたちの学習支援
 「クラブ活動より学校の勉強の方が大事だよ。さぼらないで。この字は何と読むの?・・・そう正解。そしたらこれは?」
 窓の外から奈良公園に向かう行楽客の賑やかな声が、この奈良市三条通りに面する公民館の一室にまで聞こえてくる。ここでは、宿題と格闘する子どもたちへの王蕙懿(ワンフェイ)さんの元気のよい声が響く。
 毎週日曜日の午前中、外国人家族とその子どもたちがいちばん困っている学校での勉強や宿題をサポートする教室がもたれて一〇年が過ぎる。子どもたちのほとんどが奈良市周辺に住んでいる。彼女に叱咤激励されていた中学一年生の女の子は、中国からやってきた。午後からの友達と遊びに行く約束で落ち着かず、目の前の宿題に気もそぞろだ。「クラブの友達とのつきあいも大切やねん」とできない宿題を前に、訴えるように困った顔をわたしに向ける。やがて子どもたちが一通り課題の宿題を終えたとき、おやつの菓子が配られる。そこにはさっきとは違う、優しい顔の王さんがいた。

めぐりめぐった縁で日本へ
 王さんは台湾出身である。来日前、彼女は台北市内からバスで一時間のところにある巴峻(バリェィン)で、国民小学校の代理教師を一〇年以上してきた。子どもが大好きな彼女は、彼らが生きていくためには知識こそ不可欠であることをそのときの経験から学んだ。だからこそ、異国にあって苦労する子どもの勉強に関しては特に熱心で、常日頃うるさく言っている。特に日本語の力をきちんと身につけておくことがすべての出発点となるのはいうまでもない。
 彼女が来日したのは一九八四年九月二五日である。理由はお見合い結婚をした相手が「日本人だったから」である。お見合いのきっかけは、「わたしの大学の同級生の、その同僚のお父さんの、日本人の友達の奥さんの兄が夫となる人だった」と、めぐりめぐったパズルのような縁を、ついこのあいだのことのように鮮明に、とても愉快に話す。ちなみに「大学の同級生の同僚のお父さん」という人は、日本の台湾統治時代に広島で六年間暮らした経験をもつらしい。
 日本に関してほとんど知らなかった彼女は、来日して二年目、家族旅行で温泉に行った。入浴方法も知らないまま、タオルももたずに大浴場に行き、そこで目の前の石鹸を直接体につけて洗った。そのとき、その場にいた家族のひとりが、「やっぱり外人」と言った一言が、今でも悔しいと言う。来日当初から一生懸命、少しでも早く日本の生活に慣れるよう努力したにもかかわらず、たった一度の行動をとらえて「外人」と言われたことに、言いようもない疎外感を味わったのだ。今では「日常生活では、外国人として生きているという意識は薄い」と彼女は言う。彼女にとっては、外国人であることを意識するより、どのような環境にあっても、毎日、人間としてどういう目標や希望をもって生きていくかということの方が大切だからだ。

医療通訳介助から身の上相談まで
 この王さんも、来日するまで日本語がまったく話せなかった。しかし、その後、努力を重ねて、日本語検定試験の一級に合格する。これが、奈良県での中国人のための自立指導員や民間通訳として活躍をする基礎となった。日本語が使えず日本の文化を知らないことで、自分も経験してきたさまざまな悩みをもつ人びとの相談にのってきた。また、真夜中でも中国人の急患の連絡があると駆けつけ、病院側と患者のあいだにたって二四時間態勢で通訳をおこなう仲介人としても活躍してきた。これらの活動で彼女は「多年にわたる功労・日本財団賞」を受賞している。
 述べてきたような公的支援活動の枠外でも、日本人と結婚して経済的に満足している外国人女性に、貯金や就業で生活を防衛する処世術を助言するなど、外国人の自立を目標とする立場はわすれない。この点が外国人の子どもたちの学習支援もつながっているといえる。
 来日して二三年が過ぎた。最近の彼女には、夫が昨年末に脳の疾病で突然入院したために、介護というあらたな役割が加わった。考えてみれば長い年月が流れたあいだに、夫や義理の両親の高齢化や介護という現実問題に突き当たるのは、外国人とて当然のことかもしれない。それでも、昨年は台湾で、一ヵ月一〇〇時間の研修に挑戦し、台湾の「導遊人員執業證」と「領隊人員執業證」を受験して見事に合格した。個人ツアーと団体ツアーの添乗員の、台湾の国家資格である。さらに、彼女は二〇一〇年までに、日本の通訳案内士国家試験に合格するという次の夢をもっている。
 王蕙懿さんの名前の由来は、蕙質蘭心といって、蘭の一種である蕙からとり、蘭のように美しい心を持つ清々しい女性になって欲しいと両親が願いを込めてつけた。台湾の標高一〇〇〇メートルの山の上で育つこの蕙は、とても芳しい香りがするのだ。今、王さんは子どもたちと朗らかに、そして前向きに、一緒にいる人びとをしあわせにする香りを放ちながら、この社会に暮らしているようにわたしは思える。

