国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2008年6月号

2008年6月号
第32巻第6号通巻第369号
2008年6月1日発行
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エッセイ 世界へ≫≫世界から
顔から性格がわかるか? -顔学と人相学-
原島 博
 わたしの専門はコミュニケーション工学ですが、二〇数年前から人の顔にも関心をもち始め、一九九五年には「日本顔学会」という学会を設立するお手伝いをしました。今では会員約八〇〇人の学会に育っています。
 日本顔学会では「顔学」を研究のテーマとしています。でもそれは今でも「人相学」と間違われます。そのようなとき、わたしは次のように説明することにしています。「ある顔を見たときに、周りがその人のたとえば性格に関して同じような印象をもつとすれば、それが何故であるかを探ることは顔学である。でもその印象が本当であるかまでは踏み込まない。顔学は顔から性格を当てたり、未来の運命を予言するまでには至っていない」。
 でも、このように答えても相手はしつこく聞いてきます。「先生はわたしの顔を見て性格がわかりますか?」
 それに対してどう答えたらいいか、正直言って困ります。表情まで含めて観察すればもしかしたら六〇~七〇パーセントくらいの確率でわかるかもしれません。でも顔学者としては、それを相手に言うかどうか迷います。もしわたしが人相見であれば、そのくらいの確率で言い当てたら、相手は拍手喝采するでしょう。でも顔学者としては、当たらなかった方の残りの確率を気にします。もしそれが何らかのかたちで社会的な差別に結びついたら・・・。
 さらに本質的な問題もあります。もし顔と性格のあいだに相関があるとしたらですが、それは「性格が顔にあらわれた」のでしょうか。それとも「顔が性格を作った」のでしょうか。
 わたしは後者、すなわち顔がその人の性格を作った可能性がかなりあると思っています。たとえば陽気であると周りから見られている顔のもち主は、周りの期待に応えて自然に陽気に振る舞おうとします。そして次第に自分自身も陽気な性格だと思い込むようになります。もしかしたら、性格は、顔を通じて周りの社会が作っているのかもしれないのです。
 わたしは、顔は決して独立に存在するものではなく、見る人と見られる人の関係のなかにあるという立場をとっています。さらに言えば、顔だけでなくその人の性格もまた、社会や文化との関連で作られていくものなのです。顔と性格、この関係だけを見ても顔学はむずかしい・・・これがわたしの実感です。

はらしま ひろし/1945年生まれ。東京大学大学院情報学環教授、日本顔学会会長。1980年代半ばから「人と人の間のコミュニケーションを技術の立場からサポートする」ことに関心をもち、顔画像処理を中心とする「感性コミュニケーション」などの研究にも力を注いでいる。『感じる・楽しむ・創りだす感性情報学』(工作舎、共著)など著書多数。。


みんぱく インタビュー
民族学の枠を超えて
ヨーゼフ・クライナー
1940年オーストリア・ウィーン生まれ。法政大学特任教授。ドイツ・ボン大学日本文化研究所所長などを経て現職。ヨーロッパのみならず世界における日本研究の泰斗。著書は『日本民族学の現在』(新曜社)『江戸・東京の中のドイツ』(講談社)ほか多数。


 ボン大学元日本文化研究所所長のヨーゼフ・クライナー氏は、日本研究を通じて、民博の創設以前から当館にかかわり、特別展「ケンペル展」や「シーボルト父子の見た日本」、また谷口シンポジウム文明学部門などで民博の活動を支援してこられました。そこで、開館から三〇年の歩みを踏まえ、次の展開を考えるうえでのお話をうかがいました。
-民博も開館から三〇年経って、その次を考えるときに、長く民博にかかわってきていただいているクライナー先生の、お考えをお聞かせください。

文化外交としての博物館機能
 わたしは、梅棹先生の頭のなかで少しずつ民博のかたちができあがってくる誕生前から民博と親しい関係にあるし、日本研究を続けてきた三〇年間、民博はいいパートナーだったし、先生でもあった。そういう関係にあるから、これからの民博にも大きな興味をもっているし、わたしが何か少しでも恩返しできればと思っております。
 民博の展示について言うと、展示されているモノが多すぎるという意見もありますが、これでいい、今でも通用すると思います。例えば、「日本の文化」展示の祭りと芸能のところへ行くと、祭りのインパクトを強く受けます。ショーケースに入っていない点が非常に大切だと思う。今後手を入れてもらいたいのは、ヨーロッパ展示です。ヨーロッパから日本が受けた影響は非常に大きかったから、これを紹介する必要がある。
 グローバリゼーションを紹介する必要があるという議論もありますが、日本文化のグローバリゼーションを展示するには、また別の博物館が必要になるでしょうね。
-日本展示の最後に、特別展「多みんぞくニホン」のような企画をもってきて、在日外国人の展示をやるという手もあります。
 民博は日本にひとつしかない民族学の博物館ですから、一般の人はもちろん、政治家や外交官のシンクタンクの役割を果たさないといけない。ですから、多民族文化日本の問題を強く出した特別展などを、政治家にアピールしてね、民博に来ないとサミットに参加できない、というくらいにする。民博は自信と使命感をもってやらなくちゃと思います。
-文化をとおした外交、一種の文化外交ですね。ヨーロッパでは博物館がそうした機能を果たしていますか?
 少なくともフランスは、他の国より意識している。新しくできたミュゼ・デュ・ケ・ブランリー(ケ・ブランリー博物館)には元ミュゼ・ドゥ・ロム(人類博物館)にあったモノを展示してある。フランスは外交としてああいう博物館・美術館をもっているし、アピールしますよね。
-今のお話は、民博は、ただ民族学の博物館や研究所というだけではなく、外交とか国際的な関係のなかでの立場を考えるべきだ、ということですね。
 誕生以来、民博は博物館か研究機関かの議論があるけれど、展示と研究をうまく新しいひとつのかたちにしなければならない。そうすると外国の博物館に対しても大きな意味をもってくる。モノを集め、整理し、展示するだけでなく、モノを生産している文化を研究する、こんなに大きな研究部をもっているところは、外国にないですよ。
 大事なのは、博物館をもっていること自体が研究所にとって迷惑なものではなく、非常に大切な一面であることを意識することです。
-かつては博物館と研究センターが車の両輪だったのですが、最近は「博物館をもっている研究所」という言い方をするようになっています。これは戦略の変化です。

