国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2008年11月号

2008年11月号
第32巻第11号通巻第374号
2008年11月1日発行
バックナンバー
 
エッセイ 世界へ≫≫世界から
スリップウェアと大阪日本民芸館の不思議な縁
柴田 雅章
 近世ヨーロッパで広く作られたスリップウェアは、スリップとよばれる化粧土を用いて装飾された焼物(器)です。一九〇九年にイギリスで刊行のスリップウェアを紹介した本を見た柳宗悦や富本憲吉、バーナード・リーチらが新鮮な美に魅了され、富本やリーチは楽焼による試作をしています。もっとも、その本が紹介したのは、おもに一七世紀に作られ、手の込んだ装飾目的のスリップウェアでした。
 その後、リーチの帰英に同行した濱田庄司は、リーチとともにイギリス西南端のセントアイブスで西洋初の登り窯を築き、作陶を始めます。彼は三年間の滞英中に、民衆が日常用いた、素朴で渋い美しさを湛(たた)えたタイプのスリップウェアに出合い、数点を日本にもち帰りました。京都で一緒にそれを見た河井寛次郎、柳、濱田はともに喜び、互いの友情は確かなものになりました。一九二四年のことです。既に、日本の民衆の実用向けに作られ、自身が美しいと感じた品々を数多く収集していた柳は、スリップウェアにも同様の美を感じたのです。
 三人に富本が加わって、一九二五年に「民衆的工藝」を短くした「民藝」ということばを作り、翌年四月には「日本民藝美術館設立趣意書」を発表します。奇を衒(てら)うことのない「健康な美」、「正常な美」を民藝の美と考えるものです。柳は一九三六年、東京駒場に日本民藝館を開設します。
 戦後も地道な活動が続けられ、一九七〇年の大阪万博では、関西財界有志の協賛をえて、日本民藝館が「民芸の美」を紹介するためのパビリオンを作りました。それが大阪日本民芸館です。万博終了後は、柳の提唱した民芸運動の西の拠点となるべく、日本民藝館の分館という位置づけの財団法人として装いもあらたに開館し、陶磁器・染織品・木漆工品・編組品など国内外の新古民芸品を公開してきました。柳とともに民芸運動を牽引(けんいん)し一九五五年に人間国宝の認定を受けた濱田が初代館長を務め、濱田没後は、プロダクトデザイナーの柳宗理が館長を務めています。
 今年は濱田庄司没後三〇年、それを記念する特別展が一二月二一日まで大阪日本民芸館で開催中です。日本民藝館蔵の濱田作品約二〇〇点、棟方志功作品約二〇点のほか、イギリスのスリップウェアも展示されており、日本の民芸運動の歩みをたどることができるでしょう。大阪日本民芸館は、民博の向かいという縁を生かして、共同の企画を進めたいと考えており、来年春には「茶」を統一テーマとする展示をおこなう予定です。

しばたまさあき/作陶家。1948年東京都小金井生まれ。中央大学理工学部卒業。丹波で生田和孝氏に師事。丹波篠山にて独立。以後食器を主体に製作し、若くして出合ったスリップウェアを丹波の土と灰釉を用い独自の手法で製作している。現在、国画会会員、大阪日本民芸館理事・展示主任。日本民藝館新作展審査員。


特集 今日のレヴィ=ストロース
 この一一月、構造人類学の祖クロード・レヴィ=ストロースが一〇〇歳の誕生日を迎える。その慧眼は「未開社会」の神話や親族組織に、近代西欧の科学的思考に劣らない〈感性的表現による世界の組織化と活用〉があることを見出し、二〇世紀の人類を理性中心主義の呪縛から解き放った。
 日本でも一九七〇年代、八〇年代には思想界、文学界を巻き込んだレヴィ=ストロース旋風が起こったが、その名は今や時代遅れの化石と化してしまった感がある。しかし彼の著作から学ぶべきことは、まだまだあるのではなかろうか。 
 現代の知の巨人の生誕一〇〇年を記念して、レヴィ=ストロースの一世紀を振り返り、その理論が残した痕跡、およびその思想の今日における意味を探る。

こぼれ話、レヴィ=ストロース先生
川田 順造(かわだ じゅんぞう) 神奈川大学日本常民文化研究所客員研究員
クロード坊やと七六年後の先生
 レヴィ=ストロース先生が、ジーパンでソファーに座った右頁の写真は、わたしの秘蔵の一枚だ。一九八六年七月、葡萄酒の名産地ブルゴーニュにある、先生の別荘のサロンで。壁に掛かっている油絵は、先生が二歳のとき、祖母の膝で本を広げている姿を、肖像画家だった父上が描いたものだ。先生の別荘に妻と娘と三人、何日か泊まりがけでお招きいただいたとき、そう伺ってわたしは、この絵の下で、本を広げて下さいとお願いした。茶目好きの先生は、喜んで応じて下さり、このショットとなった。
 二〇〇四年にパリのレルヌ社から刊行された、先生の未発表の文章や、先生についての世界の四八人の論文、詳しい年譜、書誌を集めた大冊の『クロード・レヴィ=ストロース』にも、わたしの論文とは別に、この写真は一頁大に収録されている。
 ジーパンとの縁も、何度か伺った。電話帳からの単純な間違いのほか、先生の知名度を利用して、新ブランドのデニム・ズボンを売り出さないかという誘いも受けたこと。どこだったかアメリカの大学の食堂で、満席のため名前を呼んで案内してくれるのを待ったとき、Mr.L_vi-Strauss! Pants or books? と大声で呼ばれて、まわりの人たちもどっと笑ったというお話も。

ウマびいき
 『悲しき熱帯』に描かれた、ブラジル奥地での生活のありさまを読んでも、先生がいかものに、強い好奇心と食欲をもっておられることがうかがえる。日本で食事をご一緒したときも、コイの洗い、丸のドジョウ鍋など、おいしそうに召し上がるのに驚いた。そんな先生があるとき、「わたしが日本で食べられなかった、ただひとつのものは何だかわかりますか?」と言われた。答えられずにいると、「馬肉料理ですよ」。ヴェルサイユのブルジョワの家庭に育ったので、ウマは高貴な動物だという観念がしみついているからですと、文化相対主義にちょっと謎をかけるようなお話だった。
 それがきっかけになって、フランスでわたしがよく食べた生の馬肉の「タルタル・ステーキ」(かつてパリ・モンパルナスの「クーポール」で、当時はこの店の名物だったこの料理を今西錦司先生と食べたとき、今西先生は「こんなうまいもん、はじめて食った。この辺から汗が出て来よった」と鼻の脇を指さして相好を崩された)をはじめ、世界の馬肉食をめぐって、レヴィ=ストロース先生とは何度もお話しした。ウマびいきの先生は、フランスではパリ・コミューンで、食べるものに困窮したときからではないかとも言われたが、フランスでも馬肉食はもっと古く、広いようだ。
 別荘では、書斎の机の引き出しを開けて、護身用のピストルがあるのを見せて下さったことも思い出す。
 まもなく満一〇〇歳を迎えられる先生は、先月下さった、封筒の宛名までいつもながら万年筆での几帳面な手書きのお手紙にも、「手が震えて、字がうまく書けずもどかしい」ときちんとした字でお書きになっていた。もどかしさを自覚されて、もどかしいときちんとした字でお書きになる先生は、まだまだお元気だ。