地球を集める
伝統貨幣 危機一髪
モノとの出合いはドラマだ
 モノを集めるといってもいろいろな集め方がある。カメルーンのある地方では、村に滞在しているあいだに、日常の生活用具で要らなくなったモノを集めていると広くアナウンスをして、村びとの方から要らなくなったモノをもってきてもらうことにした。受けとるときに、材料や名前や使い方など基本的な情報も同時に入手できるので、これは効率のよい集め方であった。しかしこの方法の難点は、ある程度の期間一ヵ所に滞在し、なおかつ集めたモノを保管しておく場所を確保する必要がある点であった。
 また集めたいものがある特定の分野のモノになると、それを所有しているかもしくは所有していそうな人を訪ね交渉することになる。たとえば仮面などの儀礼関係のモノを収集するときはそのような方法をとる。このような収集では資料をまとめて購入するケースが多いので、事前に搬送や輸出、支払いなどについて十分に準備しておかねばならない。あるとき入念な準備をして再訪したところ、所有者が突然死していたことがあった。購入の話はもちろんご破算である。
 いっぽうで偶然にモノと出合うということもまた多い。こちらが期待もしていないところで、これまで文献でしか知りえなかったモノの現物に出合うと、これはどうしても入手したくなる。また、すでに現物が無くなってしまったと思っていたモノに出合うこともある。ここに紹介する伝統貨幣の収集はそのような例であった。

鍛冶屋の仕事
 熱帯アフリカの農村を訪れると、すこし大きな村になるとたいてい鍛冶屋があった。農具の製作や修理をおこなう鍛冶屋の存在は、農村生活には欠かせない。
 北カメルーンのドゥル族の村の鍛冶屋は、畑仕事をまったくしない鍛冶仕事だけで生計を立てていた。作業場を兼ねる村はずれの彼の家を訪ねると、いつも村びとの誰かがいて話し相手に事欠かないのだった。ときにはとおりすがりの旅商人などもここで歩みをとめ、村びと相手に近隣の噂話を披露する光景も見られた。
 カメルーン高地の主邑(しゅゆう)バメンダにほど近いマンコン王国でも、鍛冶屋が数軒あった。彼らは単に村の鍛冶屋という以上に、マンコン王国では重要な家筋と認められており、王国の儀礼では重要な役割を担っていた。マンコンの王を象徴する神器のひとつに鉄製の槍がある。王はさまざまな儀礼に鉄製の槍を携行する。また王のことばを村びとに伝えるときは、代弁者にことばとともに槍を託する。槍を手にした代弁者のことばは王のことばなのである。
 現代ではこの鉄製の槍は王の象徴として人びとの目に映るが、もちろん本来は武器である。カメルーンがドイツの植民地になる以前は、王国間で争いが絶えなかったという。その時代の主要な武器はこの鉄製の槍であった。鉄製の槍は王の象徴として王国の命をまもる武器でもあった。