長期の学際的共同研究を
 おそらく、民博はアチック・ミューゼアム以来の、しかも規模をはるかに超える試みじゃないですか。渋沢敬三先生もオーガナイザーとして学際的に当時は共同研究とおっしゃって、日本民族学会・人類学会の連合を進めた。戦後は、六学会とか九学会連合の共同調査があったけれども、残念ながら時代が変わって、学会同士の連合の必要が少なくなり、海外調査の可能性も増えたので、九学会連合は解体・解散した。今や、学際的な研究はこの民博でないとできないんじゃないかな。研究者にしても、民族学、文化人類学の出身だけでなく、歴史、情報科学、考古学出身の先生もいたりした。
-以前は、佐々木高明先生が中心で進めた「日本民族文化の源流の比較研究」、祖父江孝男先生などが推進した「現代日本文化における伝統と変容」というふたつの特別研究にくわえ、民族学と文明学の二部門の谷口シンポジウムが走っていた。
 ああいう、今すぐ何か成果を出さなくてもいい長い目での共同研究プロジェクトを民博は続けていってほしい。二一世紀の今、民族とは何かを考える必要がある。例えばバルカン半島に行くと、共通の文化をもっているけれど激しく競り合っている。いい意味の場合もあるけど、場合によっては殺し合うまで戦っている、基層文化は同じでもエトノスは違う。つまり、民族とは何か、というような民族学がずっと抱えている基礎研究を民博は長い時間幅で続けなければならない。もちろん応用研究も必要で、さきほどの政治家向けシンクタンクの提案は応用研究だけれど、長い目の基礎研究がないと応用、助言も出すことができないから、両方必要ね。
-最近は、短期間で成果を出せという、悲しい風潮があります。
 これは日本だけでなく世界中でも同じでね、ドイツの大学でも、日本研究をやると、毎年卒業生は何人、博士は何人、とすぐ問われる。ドイツ文学をやる人に比べると遙かに少ない、じゃ予算はいらないじゃないか、とかね。
-それに対してどんな対抗手段を講じるか、ということですが、単なる成果主義ではない存在価値をアピールするために、ドイツではどうされているのでしょう。
 大学よりも、博物館には利点がある。ドイツでもときどき世論調査をやるが、大企業がハイテク工場や本社をどこへもって行くのか、結局文化が栄えているところにもって行く。例えばフランスではマルセイユよりもパリですし、ドイツだったら地方博物館でもいい、文化のあるところです。ボンが非常に強いのは、東西統一で政治の中心がベルリンに移ったときに、土産としてボンには新美術館とか近代史博物館を残した。文化の中心はボンにあって、企業もそこにくる。テレコムはボンに本社をおいたんですよ。もちろん、交通アクセスとか土地のこととか経済の要因もありますが、文化も非常に大切ですね。
-従業員とその家族、あるいは経営者が住みたい町という意味ですか?
 いいサラリーマンを雇うことができる。教養のあるサラリーマンの家族や子どもたちは、博物館、美術館が近くにないといや、山の奥には行きたくない。文化は経済の基盤にもなるんですよ。
-アメリカでも最近、リチャード・フロリダが、『The Rise of Creative Class』という本を書いた。日本語訳『クリエイティブ資本論―新たな経済階級の台頭』も出ていますが、そこでも、クリエイティブな人たちは、美術館がありコンサートが聴ける、文化的な楽しみができる町に住みたいという、同じような分析をしています。似たようなことがボンでも言えるのですね。
 博物館でもイベントを催す。東京国立博物館でも、バッハ、ビバルディなどクラシック音楽会をやる、それでいいんです。ボンでも新美術館の前にテントを張って、五月から九月の気候のいい時期に定期的に音楽会を開く。クラシックだけでなく、エルトン・ジョンなどポップの一流の人を呼んで沢山の人を集める。ふだん博物館に行かない人がエルトン・ジョンを聞きに行く。チケットで博物館にも入館できる。そこで新しい人が育っていくんです。
-そういう人たちを引きつける魅力を演出するときに、博物館は大学とはちがう機能を果たしているんですね。

メタ・サイエンス としての日本学
-クライナー先生は、ボン大学を定年退職後に法政大学の21世紀COEプログラムにかかわっていたそうですが、どんな研究をされているのでしょうか。
 法政大学では「国際日本学研究」というテーマで予算をいただいています。これは下手をすると国際日本文化研究センターの二番煎じになる。でもよく見ると、日本についての研究ではなくて日本学についての研究、メタ・サイエンス(学問自体を研究対象とする学問)ですね。日本のどこにもない研究です。日本でも諸外国でも、日本学という学問はどういう条件の下で生まれ育ってきたのか、それぞれの国での日本研究の相違は何か、そういうテーマです。でも、すぐできるものではなく、例えばドイツにおける日本研究の性格や本質を語るには、ドイツの学問体系全体を考えねばならない、独文学者も経済学者も参加してもらわないといけない。
-ドイツ、フランス、イギリス、それぞれの文化を反映した日本学は、ちがうかたちをとっているはずだ、というわけですね。
 諸外国でも一冊の本が注目を浴びることがある、中根千枝先生の『Japanese Society(日本社会)』、そのもとは『タテ社会の人間関係』ですが、ルース・ベネディクトの『菊と刀』、ケンペルの『日本誌』、みなヨーロッパ中で読まれています。フランスの日本研究者、人類学者ロラン・バルトが、『ラ・アンピール・デ・シーニュ(印の帝国)』を出してフランスでベストセラーになった、ところがアメリカでタイトルを英語読みにして『Empire of Signs』で出版したら全然売れない。フランスの教養のある人の文化とアメリカのそれとは全然ちがうからかな。
-同じ日本研究でも、ヨーロッパでやるのとアメリカでは全然ちがうところがある。そこから文化における学問のなりたち、基本になっている教養や学問体系をあぶり出せる。
 法政大学の研究プロジェクトでもそういう問題意識があるけども、あまりに視野を広げすぎるとまとまりにくい。ドイツとフランスにおける日本研究と、中国における日本研究はまったくちがうでしょう。『魏志倭人伝』もある意味では日本研究かも知れませんが、日清戦争のあとに日本が注目されるようになったヨーロッパとはまたちがうでしょうね。

トランスナショナルな 日本研究者
-グローバル化の時代では日本研究はどうなるか。これまでは、自分たちの文化アイデンティティを一所懸命さぐろうとした。しかし今は、グローバルなコンテクストのなかで日本文化を考えようという意識が強くなっていますね。
 一九世紀後半、日本ではお雇い外国人、ヨーロッパ、アメリカでは地元の文献学者が日本研究を始めたけれど、この人たちは往々にしてマイノリティに属した研究者だった。例えばロシアの日本研究はユダヤ系、ドイツでもユダヤ系、オーストリアでは周辺のチェコ、クロアチアの人たち、フランスではアルザスの人が多いですね。わたしの解釈では、当時はある程度教養ある家系の出身でないと医学や法学方面には進めなかった。ところが、周辺領域の研究で故郷に錦を飾ったのは、そういう背景のない人たちだった。アメリカではドイツ系移民の人たちがライデン大学で研究しアメリカに日本研究をもって行った。ロシアから亡命してしばらくパリにいてアメリカに行ったS・エリセイエフ等々、そういう人たちがやっていた。  でも今は研究者としての地位が確立した人たちが日本研究をしている、そして女性がたくさん日本研究をしていますね。
-そうですね。JAWS(Japan Anthropology Work Shop)やAJJ(Anthropology of Japan in Japan)なんかを見てると、日本の農村研究をする人が少なくなって、マンガ、アニメ、コマーシャルとかのポップカルチャーを研究する人がものすごく増えていると思います。
 これは、むしろ歓迎すべきだと思います。わたしは五〇年前に日本研究に入ったけど、たいていの学生は黒澤明の映画に刺激されて、サムライ、ゲイシャのイメージをもって日本研究に入った。われわれは、日本は近代化しているし、フジヤマ・ゲイシャとちがうんだ、と強く反対しましたが。
 今は学生の半分以上が、将来はマンガ家になりたい、マンガの翻訳をやりたいとか、アニメのドイツ語訳が正しいのか皆が疑問をもっていて、オリジナルを知りたい、聞きたい、そこで日本語の勉強を始める。その意味ではポップカルチャーは入り口として良い。ボン大学にもそういう学生は多いです。
-最近の日本研究を見ていると、日本研究者にはトランスナショナルな人が増えているように思います。クライナー先生の場合も、もともと伝統的なウィーン学派の民族学を修めた人が、ウィーンを離れてボンに行ったり日本に来たり。同じような人が増えてきているように思いますが。
 確かに増えていますが、むかしはまったくいなかったとも言えないですね。大正四、五年ごろに帝政ロシアから日本に留学してきたニコライ・ネフスキーは日本に残った。ロシアのエリセイエフはフランスで活躍して最後はエール大学に移った。みなトランスナショナルですね。
-むかしはずっと同じところにいる人が多かったけれど、ワンダーフォーゲルじゃないが渡りをする研究者が出てきている。労働者だけでなく、研究者もグローバル化の波に乗って行き来する。これもひとつの現象かな、若い人も含めて。
 自分の可能性を求めたい、あるいは、もっと勉強したい人たちですね。むかしのドイツのハントヴェルク(手仕事)では、マイスターになる前に放浪してあちこちの徒弟になって技術を身につけねばならなかったようにね。