『神話論理』の「反言語論的転回」
渡辺 公三(わたなべ こうぞう) 立命館大学大学院教授
神話の言葉の逆説
 言葉の獲得がヒトと他の生物との一線を画した、といえば誰も異論をはさまないだろう。しかし、そうしてヒトが語りだした初発の言葉である神話は、言語の哲学的分析には収まりきらない逆説をはらんでいる。レヴィ=ストロースの『神話論理』(全四巻)はそう主張しているように思える。
 分析された神話群には動物たちがひしめき、さまざまな植物がいりみだれて繁茂している。このあまりにも豊かな自然のなかに産まれおちた原初のヒトは、ジャガーから火を与えられたかと思えば、食べ物を惜しんだために、タバコの魔力によって美味しいノブタに変えられ、あるときはオジであるカワウソに助けられ、巨大な男根のバクに妻を寝取られ、迷子の祖父母は歯のないアリクイになる。神話は「人の姿と動物の姿のあいだでどのようにも変えられた時代に起こったことの物語」であり、ヒトだけが言語を独占してしまい、レヴィ=ストロース流にいえば、動物とヒトの「連続性」が失われ意思疎通できなくなる以前への郷愁とそこにはもうもどれないという断念を含んでいる。しかしこれは神話という言語の逆説の起点にすぎない。

響きあう世界
 多種多様な動植物は、種ごとの個性的な行動とかたちと性質を、ヒトがこの世界で生きる条件を理解する思考の手段として提供する。樹上で絶え間なく排泄するホエザルと、冷気を感じると樹をおりて決まった場所に排泄するナマケモノは生理的な短い周期と長い周期の対比を教え、寒くなると刺繍に最適で立派な針を提供するヤマアラシは冬の到来と季節の周期性を教える。鳥たちは生息場所の違いによって上中下や水辺とサバンナといった空間の分節を教え、腐臭のするオポッサムはかつて夜が支配していた死と腐敗の世界を教え、人間が永遠の生を享受できないことを教える。連続と不連続、周期性、不可逆性さらには順序の構造や推移性といった高度に抽象的な思考の操作もまた、言語の分析でえられる概念ではなく、神話の語る動植物や天体の行動のなかに重層的に構造化されている。こうした構造が織りなされ、地上に生きるヒトの現実が何故こうあるのかを説き明かしたのが神話なのだ。
 だからヒトの思考がどう成り立つかは、言語が世界をどう切り取るかという分析の問いではない。答えは言語の手前あるいは向こうの、五感を通じて知覚された世界の豊かさを語る神話から聴き取られる。「音楽でも、旋律と和声とリズムと音色という四つの要素のうち、たとえば旋律に気を配ったときに和声が消えるかというと、そんなことはなくて……四つの要素が絶えず……渾然一体となった全体の「響き」として聴いて*」いるように、原初の言葉としての神話は重層的な構造をそなえた「音楽」として聴き取られる。*『音楽を「考える」』茂木健一郎/江村哲二ちくまプリマー新書
 こうしたレヴィ=ストロースの探究は一九五〇年代に始まった。だとすれば、それは二〇世紀後半の「言語論的転回」に先回りして「反言語論的転回」を達成していたといえないだろうか。今、わたしはそうした探究の端緒を見きわめたいと考えている。
 
熱いは冷たい、冷たいは熱い
出口 顯(でぐち あきら) 島根大学教授
「熱い社会」「冷たい社会」
 レヴィ=ストロースの、今ではもう忘却の彼方にあるかもしれない類型概念に、「熱い社会」と「冷たい社会」がある。前者は、近代文明社会のように、階層化や分業が進み、あらたな出来事が絶えず生成する変動やまない社会のことである。一方後者は、どこまでもはじめの状態のなかに自分を保とうとする、進歩も歴史もないように見える社会、つまり「歴史的気温」が零に近い社会である。
 もちろんこれはあくまで理論的なもので、正確にどちらか一方にあてはまる具体的な社会など存在しないとレヴィ=ストロースは注意を喚起している。「冷たい社会」の代表例のように思われる「未開社会」といえども、全く変化に背をむけていたわけではない。逆もまた真なりで、欧米と同じく文明国・先進国で長い歴史をもつ「熱い社会」に日本は属するように見えるが、「未開社会」に類似した呪術や民間信仰が今なお息づいてもいる。

他者理解の姿勢
 だから「熱い」とみなされる社会と「冷たい」とみなされる社会の違いは、乗り越えられることのない絶対的なものではない。「熱さ」と「冷たさ」の配分の違いが、それぞれの社会で異なっているだけなのである。このことは、言語・慣習などが異質で遠くかけ離れているために、偏見や好奇のまなざしで見つめてしまいがちな他者の立場に、もしかしたら「われわれ」も身をおいていたかもしれないと反省する契機を促してくれる。レヴィ=ストロースがその主著『神話論理』などで取りあげた南北アメリカ大陸の先住民は、まさにそのような開かれた態度で、他者を受け入れようとした。
 グローバル化という現象と裏腹に、ますます他者理解が困難で混迷を極める今だからこそ、新大陸先住民の神話に他者への配慮の倫理的姿勢を読み取ろうとしたレヴィ=ストロースに、学ぶべきことは大きいはずである。
 しかし、かつてアングロサクソンの人類学者は、彼の著作を丹念に読まないまま、「熱い社会」とは西洋の文明社会のことで、「冷たい社会」とは「未開社会」のことだとレヴィ=ストロースが述べていると批判してきた。わたしたちも、それを鵜呑みにしてレヴィ=ストロースという「他者」を忘却していった。まずは、この過去を反省すべきかもしれない。
 