くず鉄か文化財か
 わたしが訪ねた鍛冶屋は、もはや鉄の槍を作ってはいなかった。彼はもっぱら鉄砲を作っているという。この鉄砲は火薬を爆発させるだけの、あくまでも儀礼用のものであるが、今ではマンコンの男子が王国の儀礼に参加するときには欠かせない小道具である。彼の鍛冶仕事を観察しつつふと作業場の隅を見ると、一見スプリングのようなかたちをした金属が目についた。あれは何かと問うと、むかしの貨幣だという。かねて話に聞いていた伝統的貨幣で、マンコンではむかしは婚資の支払いに使っていたというモノだ。何にでも使える通貨ではなく目的を限定した貨幣である。わたしはもうすでに無いと思っていたので、小躍りする思いでそれを手にとり、写真を撮ったりノートに描き写したりした。鍛冶屋はそんなに欲しいのならもっていけと言う。これをどうするつもりだったのかと聞くと、彼はこれをたたき伸ばして鉄砲の部品を作るつもりだったと言う。ああ、間一髪だった。
 時代が変わり、人びとのニーズが変わると、鍛冶屋は当然その時代の人びとが求めるモノを作る。そこでは前の時代の有用品は単なる材料としての価値しかもたなくなる。文化財のように長い時代を生き延びるモノもあるが、ある時代の文化を象徴するモノが、時代の価値観の変化のなかで単なる材料として溶解され消滅した例は、数え切れないほどあるにちがいない。


生きもの博物誌 【水牛】ラオス
 水牛の放し飼い
高井康弘(たかい やすひろ) 大谷大学教授
休閑地の利用
 ラオス北部の農村で水牛について調べ始めたころのことである。水牛を多数飼っているというのに、その姿を見かけない。問うてみると、「パーに放している」と答える。「パー」は森や林や藪や野を意味する。ただし、「パー」ならどこでも良いわけではない。焼畑作後に休んで、まだ一、二年で、草や幼木だけの若い林野に、彼らは水牛を放す。休閑後四、五年経ち、木が高く茂る「年をとった林」になると、食べ物は無いので水牛は入らない。
 農村の人びとのおもな生業は水田稲作である。しかし、彼らは周辺の山腹を焼き、陸稲や雑穀を作ってもいる。その後の休閑地が放し飼いの適地なのである。村人は、若い林野のなかでも、水牛の好物の笹などが群生し、かつ渓流など水場のある地点を選び、水牛を放す。水牛たちは数頭から十数頭程度の群れを作る。一〇歳前後の雌のリーダー水牛たちに率いられて、群れは渓流沿いの一定範囲を行き来する。
 彼らは水牛を放すといっても、放置するわけではない。定期的に林野にわけ入り、様子を見に行く。水牛は用心深く、見知らぬ人が来ると藪に逃げる。しかし、飼い主が塩を携え訪ねると、向うから来る。その際、怪我の治療などの世話をする。数名の村人が同一地点に水牛を放している場合には、通常、交替で見に行く。年中、林野に水牛を放す村もあれば、雨季のみ林野に放し、乾季の稲刈り後は圃場に移す村もある。水牛が圃場(ほじょう)で草を食み、糞を落とすことで、除草や施肥の作業を省くことができる。

水牛が減る背景
 ラオスでは水牛は多面的に利用されてきた。水田耕起などに使う役畜として、精霊を祀る際に供する血肉として、宴のご馳走の食材として、あるいは交換財として重宝されてきた。
 しかし、近年、農村では水牛が減少している。放し飼いの適地の縮小がその一因である。一方で、保護森などに指定された区域では焼畑が禁止になり、若い林野が減っている。かたや、幹線道路に近い便利な低地や山腹で、隣国市場向けのトウモロコシ等換金作物の作付け地やゴムの園地が拡大している。
 その結果、飼い主は水牛をこうした農地の近くに放さざるをえなくなっている。群れに見張りを付けたり、夜間は繋留(けいりゅう)したりして気を配るが、水牛が作物を食害し、弁償問題になるケースが多発している。そのため、農林業振興区域では放し飼い禁止の措置が採られつつある。行政の指導にしたがい、遠隔の放牧区域に水牛を放すか、常時繋ぎ置くことが、市場向けの農林業と両立するための方途である。しかし、事は円滑に進んでいない。農業や漁撈や薪採りなどさまざまな生業の合間に、水牛を飼ってきた村人にとって、飼料用の草刈りなどで時間と労力が取られる飼育方式への変更は、生活スタイル全体の変更を伴うからである。水牛を仲買人や屠畜(とちく)業者にすべて売ってしまう人が増えている。
 ラオス北部の大小の街の生鮮市場では、豚肉とともに水牛肉が売られている。行商も農村を回る。かつては人びとは祭りなど稀な機会に、水牛を一頭、協働して屠畜し、宴で食するだけであったが、今では水牛肉を日常的に気軽に購入できるようになってきている。しかし、近郊農村の水牛は枯渇し始めている。近い将来、ラオスにおいても水牛に接した経験が無い子どもが増えそうである。