比較研究の歴史を踏まえる
-インテリの移動もそうだけれど、グローバル化すると、日本研究というだけではアイデンティティが保てなくて、中国研究とか韓国研究、ひいてはアジアのなかの日本研究という位置づけを戦略としてもたないとやっていけないようなことがあるんでしょうかね。
 柳田國男先生は『民間伝承論』のなかで、我々のやっている学問は将来、比較民族学まで発展する必要があると昭和一〇年に言っている。柳田自身はそのステップまでもっていけなかったけれど。岡正雄先生も、君たちの日本研究はおかしいとしょっちゅう怒っておられた、先生はアラスカとかよく行っておられたから。わたしも努めて周りを視野に入れようと思っていますが、やはり一人ではできない、そこで共同研究が必要だと思っています。
 わたしも、稲作研究でフィリピン、ブルネイ、ボルネオ、サラワクに入ったことがありますが、教えていただいたのはウィーンのハイネ=ゲルデルンという歴史民族学の大家です。フィリピン奥地の段々畑の棚田は今世界遺産になっていて、あの展望台に行くとハイネ=ゲルデルンの論文を引用したブロンズ板が貼ってある、うれしくなってね。日本のフォークロアが結局行き詰まったのは、その点ですよね。「一国民俗学」という言われ方をしますけども、最後は宮田登や坪井洋文も中国、東南アジア、稲作を視野に入れたり、韓国、朝鮮半島を調査してるんですね。
-民博では特別研究「日本民族文化の源流の比較研究」がありましたが、その評価はどうなんでしょうか。
 少なくともわたしは非常に高く評価している。昭和の初めからを考えてみる総決算のようなシリーズですよね。もちろん、佐々木高明先生はこれを踏まえたうえで『南からの日本文化(上)新・海上の道』を書いておられるけども、その後は新しい研究プロジェクトは出てないですね。
-そういう意味では、岡正雄は柳田国男を少しシフトしたかたちで日本文化を考える、比較研究という点ではひとつの結節点におられたような気がします。そういう伝統が今はちょっと薄れてきている。
 そこで民博の話に戻りますが、日本の民族学の一〇〇年の歴史を再評価する必要がある。民族学自体だけじゃなくて、政治史、外交史、植民地も含めてやらなきゃいかんですよ。その研究をやったうえで、これからの日本の民族学のあり方がわかってくるんじゃないかな。それをやれるところは民博だけじゃないですか。
-最近感銘を受けたのは、赤坂憲雄氏が書いた『岡本太郎の見た日本』という本です。岡本太郎は太陽の塔で有名だけど、単なる芸術家ではなくて、パリで一九三〇年代にマルセル・モースについて民族学を勉強したし、彼の親友はジョルジュ・バタイユで通過儀礼というか秘密結社の儀式を受けたりしたという体験をもっている。
 日本に帰ってから、近代主義に汚染された日本文化でなくて、底にある日本文化を知りたくて東北に行き、縄文の狩猟民文化には嬉々とした生命力のあることを発見する。次に沖縄に行って、ただ木と石ころが転がっているところに神が降りてくるウタキに感動する。次に朝鮮半島に行き、村境に二本の棒が立っているチャンスンに注目する。生命力にあふれた人びとの生活がそこにあるんだと。これは民族学者としての岡本太郎を掘り起こした面白い本で、岡正雄にもつながってくる。

 自分がどういうものであるか、それこそ坪井正五郎あたりが構築してきた研究の歩んできた道を基礎に、民博で続けてほしい。

皆で一緒に考える
 今、ヨーロッパはひとつになってきている、議員たちも交流を深めている。でも日本の議員の方々は、ヨーロッパに対する日本の位置づけをどう言えばいいかとまどっていて出遅れている。わたしはドイツ大統領と一緒に日本に来たことがあった。晩餐会で、日本の大臣すべてが、ケンペル、シーボルト、ベルツ博士を引用する、日本はドイツから学んだことばかりのべる。でも近現代に入ってからドイツは日本からトヨタイズムとかジャストインタイム生産方式(トヨタ自動車が考え出した、必要な物を必要な時に必要な量だけ生産するという効率的な方式)とかたくさん学んできた、と大統領が強調した。
 今は、誰が一歩先を歩いているか、誰が後ろにいるか、他者を見て何を学び取ることができるかという時代ではありません。大変な問題を皆で一緒に考えないといけない時代です。
 そこで日本は外国に研究所を置く必要があるのではないかと思う。例えば中国、インド、ヨーロッパに、民族学者だけでなくいろいろな分野の人を送って。民博が先頭に立ってこういう企画を進めてほしい、そこでは若い研究者も育成するんですよ。
-企業はやってますよ。例えばオックスフォード大学にニッサン・インスティテュート・オブ・ジャパニーズ・スタディーズ(日産日本研究所)がある。民博も初期には各地にブランチ・ミュージアムを作ろうという構想がありましたが。
 ブランチを作るのは難しいかも知れませんが、民博がもっている協力体制をもう少し広げて、例えば展示会を交換する、という考えもある。コラボレーション、パートナーシップ、というような、ネットワークを作る、これがグローバル化時代のひとつのやり方でしょうかね。
-クライナー先生は谷口シンポジウム文明学部門にも二〇年くらいかかわってこられましたね。あれも海外研究者とのコラボレーションで進めてきたわけですが、今後、ああいう研究をどう継承発展させていったらいいのでしょうか。
 それぞれの日本語版、英語版の成果は出ていますし、梅棹先生は最後のまとめを書いておられますけれども、フォローアップが必要だったかもしれません。海外からも人が来て、二〇年で二〇〇人近く参加したでしょう、でもOB会みたいなものがない。梅棹先生の学説がどういう影響を与えたのか、自分で考え直したか、整理したか、そういうことのフォローが必要だったかも知れない。残念ながら谷口財団の予算が切れたので、続かなかった。
-日本では比較文明学会があって、ささやかな企てではありますが、関西支部をたちあげて一年ほど前から定期的な活動を始めています。ローカルな集まりですが、これをグローバル化に対応した国際的なかたちにもっていきたいと考えています。
 あの文明学シリーズで民博の学風、民博スクールができるのではないかと思っていたんです。でも、あの歴史を引き継ぐのはなかなか難しいことだと、梅棹先生もおっしゃってました。でも、もういっぺん努力してみてはどうでしょうか。民博の個々の研究はすばらしいけれど、一握の砂は指のあいだからこぼれ落ちてしまう。一致団結して個々の研究を超えたレベルで民博としての研究をさらに進めて欲しいですね。
-メタとトランスの思想が重要で、メタ・サイエンス、トランスナショナル、あるいはトランス・デイシプリナリー(学際的)な取り組みで、文化人類学者だけではない研究者たちと一緒に刺激し合う体制が不可欠ですね。このあたりが先生の今回のお話のポイントですね。