ブリコラージュとアート論
 「怜悧な理論家」のイメージのあるレヴィ=ストロースだが、絵画や音楽について好んで語る一面もある。アートと政治について語りたがるのはフランス人の習性だが、その一例かといえばそうでもないらしい。父親が画家で、曽祖父が宮廷のオーケストラ指揮者だったという出自を見れば、アートへの関心は生まれついてのものなのだろう。
 『遠近の回想』を読むと、亡命していたニューヨークで、アンドレ・ブルトンをはじめとするシュルレアリスムの面々と交流があったことがうかがえて興味深い。たしかに両者のあいだには、無意識への関心や、感性と知性の統合、「未開芸術」への関心など、重なる要素がいくつもある。両者が交わったのは当然であった。
 彼が『野生の思考』のなかで理論化し、その後神話分析の基本にした概念にブリコラージュがある。ブリコラージュとは、板の破片や布の切れ端など、手近な材料を用いて仕事するアマチュア作家の作業をいう。神話や動植物の分類などにも、それと共通する特徴があるというのだ。
 ブリコラージュの特質は、その素材がかたちや色、味わいなどの感覚特性をもつ点にある。その組み立てには合理的な思考が必要だが、個々の素材がすでに特性をもっているので、その全体は当初の目的とズレてくる。神話も同じで、その素材が動植物や鳥、天体などの固有の特性をもった存在なので、多様な個別性を包摂した全体ができあがるというのだ。
 ブリコラージュがこのようなものだとすれば、それがアート論に適用されたのは必然であった。アートとは、色彩や形態、メロディーなどの感覚特性を組み合わせて作られる一全体である。それを読み解くには、感覚特性の対比を中心にその論理を読み解くことが必要だというのだ。
 このアート論は興味深いが、神話論ほどには魅力的でないのはなぜか。神話は無意識的な営為の産物なので、そこに一貫した論理を読み込むことには意味があった。しかし、すでに当事者の解釈を含んで成立しているアートのうちに、感覚特性の対立を認めるだけでは単純すぎるだろう。彼のアート論の限界は、構造主義の現代世界への適用の限界でもあるように思うのだ。
 
民博にきたレヴィ=ストロース
中牧 弘允(なかまき ひろちか) 本館民族文化研究部
 レヴィ=ストロースがはじめて民博にきたのは一九七七年一〇月二〇日、開館を一ヵ月後にひかえていたときのことである。当時の『月刊みんぱく』によると、午前中は梅棹忠夫館長の案内で館内を見学し、午後はレヴィ=ストロースの要望で「日本文化における労働に関する観念」をめぐっての研究会が開催され(二頁左下の写真)、博物館の研究者と活発な意見交換がなされ、そのあと歓迎パーティーが開かれた、とある。また、「この博物館は、施設・内容ともに世界最高の民族学博物館であることを確信します」との感想が寄せられている。
 午後の研究会では若輩のわたしも末席をけがした。気難しい顔をしたレヴィ=ストロースがカバンをいじりながら日本での研究の目的を語り、ちょっと離れて奥様がすわっていた。通訳をしたのは『野生の思考』の翻訳者でもある大橋保夫氏(京大教授)だった。わたしにも順番がまわってきたとき、天理教の「ひのきしん」(宗教的奉仕活動)や同教団の初期の指導者飯降伊蔵が大工だったことをとりあげ、日本における労働観の一端を語った。
 夜のパーティーは四階の特別研究室で開かれ、多くの館員が参加した。そこで印象に残っているのは、レヴィ=ストロースが自分の立場は構造主義ではないと強く否定していたことである。つまり、イズム(主義)ではなく、構造的な見方をしているにすぎないのだ、ときっぱり述べていた。
 一九八〇年の春にもレヴィ=ストロースは来館しているが、特別な歓迎会は開かれなかった。ただし、彼がフランスのアカデミー入りした際に友人たちに配った記念メダル(写真)を当時の梅棹館長に手渡している。同時に、コレージュ・ド・フランスでの連続講義を依頼し、それは一九八四年に実現している。
 聞けば、アカデミー・フランセーズの会員で一〇〇歳を越えるのはレヴィ=ストロースがはじめてだそうだ。民博の初代館長にもレヴィ=ストロースにあやかって長寿を期待したい。
 