アジア水牛 (学名:Bubalus bubalis )
いわゆる水牛にはアフリカ水牛、アジア水牛などがいるが、それぞれ、属や種が異なる。アジア水牛の大半はインド、中国、パキスタン、東南アジアで家畜として飼われている。約5,000年前にインドで家畜化されたといわれる。アジア水牛はインド等に分布する河川水牛と中国、東南アジアに分布する沼沢水牛に区分される。熱帯、亜熱帯の生きものだが、直射日光下での体温調節が苦手なため、昼間は薮中などの日陰や水中でじっとしている。
 

フィールドで考える
旅をしていた日々の記憶
門田岳久(かどた たけひさ) 東京大学大学院総合文化研究科
お遍路さんの日常
 二〇〇六年の夏のある日、居候(いそうろう)をしていた家の居間から御詠歌を唱える声が聞こえてきた。御詠歌とは仏教の教えを和歌調にしたもので、巡礼のときに歌われる。宗派や地域ごとに独特のメロディーがあり、慣れるまでにはちょっとした練習が必要だ。この家の主人は何度も四国遍路を経験した人なので、近々巡礼を始めてみようと思っている友人や親戚などが教えを請いに集まって、こうして御詠歌の練習会をやっていたのである。
 しばらく聴いていると、やはり先達(せんだつ)とビギナーの違いがわかってきた。まだ始めたばかりというおばさんの御詠歌はひとつひとつの単語がクリアに発音され、教本を「読み上げている」という感じがしたが、先生役のおばさんの方は、ことばが数珠繋ぎとなって流れるような響きをもっていた。上手い読経とは何を言っているのかわからないように詠じることだ、と知人の僧侶が冗談交じりに言っていたが、それは御詠歌も同じようだ。
 日本海に浮かぶ島、佐渡。一〇年ほど前から四国遍路が静かなブームと言われているが、この地域にはそれ以前から熱心に巡礼をおこなっている人びとがたくさんいた。とはいえ遠い巡礼地にそうたびたび行けるわけではない。先立つものが必要だし、何より普段の生活があるからだ。当たり前だが、「お遍路さん」は常に「お遍路さん」なのではない。日常には日常の仕事や、家や街の出来事があって、他の人と同じように過ごしており、何年かに一度、それも数週間のあいだ白装束に身を包むだけの話である。ただ彼らが違うとすれば、他の人より少しだけ熱心に念仏を唱えていたり、あるいはまた巡礼の旅の指南役を頼まれたりすることだ。日常の暮らしのなかで巡礼経験者は、あらたな旅人を育てているのである。