モノ・グラフ
メコンの筌(うけ)から柴漬(しばづけ)漁、そして日本のいかかご漁へ
橋村 修(はしむら おさむ) 本館外来研究員
 民博には、日本や東南アジアをはじめとして世界各地の筌漁具(籠のなかにカエシのついている漁具)を多数展示、所蔵している。ラオスでは、筌をサイとよび、雨季と乾季の変わり目の水の動く時期に、水田の畔や水路に仕掛けてサカナをとっている(写真1)。フナやドジョウは、川から水路をあがって水田まで入ってきて、産卵する。これは最近まで日本国内のどこでもおこなわれていたので、田んぼや水路に仕掛けた筌、モンドリを思い出す方も多いのではないだろうか。しかし、日本では水田の圃場(ほじょう)整備が進むにつれて、水田にサカナが上ることができなくなり、筌を使った漁業は急減した。
 ところで、ラオスやカンボジアでは、この筌が魚捕りをする人たちだけでなく、町で生活する人によって縁起物として親しまれている(写真2)。これは、一度サカナが入ると逃げられなくなるという筌の機能にひっかけて、福や財が逃げていかない縁起物となっているのだ。ビエンチャンでは実物大の筌をおいてある店や、トゥクトゥクなどのタクシーに乗るとまるで日本の寺社のお守りのようにミニ筌がぶら下がっている光景をよく目にする。縁起物には筌漁具のほかに、魚伏せ籠や魚篭(びく)などの竹で作られている漁具のミニチュアがあって、バリエーションがある。筌を縁起物とする思想は日本では見当たらない。しかし、あえて言うなら漁具の材料になっている竹に対する聖性は、日本にむかしからある。その竹製漁具も、ラオスの漁撈現場では少しずつプラスチック製に代わりつつある。
 それはさておき、今度はサカナの産卵の場での漁に注目してみよう。メコン河流域の本流や水路では、枯れ木のかたまり(フム)(写真3)や大きな籠に柴を乗せた漁具(カー)(写真4)をよく見かける。これは、もちろん人が設置した装置で、サカナの隠れ家や棲みか、産卵の場という役割があり、魚が居ついたころに、人びとは網で囲んで投網を入れる。この一連の漁撈をラオスではフムないしカー、日本では柴漬漁(柴浸し漁)とよんでいる。これも、以前は日本列島の各地で見られ、特に琵琶湖では柴を入れてから二、三年待って、寝床に入ったサカナをとるネヤとよばれる人の側も辛抱する漁法があった。ラオスでは柴を入れて一ヵ月程度でとるので、今では乱獲漁業として規制されつつあるが、数年待つネヤの思想をぜひ取り入れて継続させるのも一案ではないだろうか。
 また、籠と柴がセットになっている漁法は、日本の内水面ではあまり見かけないが、海に目を向けると九州地方に多い、いかかご漁がよく似ている。写真5は鹿児島の黎明館所蔵の薩摩半島吹上浜沖の東シナ海でおこなわれていたいかかご漁の籠である。写真では見えないがこの籠のなかには柴が入っている。この漁は、現在でも福岡県の玄界灘や熊本県の有明海でもおこなわれている。筆者が漁船に同乗させていただいた熊本県宇土市網田の有明海では、ヤマモモの木を海中に入れておき、そこに産卵でやって来るコウイカ(甲烏賊)のメスをとって、そのメスを籠に入れてオスをおびき寄せるという何とも人間心理にも通じる漁法がおこなわれている。海中のヤマモモの葉にたくさんの卵がついていたのが印象的であった。いかかごは許可をえた漁師のみが設置でき、漁場は年一回の抽せんで決まる。毎年五月には、江戸時代以前からの歴史をもつとされるいか祭りがおこなわれ、二〇年くらい前まではその祭りの期間だけ若者に漁場を開放し自由にイカをとらせていた。これは、若者に漁業への関心と意欲をもってもらいたいという大人たちの心からの気持ちが受け継がれている行事であったが、近年は若者が少なくなって、漁場の開放はおこなわれていない。
 現在、国内の沿岸域では沿岸域の藻場が減り、サカナの産卵場が失われている。いかかご漁は、人為的に木を入れて産卵の場を提供しているので、サカナにやさしい漁業として大学の水産学部なども注目している。効率よく一方的にサカナをとるだけでなく、面倒ではあるが産卵の場を提供するなどサカナを育てながら漁をおこなう(プレ・ドメスティケーション、半養殖とでもいようか)、そうした、サカナと向き合いながらおこなう漁を見つめなおす時期に来ているのではないだろうか。こんなことを思いながら、民博や各地の博物館で筌などの漁具を見ていただきたいと思っている。
 

地球ミュージアム紀行  -インドネシア国立政策移民博物館(開館準備中)/インドネシア-
国内移民の声なき声
金子 正徳(かねこ まさのり) 本館機関研究員
 インドネシア国立政策移民博物館、通称ムシウム・トランスミグラシは、インドネシア共和国ランプン州プサワラン県で、いま建設・開館準備が進められている。ここでいう政策移民とは、近現代のさまざまな時期に、現在のインドネシアにおいて政策的におこなわれた国内移民を基本的に指している。農家を主体とするこのような政策移民は、そのシステムや政策目的は違うが、明治期の北海道移民と比較対照が可能だろう。
 一九〇五年に、オランダ植民地政府のもとで、ジャワ島中部から同博物館が建設されている地域へむけて最初の政策移民が送られた。以降、戦争や経済恐慌、そして政変など、さまざまな要因で中断を繰り返しながらも、小規模かつ断続的に、ジャワ島を中心とする人口密度が高い地域から低い他地域へと移民は送られた。現在にいたるまでの間に、もっとも集中的かつ大規模に移民政策が進められたのは、一九六五年以降一九九〇年代半ばであった。
 同博物館の設立目的は、この一〇〇年余の間、さまざまな時代および地域で、故郷とは大きく異なる社会環境・自然環境の厳しさを生き抜いた国内移民を記念し、その経験を伝えていくことである。
 同博物館の建設は、政策移民一〇〇周年記念準備委員会において決定され、二〇〇五年末から展示施設の建設が始まった。敷地内には最終的に、常設展示館がひとつ、収蔵庫がひとつ、そして、常設展示館の背後にある広場のまわりには、政策移民の主たる送出地域と受入れ地域の家屋を模した建物が一〇軒配置される予定である。二〇〇七年に関係者を集めておこなわれたワークショップやシンポジウムで、展示内容に関する方向性が最終的に固められていった。
 展示の予定については次のとおりである。まず、エントランス・ホールには、政策移民の生活について、開墾から現在の発展までを描いた大ジオラマを配置する。そして常設展示では、移民先での生活を物語るかつての農工具、狩猟道具、生活用具などを、国内移民が送り出されたインドネシア各地から収集し、解説付きで展示する。また、政策移民関連文書が閲覧可能なコーナーも設置する。一〇軒の建物では、それぞれの地域における移民の生活空間が再現される。しかし、専門職員や学芸員に相当する職員も未定で、展示品の収集もまだ始まっていないのが実情である。閉ざされた常設展示館のなかを警備員とともに覗いても、展示に使われる予定のラックなどが乱雑に置かれるのみである。二〇〇八年末に大統領を迎えておこなう開会記念式典は未確定のまま、二〇一〇年にずれ込むとも言われている。
 完成し、動き出せば、インドネシアの国内移民の声なき声を記録しうる貴重な博物館となる。単なるハコモノで終わらず、早期に開館し、十分に機能することを祈るばかりである。