野に咲く「野生の思考」
竹内 信夫(たけうち のぶお) 東京大学名誉教授
 一九七三年秋一〇月、パリ。二八歳の私は文学研究の留学生としてその地に住むようになっていた。「五月革命」の余燼は消えていたが、それでもパリには軽やかな解放感が漂っていた。
 そのパリにクロード・レヴィ=ストロースもいた。今から思えば、その人は当時すでに六五歳。そしてその年に、彼はアカデミー・フランセーズの会員になる。『神話論理』も既に二年前の一九七一年には全四巻の刊行が完了していた。
 当時は「構造主義」なる一種の熱病が流行していた時代で、私の留学生仲間にも感染者は多かった。レヴィ=ストロースもその頭目の一人と目されていて、日本語の翻訳が出されたばかりの『構造人類学』が盛んに議論されていた。『野生の思考』に収められたサルトル批判などはもっともホットな話題であった。
 パリ留学生サークルでの議論を通じて、私はレヴィ=ストロースに関心を持つようになった。そして『野生の思考』を読んだ。人間の思考の基底に潜在する普遍構造であり、現代人の日常生活にも潜む「野生の思考」、という考えにひどく惹かれた。と同時に、それを表現するこの人類学者の文章の巧みさにも魅了された。
 レヴィ=ストロースの思考の根底にあるものは何だろうか? 答えはさまざまであろう。人類学的内容だけに向かう読みは表層を撫でて、その文章を捨てる。論語読みの論語知らずの愚である、と私は思う。知識は乗り越えられやがて忘れられるだろうが、「野生の思考」すなわち「野生のパンジー」(フランス語でpenseesauvage、同時にこの二つを意味する)は人々の心に咲き続けるだろう。
この「野生のパンジー」の放つ芳香の源を辿れば、自己中心の優越意識が平等の名において偽装するあらゆる差別と支配への拒否に行き着く。それが思想的に醸され、芸術的表現をまとって、すべての人間の、すべての存在の絶対的平等を主張する「野生の思考」として香り出るのだ。
 私はこの芳しい野草を我が住む田舎屋の庭先にも植えておこうと思う。一人の卓越した知性への忘れがたい縁として。
モノ・グラフ
アジアの人びとが見たヨーロッパ
―特別展「アジアとヨーロッパの肖像」から
 アジアとヨーロッパの人びとが、自らを、そして互いをどのように見つめてきたのか。そのまなざしのやり取りの軌跡を、広義の「肖像」、つまり人体表現を伴う造形のなかにたどろうというのが、今回の特別展「アジアとヨーロッパの肖像」のねらいである。この展示は、今後アジアとヨーロッパの計五ヵ国を巡回する予定であるが、日本での展示では、やはり日本のわたしたちがヨーロッパをどのように見てきたのかを示す作品が多くを占めている。しかし当然のことながら、ヨーロッパの人びとを描きとめてきたのは、日本の絵師だけに限らない。アジア各地で、ヨーロッパの人びととの出会いがあり、その有様がさまざまな造形のなかに刻み込まれていった。
 日本の観客=読者にとっては、南蛮屏風や長崎版画、横浜浮世絵などに描きとめられたポルトガル人やオランダ人などの「異国人」の姿は、すでになじみ深いものになっていよう。一方で、アジアの各地で生み出された、それぞれの土地での「異国人」図に接する機会は、これまでほとんどなかったように思われる。今回の特別展は、そうしたアジアのなかでのヨーロッパ像の異同を目の当たりにする貴重な機会となったはずである。
 タイの各地の寺院の壁画に、中国人の姿に交じって、ヨーロッパ人の姿が描きとめられている(図1)。二〇世紀初頭のベトナムの民衆版画においては、フランスの植民地統治下にあって、フランス人の生活の様子を描いたものが多数生み出された。今回の展示では、当時の版木を用いて近年復刻された版画が、ベトナム民族学博物館から出品されている(図2)。ヒンドゥーの神々の姿を描き出す、バングラデシュの刺繍布「カンタ」には、神々を取り囲むように、ヨーロッパ人の姿が配されている(図3)。ともに、自分たちの世界とは異なる世界の存在として、両者は重ね合わされてイメージされたのだろうか。
 オランダ・アムステルダムのトロッペン博物館からは、旧オランダ領東インド、現在のインドネシアで生み出された多様な造形の数々が出品されている。ジャワのバティック(ろうけつ染め)の布には、ジャワにおけるオランダ軍の様子を染めあげたものが見られる(図4)。また、「白雪姫」や「赤頭巾」など、ヨーロッパのおとぎ話を題材としたバティックも制作されている。ジャワの工房が、ヨーロッパの童話を収めた絵本を入手し、その挿絵をもとに図柄を考案したものである(図5)。
 影絵人形劇ワヤン・クリットのなかにも、ヨーロッパ人を表現した人形が見られる。ワヤン・クリットは、ラーマーヤナやマハーバーラタなどの物語をおもな題材としているが、ジャワ戦争を題材としたワヤン・プルジュアンガンには、ジャワのマタラム王国の王族や戦士たちと、その抵抗を制圧しようとしたオランダ領東インド総督マーカス・デ・コックとその兵の人形が登場する。デ・コック総督をあらわす人形には、ラーマーヤナの魔王ラーヴァナの人形に通じる特徴がうかがえる(図6)。その人形を、同じデ・コック総督を描いたコーネリス・クルースマン(オランダ)の手になる肖像画と比べれば、それぞれの表現に込められた人びとの思いの違いがうかがえよう(図7)。人(ひと)を描くことは、じつは、自分自身を描くことであったようだ。


地球ミュージアム紀行  -トロッペン博物館/オランダ-
文化の接触と交流の殿堂
 現在開催中の特別展「アジアとヨーロッパの肖像」に向けての展示物の借用で、ひとつの館としてもっとも多くの資料・作品を提供していただいたのが、オランダ・アムステルダムのトロッペン博物館である。
 トロッペン博物館は、一八七一年、オランダのハーレムに設けられた植民地博物館をその前身としている。植民地博物館は、当時、オランダ通商産業振興協会の理事長を務めていたフレデリク・ウィレム・ファン・エーデンが、自ら収集していた海外の産物のコレクションをもとに設立したもので、オランダの海外領土からもたらされる産物を展示し、それを素材として国内と海外領土における通商と産業の振興のための調査・研究を推進することを目的としていた。
 植民地博物館は、一八八一年からは政府の資金援助も受けるようになり、収蔵品の量も活動の範囲も拡大を続けていく。その活動を基礎に、一九一一年には植民地研究所が設立され、博物館はその一部として再編された。そして、一九二六年、植民地研究所と博物館は、アムステルダムにあらたに建設された現在の建物に移転する。その後、インドネシアの独立(一九四八年)を受けて、一九五〇年に研究所は王立トロッペン研究所(熱帯研究所の意)と名称を変え、博物館もトロッペン博物館と改称して現在に至る。この段階で、博物館の収集と研究の対象も、広く熱帯をあつかうものとなり、アジアやアフリカ、南アメリカ、オセアニアの民族誌コレクションが形成されていくことになる。
 トロッペン博物館は、展示の面でも、先進的な試みを進めてきた。一九七九年の全面改装に当たっては、「現代世界における開発の問題」を中心テーマに据え、世界各地の現代的状況を示す展示を全面的に展開した。当時、世界の民族学博物館の展示が、いずれも諸民族の伝統的な生活を紹介するものにとどまっていたなかで、その試みは衝撃をもって迎えられた。一方、二〇〇〇年以降、順次進められている改修では、一転して、歴史に重点を置き、「オランダ領東インド―植民地の歴史」の常設ギャラリーを設けるとともに、各地域別のギャラリーでも、歴史的資料を活用しつつ、現代までの変化を跡づける展示を展開している。現代性の強調や歴史性の回復。いずれも一九七〇年代以降の民族学・文化人類学の動向を、いち早く民族誌展示に反映した動きである。
 トロッペン博物館が、世界に先駆けて展開したもうひとつの事業が、子ども博物館の開設である。六歳から一二歳の子どもだけを対象としたもので、ひとつのプログラムは、二年間の準備ののち、三年間継続して実施される。いずれも「異文化体験」をテーマとしており、現在は、「ボンベイ・スター」という、インド・ボンベイ(ムンバイ)を舞台に、専属のスタッフとともに子どもたちが都市の仕事や生活を追体験する参加型のプログラムが実施されている。
 トロッペン博物館の民族誌コレクションには、伝統的な生活用具だけでなく、文化の交流の跡を示す作品や資料が数多く含まれている。コレクション、事業、展示のいずれもが、異文化交流に焦点を当てたものになっているところに、トロッペン博物館の特徴がある。それは、この博物館がたどった歴史そのものが、まさに文化の接触と交流の歴史であったことに由来している。