事足りることと満ち足りることは別
 佐渡を「島」という響きでイメージしていると、まずその広さに驚く。面積は東京二三区より大きく、車で島を一周しようとしたら軽く一日が終わってしまう。必要なものはだいたい手に入るし、中心部に行けば大手レンタルビデオ店もある。大学はないけれど、いくつかの高校と専門学校はある。世帯所得は本土の六割程度と言われ、仕事は少ないものの、相互扶助的なシステムが強く、生きていくのに困るほどではない。つまり島で暮らすということは、かなりの程度島のなかだけで事足りると言うことでもある。
 だが事足りるということと、満ち足りることとは別のようだ。いいところですねとわたしが言うと、「まぁたまに来る分にはな」と地元の人は笑って答える。島の内である程度生活が成り立つと、逆に外へ出る機会が見つからなくなってしまう。島の暮らしにはまた、一種の閉塞感があるのだ。この地域では島の外のことを「旅」といい、島外から来た人間を「旅の者」と称するが、その響きにはよそ者への警戒感というよりは、外を知っている者への羨望の意味合いが込められているように思う。島というのは、新しい技術や知識はほぼ全て外からやってくる。だから外の文化を無条件に正しいとみなす人が多い、ということを言っていた人がいたが、なるほど確かに佐渡では、街作りのあり方をめぐって地元の意見が対立したときなどに、旅の者の意見がすんなりとおることが案外多い。
 そんなわけで、島の暮らしにおいて旅は独特の意味合いをもつ。別に永遠に帰ってこないわけではない、でも少しだけ抜け出して外の世界を生きてみたい。巡礼も、島で暮らす人びとにとって旅に出るひとつの方法である。もちろん今では観光旅行で自由に出られるが、巡礼は、信仰心と観光気分を同時に満たす伝統的なツーリズムだったのである。

みんなが良い経験をしている
 さて、巡礼経験者があらたな旅人を育てると言っても、わざわざ布教活動をするわけではない。それでも自然と巡礼に関心をもつ人が出てくる背景には、旅から戻った人が自分の経験を周りに語り継いでいくことの役割が大きい。
 おばあさんたちの茶飲み話のときに、ある人がこんな話をしていた。四国八十八ヵ所をめぐったときは、毎日が体力勝負で感慨にふける余裕もなかったのだけど、いちばん最後の高野山に参ったときに見た菩薩像の顔が、どういうわけか幼いころに亡くした母の顔に見えて、その瞬間に全身の力が抜けて自然と涙がこぼれ落ちた。あのときの御顔がとても記憶に残っている、と。
 巡礼にせよ島外での仕事にせよ、「ここ」ではない別の場所でおこなわれた旅の経験は、記憶をことばにしない限り他者には伝わらない。この奇跡譚のような巡礼経験の語りはある種のパターンをもっていて、誰が話してもじつは大差はないのだが、聞く側にとってはその分、「みんなが良い経験をしているんだ」と感じることができる。こうした語りはちょっとした集まりのときの世間話によく出てくる。そして話を聞いて巡礼に興味をもった人が、御詠歌を教えてくれと先達のところにやってくるのが、冒頭の練習会だったのである。
 そういえばフィールドワーク中、わたしは「旅の若い兄ちゃん」と紹介されることがあった。ふらっとやって来てまた帰って行く人類学者などというのは旅人の典型だ。巡礼の思い出を盛んに語るおばさんたちを見て、最初は随分話し好きな人たちだと思っていたのだが、こうして旅=フィールドの日々の記憶を語っているわたしも、じつは同じ部類のようである。

みんぱくウィークエンド・サロン 研究者と話そう


次号予告・編集後記
 今月の特集のテーマは多くの人がさまざまな錯綜する体験をもつ国境である。国境によって表象される国家の威信、その威信に比べ意外に簡素な物理的国境、あるいは標識さえないケース。入管も身体検査にちかいこともあれば、パスポートを開けさえしてくれないこともある。しかし国境には元来、平穏で標識すらない自然のなかにあっても、怖く、冷淡なイメージが付きまとうものだ。 以前、エストニアとロシアをわけるプスコブ湖上で、小船の漁師が突如、すぐ対岸に見える、人影のうごくロシア側の監視塔を指しながら、もうロシア領に入っているかも、とつぶやいた。冷戦時代でもないから、とボートを出してもらっていたのだが、いわれた際には、今にも銃弾が背中に飛んでくるのでは、と冷や汗が出た経験がある。地元の人の越境の際には、国境警備のボートで連行され取り調べがあって普通はその日に帰してくれるらしい。しかし外国人ならそうはいかなかったはずだ。変な冒険心でひんしゅくを買うようなことをせずよかったと今も思う。(庄司 博史)



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