表紙モノ語り
涙壷
涙壷(標本番号H224132、高さ/30cm 幅/11cm 奥行/11cm)イラン
 水底を思わせる暗青色のガラスの壷。細く長い首はねじれ、しおれかけた花の茎のようにたわむ。そしてその先に開く口の部分は涙珠(るいじゅ)にかたどられている。
 この所蔵品とほぼ同形色の壷をわたしが初めて見たのは一五年以上も前、テヘランのガラス博物館である。その美しい色や不思議なかたちに見とれていると、イラン人男性がつかつかと寄ってきて、「戦場に行った夫や恋人を待つ女が、その涙をためるための壷なんだとさ」と語ってくれた。
 頬から落ちた涙の糸はこの容器に受け止められ、くねり曲がった頸部をつたって、螺旋(らせん)を描いて底へと流れ、たまった涙の量が愛の証となるというのか。なんと叙情的な人びとであろう。また「女の武器」をかたちにして残すとは、なんとしたたかなのだろうと感心した。
 最近になって再びガラス博物館を訪れる機会があった。「涙壷」はまだあった。学芸員らしき女性に「本当に涙をためたんですか」と聞いてみると、「涙容れ(アシュク・ダーン)というけれども、実際にはバラ水容れ(ゴラーブ・ダーン)なんですよ」、とそれまで頭のなかに描いてきた悲哀に満ちた心象をあっさりとくずされてしまった。
 バラの花びらを蒸留し、バラ油を摂取したあとに残った水を、イランでは服や体、部屋のなかにふりかけたり、料理に香りを加えるために使う。バラ水容れとして首の細いガラス、陶器または金属製の容器が好まれたのは、その繊細な美しさのためだけでなく、液体が一度にどっと流れ出ない構造になっているという実用的な理由もあったのだろう。首のねじれたガラスのバラ水容れは一七~一八世紀ごろからシーラーズなどで作られ、一九世紀にはヨーロッパで流行し、多く輸出されたそうである。
 それにしても、「涙壷」の言説はいつからこの特定の色形の容器について語られるようになったのだろう。その問いの答えはまだ見つかっていない。


万国津々浦々
パプアニューギニアの選挙のお守り
市川 哲(いちかわ てつ) 本館機関研究員
貝貨を肌身離さず
 二〇〇七年三月、パプアニューギニアのケビエンという町での現地調査中に、フォンさんという一人の華人女性と知り合った。この国には一九世紀末から植民地労働力として中国人移民が流入した。フォンさんは現地生まれの第三世代であり、ここの国籍を取得している。彼女はパプアニューギニア各地で飲食店や製材所を経営しており、華人の知人よりもパプアニューギニア人の友人の方が多いとのことであった。二〇〇七年は五年に一度おこなわれるこの国の国会議員選挙の年である。華人ではあるがパプアニューギニア国民であるフォンさんは、この選挙に立候補することにした。フォンさんに出会ったときは、ちょうど立候補の手続きを済ませ、選挙活動を始めたときであった。
 ある日、フォンさんの選挙事務所を訪れると、貝殻でできた現地の貨幣(貝貨)を見せてくれた。ここでは現在でも貝製の貨幣が存在する地域がある。ケビエンの周辺では赤い巻貝を加工し、ネックレス状にした貝貨が使用されている。この貝貨を手にとってしげしげと見ていると、フォンさんは、これはあなたにあげることはできない、と言った。そんなに物欲しそうな顔をしていたのかな、と思ったが、フォンさんがこう言うのには、別の理由があった。
 じつはこの貝貨には呪術がかけてあり、彼女はお守りとしてもち歩いているのだった。このお守りは、選挙期間中に受けるかもしれない被害―たとえばライバルの候補者が彼女にかける呪術―を防ぐためのものであった。フォンさんやその支援者に言わせると、対立する候補者から呪術をかけられると、病気になったり、事故を起こしたりするそうである。それを防ぐために、自分たちも呪術をかけたお守りをもち歩く、とのことであった。
 フォンさんがこの貝貨を手に入れた経緯はこうである。選挙活動が始まる数ヵ月前のある日、フォンさんはジュリアス氏という男と出会って話す夢を見た。同じ日に、ジュリアス氏もフォンさんと話す夢を見た。数日後、外出先で偶然出会った二人は、同じ日に同じ夢を見ていたことを知り驚いたそうである。さらに、このジュリアス氏は地元で有名な呪術師だった。選挙出馬を目前に控えていたフォンさんはジュリアス氏に、ライバルの候補者からかけられるかもしれない呪術から守ってくれるように頼んだ。ジュリアス氏は彼女の依頼を受け、自分の出身村で作った貝貨に呪術をかけ、彼女に渡したのである。選挙活動のために町を離れ、村々を訪れて演説する際には、常にこのお守りを肌身離さずもち歩いている、とフォンさんは説明してくれた。

ダルマも風変わり!?
 この話を聞いているとき、ふと日本の選挙のことを思い出した。日本でも選挙の際に願掛けをするのは一般的であろう。お守りをもち歩く立候補者もいるかもしれない。ダルマに目を入れるのはよく見られる風習となってきた。しかし、対立する候補者から呪術をかけられることを恐れ、お守りをもち歩くという人はまずいないだろう。その意味で、日本人から見れば、フォンさんのお守りはかなり風変わりなものである。だが逆に、パプアニューギニアで選挙活動をする人びとにとっては、何故日本人は選挙のときにダルマに目を入れてきたのか、そして何故それが当選するための願掛けになるのかを理解するのは難しいに違いない。呪術的なものごとが風変わりに見えるのはお互いさまだといえるだろう。
 二〇〇八年三月、一年ぶりにパプアニューギニアを訪問した際に再びフォンさんと会うことができた。彼女は選挙区で第三位の得票数をえたが、結局、落選してしまったそうである。国会議員になることはできなかったが、次は数年後のケビエン市長選挙に立候補するとのことであった。結果はどうあれ、彼女は選挙中、特に危険にさらされたわけでもなかったようだ。次回の市長選挙でも、彼女は同じように呪術をかけたお守りをもち歩き、選挙活動をするにちがいない。


人生は決まり文句で
ずるがしこい奴-ティゲレ
窪田 暁(くぼた さとる) 総合研究大学院大学文化科学研究科博士課程
ドミニカ移民の街
 ニューヨーク・マンハッタンの一五五丁目から北端までの地域をワシントンハイツとよぶ。そこでは五〇万人近いドミニカ共和国(以下ドミニカ)出身の人びとが暮らしている。街にはドミニカ料理店や家庭料理の食材を店先に並べたスーパー、故郷への送金を引き受ける店やドミニカ行きの格安航空券をあつかう旅行代理店が軒を連ねており、屋号はすべてスペイン語で書かれている。
 街を行きかう人びとは故郷での流儀にしたがい、知り合いとすれちがうたびに互いの名前を呼び合うあいさつをかわす。「ラモン!」「ぺピン!どうよ最近?」という具合に。一通りのあいさつをすますと、ロトくじで一儲けした話やドミノで小遣い稼ぎをしたとき、自分がいかにつきまくっていたかについて話し始める。そんなとき相手の相槌(あいづち)は決まって「Tiguere(ティゲレ)」である。
 スペイン語辞書には載っていない単語だが、ドミニカ本国では頻繁に使われることばで、「ずるがしこい奴」「要領の良い奴」くらいの意味であろうか。国家の収入の多くを観光・送金といった外部からの資金に依存するドミニカでは、安定した仕事に恵まれず日銭を稼いで生活する人も多い。そのため日ごろから知り合いに仕事の口を紹介してもらったり、週末をのりきる幾ばくかのお金を借りるため、最近アメリカで一旗あげて帰国した者はいないかなどの情報を集める。このように上手く立ち回る人も一般に「ティゲレ」と称される。このことばにはドミニカの庶民が生きていく知恵が凝縮されているのである。