表紙モノ語り
銅板紋章(チムシヤン)
儀礼用具(銅版紋章)(標本番号H8023、高さ/1.6cm 幅/60cm 奥行/91cm)
 銅板紋章は、北アメリカ北西海岸の先住民族のあいだで有名なポトラッチ儀礼に欠かせない威信財である。そこに描かれているのは神話に登場する動物が多く、家族の長が属する氏族の紋章として、その人物の系譜をあらわすとされるが、高価な銅で作られていることから最高の財産でもある。それをもつ首長は自分の名声を上げるために、多くの財産を一度に消費するポトラッチ儀礼で、この銅板紋章を惜しげもなく他人に譲ったり、ときには皆の前で壊したりした。
 その作り方や文様の施し方は民族によって若干異なる。チムシヤンの場合には、扇形の上部と方形の下部の境をなす線と、その線の中央から真下に引かれた線の打ち出し方が鋭くないこと(彼らより南の民族では鋭角に鋭く打ち出す)、そして黒い塗料で描かれる文様の輪郭に細い線が彫り込まれている点に特徴がある。銅板紋章が製作されるのは、ヨーロッパ人と接触するようになって銅が手に入れやすくなってから後の時代であると考えられる。この資料に使われている銅板は、カナダ産の鉱石を日本で精錬、加工したものである。
 この銅板紋章には、制作者の氏族の紋章であるワシが描かれている。チムシヤンは四つの母系氏族にわかれていたことが知られており、それぞれワシ、オオカミ、ワタリガラス、シャチを紋章としていたといわれる。チムシヤンも近隣の諸民族同様、トーテムポールを立てる習慣をもっていた。その機能と意味は銅板紋章とは異なるが、トーテムも紋章も人間の集団間の関係を動物や事物の対応関係であらわそうとすることについては共通している。つまり、そこに描かれる動物はともに「考えるに適している」から選出された自然種なのである。


万国津々浦々
子連れフィールド・ワーカー奮闘記 メキシコ篇 
あかね色の空の下で
武田 和代(たけだ かずよ) 総合研究大学院大学文化科学研究科博士課程
調査地へたどり着くも・・・
 二〇〇八年四月から一年間の予定で、二歳になる娘を連れて、メキシコ南部のオアハカ州でコーヒー豆生産者の生計とフェア・トレードに関する調査をおこなっている。
 オアハカ州は、メキシコのなかでも先住民族とよばれる人びとの割合が全人口の約四割と高く、民族構成も多様だ。州都・オアハカ市の市場では、カラフルな民族衣装をまとった女性たちが、特産のチーズやチョコレート、バッタの丸焼き、民芸品などを売り、広場では舞踊や音楽などの祭りが盛んに開かれている。しかし一方で、中央政府による近代化や開発の波から取り残され、貧困層の割合が高いという厳しい現実もある。
 メキシコで子連れ調査をするにあたっては、いろいろな不安や心配がつきまとうが、小さな子どもは案外、新しい環境にすぐに適応してくれる。保育所を利用しているが、娘は一ヵ月も経たないうちにスペイン語が口から出てくるようになり、今では人形相手にスペイン語で話しかけるようになった。
 便利な街に住んでいるあいだはいいが、難関は村へ調査に行くときだ。特にわたしの研究対象であるコーヒー生産者の住む地域は、州都から自動車で約八時間ほど離れた標高約一〇〇〇メートルの山間部にある。そこへたどり着くまでには、山肌を縫うように走るカーブの道が続くため、車酔いした娘はバスのなかで吐いて泣き叫ぶばかり。目的地に着いたときにはわたしも娘もヘトヘトで、正直、調査どころではなく、親の都合で娘をあちこちに連れまわす罪悪感はいつもつきまとう。また生産者に話を聞こうにも、違う環境で不安になった娘が「抱っこ、抱っこ」とせがみ、一苦労だ。夏休みなどを利用して夫が調査と育児を助けにきてくれるが、いつもそうとは限らない。

娘を通じたつながり
 つい独り身の自由さを懐かしんでしまうが、逆に子どもがいることで気づくこともあり、子どもを通じて人間同士のつながりも生まれる。先日も、同じ保育所に通う女の子のお誕生日会に招待された。子どものパーティーでは必ず「ピニャータ」とよばれる、なかにお菓子の入ったクス玉が登場し、子どもたちが棒でたたき割るのだが、これが結構難しく、そう簡単には割れない。くわえて大きな男の子の場合には、天井の上で大人がロープを操作してピニャータを持ち上げたりと割れにくいように意地悪をする。そしてついにピニャータが割れると、地面いっぱいに散らばったお菓子を集めようと子どもたちが群がる。その光景はなかなかすさまじく、しり込みした娘は結局、何のお菓子も取れなかったが、帰り際にはお土産に袋いっぱいのお菓子をもらって大喜び。しかしこのお菓子が曲者で、人工着色料のたっぷりと入った赤や緑のキャンディーを舐めていた娘の口は、みるみるうちに吸血鬼の口のようになっていった。
 毎日、調査と育児に追われ、せわしなく時間が過ぎていくが、夕方に家の近くの野原を娘と散歩するときは、心がほっとするひとときだ。オアハカ盆地の夕焼けは本当に美しく、空と山が一体となってあかね色に変化する光景を見ながら、次の日のパワーを充電している。


時論・新論・理想論
カレーといえばナーン
家庭料理にあらず
 民博のレストランに今年の三月からインド人のスタッフが加わり、焼きたてのナーンが食べられて評判がいいようだ。職員向けにもだしてほしいという要望が殺到しているとも聞く。二〇〇五年の特別展「インド サリーの世界」の開催にあわせて特別メニューとして始まったインド・カレー・セットは、その後「みんぱくランチ」として定番化され、今に至っている。民博のエスニック料理の代表としてインド・カレーの名声が保たれたのは喜ばしい限りである。
 日本の一般家庭で作るカレーは一般にご飯で食べる文字通りカレーライスだが、インド・レストランではご飯よりもナーンが人気、というよりむしろ「カレーといえばナーン」が定着している。しかし、特別展のときから材料を提供してもらっているカレー店「サンタナ」のクンナ・ダッシュ氏は、インドの家庭料理を日本に紹介したい意向が強かったので、最初ナーンをだすのに積極的ではなかった。
 ナーンはパン種を発酵させてからタンドゥール(かまど)で焼いて作る。民博では今回本格的にナーンを焼くためにかまどを新調したが、インドでも一般家庭にそうそうあるわけでなく、ナーンはもっぱらホテルのレストランなどに限られる。一方家庭でよく食べられるパン類は、無発酵のチャパーティー、パラーター、プーリーなどであり、また東インドや南インドでは日本と同様にご飯が主食である。