故郷を繋ぎとめることば
 ワシントンハイツの朝は静かだ。前夜の喧騒の疲れをひきずったまま職場に向かう大人たち。近所の友だちがアパートから降りてくるのを待つ小学生。大通りに面した商店はシャッターを閉ざしたままで、開いているのは朝食を給するカフェくらいである。街が動き始めるのは朝一〇時をまわるころ。ドミニカ音楽のメレンゲやバチャータがとおりに響きわたり、ドミニカの家庭料理を食べさせるレストランも開店する。そのなかの一軒をのぞいてみる。マングーにサラミをのせた定番メニューを食べていると、そこに母親らしき人に連れられた二〇代なかばとおぼしき女性が入ってきた。店の主人との会話を聞いていると、どうやら共通の知り合いからの紹介で今日からこの店で働くことになっているらしい。ここにも移民先で生きていくために同郷のネットワークを駆使して立ち回る「ティゲレ」がいた。
 母国を離れて外国で生活をしている人びとにとって、ことばが自身のアイデンティティを確認する重要な役割をはたしていることはいうまでもない。とりわけそのことばが母国特有のことばであればなおさらであろう。この「ティゲレ」ということばもそのなかのひとつであるが、さらに興味深いのはニューヨークにより良い生活を求めてやってきたドミニカ移民を総称することばとしてもあてはまることである。食事を終え勘定を払う際に「高いね。もう少しまけてくれない?」と言ってみた。返ってきた答えは・・・。
 

外国人として生きる
僕たちの人権運動 ―日本の若いマイノリティたち
吉富 志津代(よしとみ しづよ) NPO法人 多言語センターFACIL
(神戸を中心に外国人コミュニティ支援のため多言語サービス事業を展開している)
ヒップホップにメッセージをのせて
 二〇〇八年春のある夕べ、大阪ミナミのアメリカ村にあるライブハウスでは、いつものように若者たちがヒップホップの曲にあわせて踊り、舞台からミュージシャンたちが熱いメッセージを送る。
 「俺たちはスペイン語? 日本語? ことばなんて関係ナ~イ」
 「アイヌはもういない? われここにあり! アイヌはここに!」
 「ハルモニたちの思いは、燃えてリンになってからやっとわかった」
 そう、彼らのほとんどが、ブラジルやペルーの日系人、米軍基地で育ったアメリカ人、在日韓国人三世、アイヌなどの多様なルーツをもつ若者たちなのだ。
 文字にすれば深刻なメッセージが、湿っぽくなく、軽快に、カッコよく口からほとばしる。そして彼らの合いことば「あくまでポジティブ!」と叫ぶ。在日ベトナム人二世のナムも、「オレは神戸出身のベトナム人ラッパー!」と飛び入りでアピールする。ヒップホップの大好きな関西の若者たちが、かけ声とともに満員のホールでマイノリティの若者たちと一体化する雰囲気にのみこまれてしまった。このコンサートの収益金はアメリカのハーレムの子どもたちのために活用されるという。
 そういえば、以前からヒップホップは、移民の多いドイツやフランスなどでも、若い世代の移民が自分たちのメッセージの発信の手段としてきた。これだけ多くの移民がヒップホップやラップの世界で活躍していることは偶然ではなく、移民やその子どもたちが互いを認め合い、協力しやすいのは、このジャンルのもつ独特の開放性にあると見る研究者も少なくない。
 今回のこのチャリティコンサートを主催した「ミックスルーツ関西」の代表が、須本エドワード豊だ(以下、エド)。彼は、一九八一年ベネズエラで、ベネズエラ人の父親と日本人の母親のあいだに生まれた。彼が二歳のときに父親が他界し、母親は彼とともに日本に戻った。母親は、彼がベネズエラにルーツをもつことを大切に思って育て、やがてエドは神戸のインターナショナルスクールに進学する。活発な性格のエドは高校に入ると、四歳のときから好きだったピアノでジャズバンドに参加し、高校三年でチャリティジャズフェスティバルを開催する。また「バイリンガルスピーチコンテスト神戸市長杯」に、アメリカにおけるメルティングポッドとサラダボウルに関するテーマで参加し、金賞を受賞している。

「ミックスルーツ関西」立ち上げ
 そのエドがあらためて自分の「アイデンティティ」と向き合う経験をしたのは、ワシントンの大学に進学したときだった。アメリカという移民国家で、ベネズエラ国籍でありながらスペイン語を流暢(りゅうちょう)には話せない日本出身の彼は、周囲の人びとには不思議な存在として受け止められたのである。それをきっかけにエドは本気でスペイン語を勉強しはじめた。そして卒業後はニュージーランド、フランス、中国など、国連関係の仕事を転々とした。アメリカや中国などで環境に関するシンポジウムなどの企画、開催をするという経験の積み重ねにより、何かふっきれ、自信を取り戻していったという。二〇〇五年、エドは日本に戻り、神戸で国連関係の職につき途上国の開発援助に携わっている。
 帰国と同時に彼は、ミクシィ(ネット上のコミュニティ)を活用して、「ミックスルーツ関西」という団体を立ち上げた。多ルーツの子どもとその親たちのネットワークを広げることを目的とするものであった。その活動は、多文化な背景をもつアーティストたちの作品展やコンサートからドキュメンタリー映像上映、花見やクリスマス会まで多岐に渡っている。今回のヒップホップのライブもその活動のひとつである。

わかりやすくカッコよく
 エドは言う。「むかし、ホームレスの人に道でクリスマスプレゼントを配るボランティアをしたことがあるんだ。でもそれは、何の解決にもならないって思った。その人は、たまたまプレゼントをもらえてとても嬉しそうな顔をしてくれたけど、もし僕に会わなかったらもらえなかったわけでしょ?もっと社会のしくみを変えなきゃ意味がない」。できれば、あくまでカッコよく、わかりやすく、おもしろく。「偉い学者や政治家が難しいことをいくら言ってもおもしろくないし、若者は関心を示さない。でもマイノリティ問題なら、たとえば自分たちのような当事者が積極的に、わかりやすいアートで発信することで社会は変わるかもしれない」。
 エドの夢は果てしない。今後は二ヵ月に一度ほど東京と神戸で、多文化共生と教育について身近なテーマでシンポジウムなどを開催したいと思っている。たとえば、外国人の子どもの高校進学率の低さを考えるために。それも「難しい話じゃなくて、僕たちのやり方」で。
 時代を経て、かたちを変えてようやく日本でも展開され始めた若いマイノリティたちの新しい「人権運動」に大いに期待したい。生まれや国籍を超えて「地球人」をめざすかのような彼の生き方に出会い、その思いはさらに強くなった。
 

歳時世相篇 (3)【ワールドカップ】
あの素晴らしいときをもう一度
 広場を埋め尽くした紅いTシャツと太極旗、全身全霊のナショナル・コール、勝利に陶酔した無数の人、人、人…。日韓が共催した二〇〇二年六月のFIFAワールドカップで見られたあの韓国の光景は、ナショナリズムの爆発として、あるいは理解しがたいほどの熱い団結として、われわれに強烈な驚きを与えた。部外者の目から見れば理解に苦しむ熱狂ぶりだったといっても、仕方がなかっただろう。

韓国社会はどう見ていたか
 かねてから韓国ではスポーツの主要競技を友人や家族で集まって見ることが多い。ワールドカップの開幕当初、韓国代表チームの応援団「紅い悪魔」はソウル中心部の劇場前の広場にテレビを設置し、韓国チームの試合を集まって見る場を提供した。競技場の観覧席からあぶれた会員たちにも応援の機会を与えようとしたのである。この街頭応援が話題を呼び、また街中の大型マルチ・ビジョンでも試合が中継されるようになった。こうして大都市の随所に街頭応援の舞台ができあがった。
 では、もともと「紅い悪魔」でなかった人びとが一糸乱れぬ組織的な応援に加わることができたのはどうしてか。その答えは、大手通信会社が競技開幕の何ヵ月も前から放映していたテレビCMにある。この広告は、国民的な映画俳優の某氏に「Be the Reds!」と白抜きでプリントされた例の紅いTシャツを着せ、ナショナル・コールと応援歌を指導させるだけの内容だった。そのため、韓国の人びとの脳裏には、開幕の時点ですでに「紅い悪魔」の応援方法が焼きついていたのである。その結果があの紅い人波だった。
 ただ、事態に驚いたのは当の韓国人も同じだった。人びとは「南米にでも来たみたい」「うちの国でもこんなことが起きるなんて」と目を白黒させていた。マスコミ各社も街頭応援の模様を大きく取り上げ、「これは夢か」(『朝鮮日報』六月一五日)とまで報じた。そして、何故こんなことになっているのか、各紙はこぞって記者や学者の解説を掲載した。一部の論者は、受験戦争や就職難でストレスが溜まった若者層のカタルシスとして街頭応援を位置づけた。
 だが、この現象を積極的に評価する記事の方がずっと多かった。四六〇〇万の韓国国民が各自の出身地域、階層、性別、世代などを超えて融和し、初めて全国民的な祝祭をおこない、かつその心地よさに目覚めたのだという意見が広まっていった。しかも、その心地よい祝祭の呼び掛け役は若者たちが自発的に担っていたし、さらに彼/彼女らは応援の後の汚れた街を自主的に掃除するようになっていった。このため、街頭応援のあり方は市民意識の萌芽(ほうが)を示しているのだと讃えられた。楽しいだけではなく、韓国社会の進歩ぶりも実感させてくれるもの。それが韓国人にとっての街頭応援だった。
 これらの相乗効果により現象は否応なしに盛り上がり、そこに加わる人の数も爆発的に増えていった。六月四日の本戦初戦では七〇万人、一〇日の二回戦が一五〇万人、一四日の三回戦は三五〇万人、一八日の四回戦が五〇〇万人、二二日の準々決勝では六〇〇万人、二五日の準決勝は七〇〇万人、そして二九日の三位決定戦でも二一四万人という具合だった(朝鮮日報社集計)。

裏を返せば
 もちろん、こうした現象は韓国社会そのものではなく、その臨時的で非日常的なひとつのあり方を示していたにすぎない。だが、これを省察すれば、どこの国にもひとつやふたつはあるような、韓国の構造的な社会問題が浮き彫りになってもくる。
 特に、国民融和の話から見えることは多い。「韓国―分断」といえば、北と南で「祖国をわかたれてしまった」ということがまず想起されるが、北朝鮮との分断の問題以外にも韓国国民の分断不和はよく知られている。有名なのは地域対立だ。また、男尊女卑の文化的土壌が問題視されてきたし、階層分化や世代間不和も近年にますます顕著化している。こうした背景から、韓国社会では「ひとつになる」ということが絶対善として強調されてきた。
 この気風は、がんらい軍事独裁体制が挙国一致的なことを国民に強いてきたことによるものとされてきた。だが、その時代が終わった今の状況はその単なる遺制ではない。一方で単一民族の均一的社会だとしきりに強調されているのに、他方では権益をめぐる露骨な内部対立が絶えない。この現実に、当の人びとがウンザリしているからこそ、「ひとつになる」ということが強く礼讃され続けているといえよう。
 今年も六月がやってくる。韓国のメディアでは、毎年あの一ヵ月を振り返る特集が組まれる。人びとの口にも思い出話がのぼる。そこには、あのとき通った「心と心が今はもう通わない」という、なんとも言えない寂しさが漂っている。市民意識や一体感を掲げて新時代の到来をうたった記者や学者も、今や同じ意見を堂々と語れはしないだろう。
 韓国社会は変化が速い。政治や制度はあれからも怒涛(どとう)のごとく変わった。だが、これまで「とうとうと流れてきたもの」が一朝一夕に変化することは、やはりなかった。そして、韓国にとっての六月は、目指したい社会を今一度みんなで考えなおす、そんな月になったように思われる。

生きもの博物誌 【ハイイロクスクス】インドネシア
猟がうみだす森のかく乱環境
笹岡 正俊(ささおか まさとし) (財)自然環境研究センター研究員
 インドネシア東部マルク諸島の中心に浮かぶセラム島。この島の中部山岳地帯には熱帯林に埋もれるようにいくつもの山村が点在している。そこには、樹の上を住みかとする有袋類、クスクスを常食とする人びとが暮らしている。
 中央セラムのある内陸山村でおこなった筆者の調査によると、村びとが採取・捕獲している動物性資源の約半分(たんぱく質量換算)をハイイロクスクス(以下、クスクス)が占めていた。ほぼ純粋なでんぷん質からなるサゴを主食とする山地民にとって、クスクスは生計維持上欠くことのできない重要な食料なのである。

猟を支える「在来知」
 クスクスは、多くの場合、籐(とう)で作られた「ソヘ」とよばれる輪罠で捕獲されている。クスクスは夜、枝をつたって樹から樹へと移動する。クスクスのとおり道は「シラニ」とよばれる。山地民は森を歩きながら、クスクスの食べた跡、糞、小便の匂い、そして樹幹部の枝や葉の形状などを手がかりに、「シラニ」がどの辺りにあるかを見極める。
 クスクスは、フトモモ科ユーゲニア属やタコノキ科パンダヌス属など多種多様な植物の実や葉を食べる。また、イチジク属などの樹木の樹液を好んでなめる。
 以上の餌となる木の他にも、糞を見つけたり、尿の臭いをかいだりすると、山地民はその林の上のほうを注意深く眺め、コケなどが付着していないきれいな枝や、展開方向とは逆向きに反り返った葉や葉柄の折れた葉がないか探す。そのような枝は普段クスクスが「シラニ」として利用している枝である。
 彼らとともに森を歩いていると、クスクスの餌となる多種多様な植物種に関する知識や、クスクスが葉や実を食べた痕跡やクスクスの糞などを見逃さない細やかな観察力に驚かされる。特に「シラニ」の特定は、山地民でなければおそらく不可能といってよいものである。こうした技能を含め、クスクス猟は山地民の「在来知」の蓄積に支えられている。

森のなかに創出される人為的「ギャップ」
 山地民は「シラニ」の位置を確認すると、その周辺の樹木や枝を伐採し、その樹木に接する枝をひとつだけ残す。あるいは、接している周辺樹木をすべて切り倒した後、隣接する樹木と結ぶように木の棒を取りつける。そして、残した枝や設置した木の棒にソヘを取りつける。
 その他にも、倒木によってできた複数のギャップ(枝と枝が接することのない部分)を結ぶように樹木を伐採したり、小川に沿って枝ぶりの良い樹木を伐採したりして、数十メートルにわたる帯状のギャップをつくることもある。その場合、クスクスが通過できる場所をいくつか残しておき、そこにソヘをとりつける。多い人だと一〇〇個以上のソヘをしかける人もいた。山地民は数日に一度、しかけた罠を見回りにゆく。
 クスクス猟は、中央セラムのことばで「カイタフ」とよばれる森、すなわち、これまで開墾されたことのない場所で、猟場とされている森でおこなわれている。カイタフは一見すると原生的な老齢天然林だが、猟を通じて、人の手が加わった人為的かく乱環境があちこちに創出されてきた場所なのである。
 こうしてできたギャップは、森の先駆植物にとって好ましい生育環境となるであろうし、そうした下層植生を食糧とするティモールシカなどの動物にとっても良好な餌場になっている可能性がある。
 クスクス猟は、人の食生活だけではなく、多かれ少なかれ、かく乱環境を好む生きものたちの暮らしを支える役割を担ってきた、といえるかもしれない。