画一化と地方色
 その一方で、カレーにナーンにタンドゥーリ・チキンという日本のインド・レストランの定番は、インドでもいわばホテル・メニューとして定着している。そのため、外国人の多い四つ星、五つ星ホテルのレストランのメニューにあまり大きな差はない。ただ、大きなホテルになると、地方色を強調した南インド・レストラン、グジャラート・レストランなどなどがおかれている場合もある。
 インドの食文化は千差万別で、われわれ外国人でも、ある地方の料理になじむとほかの地方の食事がのどを通らない、などということもある。経済発展をとげるインドのレストランでは、一方でホテル・メニューのような画一化が進むとともに、ステレオ・タイプ化された地方色も強調されるようになっている。近代的なショッピング・モールのなかにはファスト・フード化された地方の料理がならび、また田舎風をうたってノスタルジーをあおる大都市郊外のレストランなども出現している。
 クンナ氏の故郷東インド・オリッサ州はその北隣の西ベンガル州とともに魚料理がうまいところである。しかし、クンナ氏は心斎橋にある自分の店では魚料理をだすことができない、となげく。日本でのインド・イメージはかくも根強いのである。


外国人として生きる
ペルー出身のプロボクサー
吉富 志津代(よしとみ しづよ) NPO法人 多言語センターFACIL
(神戸を中心に外国人コミュニティ支援のため多言語サービス事業を展開している)
 ペルー国籍のファン・ロドルフォ・カスティーヨ・ガルシアは、一九八四年一一月三日生まれの二三歳。日本ではたぶんはじめての、ペルー人ライト級プロボクサーだ。彼のことを、みんなTOTOとよぶ。プロになってから半年、デビュー戦を含む二回の試合にはいずれも勝っている。ちょっとありきたりな質問だが「今後の目標は?」とたずねると、意外にも「特にはないんです」と笑顔が返って来た。「ボクシング一筋という人生はいやなんです」。試合で愛用しているトランクスにはTOTOのネームとともにPERUという文字も書かれている。やはりペルー人ということをアピールしたいのかと問うと、「ただ単にこのアルファベットのデザインが好きなだけ」だそうだ。経歴からつい予想しがちな、「必死で頑張る外国人」というイメージとはずいぶん違う青年であった。
 TOTOが親に連れられて日本にきたのは、六歳のとき。幼かったためかことばで苦労をした記憶はない。今では日本語の方が第一言語で、スペイン語は親と日常的な会話のときに何とか話せる程度。親と複雑な内容の話をかわすときは辞書が必要なこともあるという。

ボクシングが与えてくれた自信
 勉強は嫌いだった。中学三年生になってまわりがみんな高校受験のための勉強一色になっているころ、たまたま母の友人が開いていたボクシングジムに通い始めた。体を鍛えることが好きだったから、「何となく」行ってみたという。このときは三ヵ月でやめたが、その後、たまたまボクシング部のあった夜間高校に進学してボクシングを続けることになる。とはいえ性格はいたって温厚で喧嘩(けんか)もあまりしないタイプ、いわゆる反抗期もなかったというTOTOだが、今では「リングにあがると人が変わる」とみんなに言われるらしい。
 中学生時代まではひどい人見知りで無口、はじめて会った人とは口もきけないぐらいだった。しかし、高校でボクシングの試合に勝つごとに自分に自信を持ち始め、卒業のころにはクラスでも賑やかすぎて、先生にはよく「静かにしろ」と言われるほどになった。ボクシングは必ず勝ち負けという結果が出る。そのことがTOTOに「悩んでも結果はどうせ黒か白。なるようになる」という気楽さを与えてくれたと思っている。
 それでも、電話でアルバイトの問い合わせをしたら名前と国籍が違うというだけで、面接さえ断られたこともある。そのときは落ち込んで、一時は日本国籍にしたいとさえ思った。しかし結果的に、雇ってくれた別のアルバイト先では、とてもいい人たちにめぐりあえた。だから「国籍の違いにどう反応するかで、いい人かどうかを判断することができると気付いた」という。

ボクシングに未来をかける
 県立西宮香風高校(定時制)二年でTOTOははじめて全国大会に出場し、ベスト八になった。「俺ってボクシング強いかも」と思った。それがきっかけで注目されることになり、推薦によって大学に進学した。
 その後も、彼のような攻めるボクシングはプロ向きだと、たびたびスカウトされてきた。プロへの転機へのきっかけを与えてくれたのは、大学での大学王座決定戦だった。世界的な試合もおこなわれる会場で観客の大声援のなか、全国大会優勝経験者を相手にKO勝ちしたのだ。これまで味わったことのない興奮を経験した。「この会場でまた勝つ試合をしたい!」、プロになる決心であった。その後、彼は大学を中退してボクシングジムに通い、全日本社会人選手権で優勝し、プロボクサーとしてデビューした。
 ペルー人ということを意識してつねに表現したいわけではない。それでも、試合中ペルー人の声援が聞こえると「体のなかの血が燃える」。「最近やっと気付いたんです。俺ってやっぱりボクシングが好きだって」。そして、その自分が好きでしていることが、日本に住む多くのペルー人に「自分たちの誇りだ」と言ってもらえることが、たまらなく嬉しい。スペイン語の情報誌などのインタビューでよく「今、日本に暮すペルー人の若者たちに何か一言を」と請われ「頑張ってほしい」としかいえないこともある。でも自分のことが誰かの励みになるということは、間違いなく自分がボクシングを続ける原動力のひとつになっているという。
 TOTOと話していると、ボクシングに対して、また人生そのものに対して、気負いや貪欲さは感じられない。この柳のようなしなやかさが、彼を強くしているのかもしれない。そしてカッコイイ。
 TOTOは笑いながら語る。「いつか世界チャンピオンになったら、日本から出たペルー人ボクサーとして有名になる。そしたらそれは当然、高校時代にペルー人だからといってアルバイトの面接さえしなかった人を見返すことになるでしょ?」。やっぱり、あの経験は心に残っていたようだ。