ハイイロクスクス(学名:Phalanger orientalis)
ハイイロクスクスは、マルク諸島(セラム島、ブル島、ケイ諸島、アンボン・レアセ諸島)、ティモール島、ソロモン諸島、ヤペン島(西パプア北部)、ビスマルク諸島などの標高1600m程度までの熱帯林に分布している。体長は28~42cm、さまざまな木の葉やカキノキ科カキノキ属やフトモモ科ユーゲニア属の植物などの実を食べ、年に一度、6月から11月にかけて平均2頭の子どもを産むと報告されているが、その生態についてはまだはっきりとわかっていないことも多い。肉は少しクセのある臭いがあるが、鶏肉に似ていておいしい。


フィールドで考える
アフリカの手話のルーツを訪ねて
亀井 伸孝(かめい のぶたか) 東京外国語大学、アジア・アフリカ言語文化研究所研究員

国際的事業の拠点
 「ついにたどり着いた…」
 二〇〇六年八月、西アフリカのナイジェリア、イバダン市にある「ろう者キリスト教センター」を訪れたときのわたしは、あたかも聖地に到着した巡礼者のような気持ちになっていた。アフリカの手話の分布図を塗り替えた、ろう者たち(耳が聞こえない人びと)による巨大事業の拠点。そしてアフリカの多くの手話言語のルーツ。それが、かつてこの小さな敷地のなかにあったのだ。
 手話は、世界各地のろう者たちのあいだで生み出され、そのなかで世代をこえて伝承されている視覚的なことばである。音声言語が各地でさまざまに異なるように、手話も各地で異なっている。つまり、耳が聞こえる人たちのおよび知らない多言語世界が、ろう者たちのあいだに広がっているのである。
 アフリカの手話の調査に着手したわたしは、やがて各国の手話がきわめて似かよっているという事実に気付いた。その背景には、ろう者たちが自ら手話で聞こえない子どもたちを教える学校を設立していった、巨大な国際的ろう教育事業があったこともわかってきた。その拠点が、どうやらナイジェリアにあったらしいということも。

アフリカろう教育の父
 アフリカの手話の歴史のキーパーソンは、アンドリュー・フォスター(一九二五~一九八七)である。アメリカ生まれの黒人ろう者で、アフリカで広くろう教育を普及させることに貢献し、「アフリカろう教育の父」とよばれ尊敬されている。フォスターはナイジェリアに事業の拠点を構え、アフリカ一三ヵ国に三一校のろう学校を設立し、二三ヵ国の教員を育成するという巨大事業のリーダーとして活躍した。没後の今も、アフリカ各地のろう者たちのあいだで、手話の物語として語り継がれるヒーローとなっている。
 フォスターがナイジェリアのセンターで開催した教員研修が、多くのアフリカ人ろう者の人材を輩出した。ここで研修を受けた人たちが、やがてアフリカ各国に帰ってろう学校の教師となり、手話とろう教育を普及させ、今日のアフリカの手話言語分布の原型を作った。すべてのルーツは、イバダンにある。一〇年におよぶアフリカ各国でのフィールドワークの末に、わたしがその「発祥の地」を初めて訪れたのが、冒頭のシーンである。
 アフリカ大陸の面積の半分くらいの手話の言語分布を変えた、ろう者の活動の一大拠点。その存在感のわりに、実際のセンターは広大なものではなく、せいぜい五〇メートル四方程度の小さなものだった。かつてここには、ろう教育事業団体の事務所、フォスターの住居、ろう者の教会、アフリカ各国から集まってくる研修生たちの滞在施設などがあった。
 書斎に収蔵されている膨大な文書や写真。むかしを知る高齢のろう者たちの貴重な手話語りの数かず。そして何より、アフリカの手話のルーツを自ら訪れて確かめたという達成感。センターでの一ヵ月の住み込み調査は、わたしにとってまさしく実りあるフィールドワークだった。フォスターがいた往時と変わらず、今もろう者たちが運営の主導権を握り、業務と生活がすべて手話で営まれているセンターの現状にも、どこか納得できるものがあった。

思い出より資源利用
 ただし、アフリカ史の重みを念頭に感銘にふけっているわたしと、実際にセンターに寝起きして業務に携わるろう者のスタッフたちとのあいだに、奇妙なずれを感じたのもまた事実だった。このセンターを運営する今の所長(ナイジェリア人ろう者)は、これを改築して学校事業を拡大し、いずれは移転して事業規模を大きくしたいと語る。あの英雄フォスターが使っていた執務室は、今はろう学校寄宿舎の舎監の若者たちが雑居する部屋となっており、そこを訪れてみたら、若いろう者たちがSONYのプレイステーションでゲームに興じていた。兵(つわもの)どもが夢の跡。「手話の聖地」を訪れたつもりのフィールドワーカーのロマンチックな期待は、みもふたもない現実によってみごとにはぐらかされた。
 外部から来た調査者であるわたしは、「アフリカの手話のルーツとして、このセンターをまるごと記念館にして原形のまま保存したい」などということを思いつく。しかし、今日のナイジェリア社会におけるマイノリティとして、私立学校の運営などに奮闘しているろう者たちにとっては、歴史よりも資源、思い出よりも土地と建物なのである。
 ナイジェリアろう者たちのたくましい資源利用の姿に出会い、歴史への思いだけでなくフィールドでこうした現実につきあうことも研究者の大事な仕事なのだろうと考えた。外部者の記憶によって創られるロマンもおもしろいが、フィールドのただなかでのあけすけな現実を学ぶこともおもしろい。どちらが真実かという二者択一でもないのだろう。フォスターらの偉業を遺産として引き継ぎつつ、現実を切り開いているろう者たちに出会えたこと自体が、調査者としてこのうえもない幸福なことだったと思っている。


みんぱくウィークエンド・サロン 研究者と話そう


次号予告・編集後記
  もえぎ色の新緑まばゆい万博公園がふしぎなパワーに満たされる時期がやってきた。散り際の美学とやらではない自然の活力がみなぎるときである。民博も開館30周年の記念行事を終えて、さらなるパワーアップをはかろうとしている。そうした折、ドイツから「まれびと」がやってきた。巻頭インタビューのクライナー氏である。民博誕生に立ち合った一人からは、グローバル化する民博への示唆を数々いただいた。それと同時に、世界ひろしといえども民博だけですよ、こんなことができるのは、という激励も。
 4月からはじまった「歳時世相篇」もおかげさまで順調なすべりだしとなっている。今月は民博ニューフェイスの一人が執筆している。おどろいたことに、日韓共催のワールドカップ・サッカーが韓国では歳時記になるほどの盛り上がりを見せているそうだ。これからもこの連載にご期待いただきたい。
 もうじき梅雨の季節、立派に育った万博公園の木々にもめぐみの雨が不可欠だ。(中牧弘允)



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