歳時世相篇(8)【日本点字制定記念日】
万人のための”点字力“
「点字制定記念日」に思う
 一一月一日は「日本点字制定記念日」である。一八九〇年のこの日、東京盲唖(もうあ)学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)で開かれた点字選定会において教員・石川倉次(いしかわくらじ)(一八五九~一九四四)の提案が採用された。石川の点字は、フランスのルイ・ブライユ(一八〇九~一八五二)が考案した六点点字(アルファベット)を日本語(五〇音)に翻案する試みだった。日本の点字制定から一二〇年近くが過ぎた今日でも、多少の表記法の変遷はあったものの、基本的に石川が翻案した仮名文字体系の点字が使用されている。一一月一日は、視覚障害者に読み書きの喜びをもたらした点字の意義を再確認する記念日として、きわめて重要だろう。
 日本点字制定一〇〇周年の一九九〇年、記念切手が発行され、「点字=視覚障害者用の文字」の市民権が定着した。その影響もあって一九九六年、多くの小学校が採択する四年生の国語教科書(光村図書出版)に大島健甫(おおしまけんすけ)氏の「手と心で読む」が掲載され、現在に至っている。これは小学生に語りかけるかたちで、中途失明者の大島氏が母親の協力をえて点字を習い覚えた経験を綴った文章である。大島氏の「それまで親しんでいた文字とはなれることは、まるで心のふるさとを失うように思えたのです」「かじかむ指をあたためあたため、わたしは、何日もかかって、ようやく一ぺんの詩を読んだのでした」などの発言は、視覚障害の当事者ならではの思い、「文字=人びとの心を結ぶ道具」をもつ感動をよく伝えている。
 大島氏の文章は点字の役割、およびそのユーザーである視覚障害者の生活を意識するための教材として有益だろう。「手と心で読む」の延長で点字の体験学習、視覚障害者の生の声を聴く授業をおこなう学校も増えた。僕自身、「手と心で読む」の教育的価値を認める一方、そろそろ「障害者=弱者」「点字=特殊な文字」といった固定観念を乗り越える新しい点字論が登場してもいいのではないかと思っている。二〇世紀の点字が弱者への配慮、人びとの優しい心を呼び覚ますバリアフリーの象徴だとするならば、二一世紀の点字は触文化への気づき、五感(人間)の可能性が縦横に発揮される多文化共生社会のシンボルとなりうるのではなかろうか。

「光の使徒」ブライユ
 おりしも二〇〇九年は点字の考案者、ルイ・ブライユの生誕二〇〇年である。世界各地でさまざまな記念行事、巡回展などが計画されている。ブライユ二〇〇年は点字の歴史、視覚障害者の存在を広く社会にアピールする文字どおり一〇〇年に一度のチャンスだといえる。一九世紀、ブライユは不遇のまま結核で亡くなり、その名前も一般にはほとんど知られることがなかった。ブライユ没後一〇〇年の一九五四年、フランス政府は彼の遺骨を国の英雄が眠るパンテオンに埋葬し、盛大な式典を執行した。二〇世紀、ブライユは「光の使徒」と称され、視覚障害関係者の尊敬を集めた。
 さて、二一世紀のブライユはどのように評価、紹介されるのだろうか。二〇〇九年には点字そのものの宣伝に加え、これまで視覚障害者と無縁だった健常者を巻き込むような啓発活動が興隆することも予想される。点字の奥深さに着目する二一世紀のキーワードが”点字力“なのである。以下、ブライユ、そして石川が示した”点字力“の二つの特徴について述べよう。
 わずか六個の点の組み合わせでアルファベット・数字・記号、さらには音符や日本語の仮名をあらわすことができるのが点字である。ブライユはフランスの砲兵大尉が創始した暗号「夜の文字」(一二点点字)をベースとしつつ、指先で容易に触読しうる文字として六点点字を作り上げた。一二点を指で識別するためには時間がかかるので、迅速かつ正確に読み書きできるように点の数を半減し、究極の触覚文字が生まれた。少ない材料から多くを生み出すしたたかな創造力が、点字の第一の特徴といえよう。「より少なく」という点字の思考法は、いたずらに選択肢を増やし物質的豊かさのみを追求する現代文明に、強烈な反省を求めるものである。
 点字考案以前には、日本でも欧米でも普通文字そのもの、あるいは簡略形を凹凸化する線による浮き出し文字が盲学校で使われていたが、ブライユは触覚に最適な文字として六点点字を発表した。線から点へ。これは当時の盲教育にとってコペルニクス的転回だった。晴眼者との互換性がない文字を用いることへの反対、無理解もあり、点字が公式な文字としてフランスで認められるのは一八五四年、ブライユの死の二年後であった。僕は「文字は線で表現すべきだ」という多数派の論理を打破し、点字の研究に尽力したブライユの熱意にあらためて敬意を表したい。常識にとらわれないしなやかな発想力が、点字の第二の特徴である。マイノリティの独自性を尊重する点字の柔軟な思想は、混迷が続く現代の教育状況を問い直す示唆を僕たちに与えてくれるに違いない。

あらたな点字論をめざして
 したたかな創造力としなやかな発想力。点字に込められたこの二つの精神を”点字力“と名づけ、”点字力“を普及する機会としてブライユ生誕二〇〇年、そして毎年の「日本点字制定記念日」を積極的に活用したいものである。点字とはルイ・ブライユや石川倉次が創出した「手と心で読む」視覚障害者の文字だが、その根底に流れる ”点字力“は視覚障害者のみならず、万人が「したたかに、しなやかに生きる」ための手がかりを提示している。さあ、二一世紀のあらたな点字論を確立するために、僕たちの貧弱なる”点字力“を大いに鍛えることにしよう。


生きもの博物誌 【タバコシバンムシ】
 博物館のいたずら虫たち(8)
タバコや藁を食べる
 タバコシバンムシはコウチュウ目シバンムシ科の昆虫である。英名をTobacco beetle、もしくはCigarette beetleといい、また漢字では煙草死番虫と書かれることからもわかるように、タバコを食害する害虫として知られている。博物館では乾燥した藁製資料や植物標本、昆虫標本を食害する。
 民博では二〇〇七年度の冬に日本展示場の藁製資料に被害が発生した。資料管理を担当する職員が毎朝開館前におこなっている資料点検によってまず発見されたのに続き、外部委託業者による高所資料の点検作業でその被害が広範囲にわたっていることが確認された。虫糞の落ちている資料の周辺で発見した成虫を採取した結果、タバコシバンムシであることが判明したのである。被害状況を調べていくうちに最終的には被害区域に展示してあった九六点の資料を一時的に展示場から撤去し、処理を実施する事態となった(写真1、写真2)。虫害にあいやすい資料が多く収蔵・展示されている民族(俗)系の博物館では、常にこのような虫害の危険性と隣り合っているのである。

仮死状態で生き残る
 虫害が一度発生すると、資料に殺虫処理をおこなって虫害を引き起こしている虫を死滅させなければならない。その方法には化学薬品製剤で殺虫処理をおこなう方法のほか、二酸化炭素処理法、低酸素濃度処理法、もしくはこのシリーズの一回目で紹介されたような温度処理法があげられる。このなかで、作業者に安全で、かつ多くの資料を一括で処理できるためほかの方法と比べると有利なのが二酸化炭素処理法であり、タバコシバンムシの被害が出た際もこの方法を用いて殺虫処理をおこなった。
 民博でおこなっている二酸化炭素処理法は、機密性の高いシートでできたテントのなかに虫害の発生した資料を収め、テント内の二酸化炭素濃度を六〇パーセントから七五パーセント程度に維持しながら一四日間処理をおこなうという方法(写真3)である。二酸化炭素処理は封入する二酸化炭素の濃度が重要であり、その濃度が四〇パーセント未満になっても、八〇パーセント以上になっても殺虫効果が落ちてしまう。二酸化炭素の低濃度はともかく、八〇パーセント以上という高濃度の状態で殺虫効果が落ちる原因は、二酸化炭素濃度が高くなりすぎると虫が呼吸をやめて仮死状態になり、その結果、生き残る虫がでてくるためとされている。つまり二酸化炭素処理は、虫がある程度活発な状態でなければその効果を発揮しないという方法なのである。
 博物館で虫害が発生すると、一気にその被害が広がることがある。これは、虫害にあいやすい材質の資料を近接して展示したり、高所の壁面を利用して展示したりすることで、目の届きにくい環境となり、虫害の発見を遅らせてしまうことが原因であることが多い。皮肉なことにこのような展示手法は、虫害にあいやすい資料群をあつかう民族(俗)系の博物館で有効な展示手法として用いられることが多いことも事実である。
 展示効果と保存環境のバランス。なかなか難しい課題ではあるが、この両立を真剣に考えて実践するのも博物館活動の醍醐味であろう。

コウチュウ目(学名:Coleoptera)シバンムシ科 (学名:Anobiidae)
タバコシバンムシ (学名:Lasioderma serricorne)
成虫は体長2.5mm内外、濃赤褐色で、全体に灰黄毛が密生し、長楕円形のかたちをしている。幼虫の体長は3.5mm内外で、やや黄味のかかった白色をしており、全体が繊細な長毛で密に覆われる。卵は食物となる乾燥した動植物質の隙間や表面に産みつけられる。世界じゅうに広く分布し、日本国内にもほぼ全土に分布している。卵は6~12日で孵化して幼虫は食物に穴をあけて入っていく。成虫の寿命は10日から15日で、このあいだ食物は一切取らず、もっぱら生殖活動をおこなう。

フィールドで考える
接触による治療
異文化「接触」
 「異文化接触」というときの「接触」とは比喩的なことばであり、対象をベタベタ触っているという意味でないことはいうまでもない。しかし、タイ・マッサージを研究テーマにしているわたしは、文字通り、フィールドで人びとと「触れ合って」いる。人類学的なフィールドワークでは、対象社会に入り込み、そこで人びとがしていることを実際に体験しながら調査をする「参与観察」という方法がおもにとられる。「観察」というと目で見ることと思われがちだが、人類学者たちは実際には視覚だけでなく、五感をフルに働かせて対象社会を理解しようとする(感覚を五つにわけるという分類法自体、普遍的なものではないが)。わたしの場合、タイ北部チェンマイの伝統式診療所でタイ・マッサージを習い、マッサージ師の一人として働きながら調査をしていた。

治療法としてのタイ・マッサージ
 タイ・マッサージというと、観光客向けのサービスか、リラクゼーションのためのものというイメージが強い。なかにはタイ・マッサージという看板を掲げて性的なサービスを提供している店もある。しかし、タイ・マッサージは治療法として用いられることもあり、最近では化学薬品よりも「自然」な療法だとして、タイ人都市中間層のあいだで再評価されている。また、タイ政府は中国医学やアーユルヴェーダ等に並ぶものとして「タイ式医療」なるものを制度化しており、タイ・マッサージを療法のひとつとして普及している。
 わたしが調査をしている診療所にタイ・マッサージを受けに来るタイ人クライアントの多くは、体のどこかに痛みやこりを抱えている。その症状は、長いあいだ机に向かってパソコンを使っていたことによるものなど、現代の都市中間層のライフスタイルを反映している。しかし彼らはその痛みを土着的なやり方で解釈する。痛みの原因は体の「セン」というスジのようなものの緊張や硬化とされ、それを治すにはそのセンを揉みほぐす必要があるとされる。日本語でいう「ツボ」などと同様、「セン」は西洋近代医学にはない身体部位である。

癒しの感覚
 センの位置はタイ・マッサージのテキストなどに図示されているものの、それを見ただけでは正確に知ることができない。わたしは一〇日間のタイ・マッサージ習得コースを修了した後、先輩のマッサージ師を相手に練習するなかで、センの位置が人により微妙に異なることに気づいた。本当の意味でセンの位置を把握するには、実際にいろいろな人の体に触れ、また、自らマッサージを受け、センを押さえ(られ)たときの感覚を実感してみる必要がある。
 また、センにかける圧力の強さも教科書からは知ることができない。タイの人びとは「痛くなければ効き目がない」と言い、外国人と比べて強いマッサージを好む。わたしは最初、タイ人たちを満足させようとして汗だくになり、むしろこちらが筋肉痛に苦しめられたが、先輩のマッサージ師たちに教えられ、力を入れるのではなく体重をかけるコツを次第に覚えるようになった。ただし、強ければ強いほど良いというわけでもなく、相手の様子を見ながら強さを調節しなければならない。
 近代医療においても触診などがおこなわれるものの、触覚は主観的な感覚とされ、視覚的情報が重視されることが多い。実際、西洋近代科学では「目で見えること=客観的」とされ、顕微鏡やX線撮影、身体解剖などによってさまざまなことが「明らかに」されてきた。しかし、医師たちはX線写真やモニターの画像以上に、患者ときちんと向き合っているだろうか。
 視覚が対象とのあいだに一定の距離を必要とするのに対し、触覚はその距離をなくす。タイ・マッサージによる治療は決して一方的な「施術」ではなく、マッサージ師とクライアントのあいだには接触と言語を通じた密なコミュニケーションが生まれる。同じような症状であっても同じ療法で治るとは限らないため、マッサージ師は個々のクライアントの体に触れ、クライアントの身体的・言語的反応に基づいて問題のあるセンを特定し、治療の効果を判断する。ベテランのマッサージ師でさえ一度の施術で治療できるとは限らず、何度か試行錯誤するなかで症状を和らげていく。そうするうちにマッサージ師は、それぞれのクライアントの体の特徴や性格、好みなどを熟知するようになる。常連のクライアントがいつも同じマッサージ師を指名するのは、こうしたやりとりを通じた安心感・信頼感があるためである。
 近年、IT化は医療の方面でも進み、遠隔地医療などのサービスがインターネットを通じて提供されるようになってきている。その一方で、身体接触を通じた療法を求める人が各地で増えているという。生身の人間同士の「ふれあい」が不可欠であることは医療の領域に限った話ではない。だからこそ、人類学者はフィールドに行くのである。

みんぱくウィークエンド・サロン 研究者と話そう


次号予告・編集後記
 今回は民博に残るレヴィ=ストロースの軌跡を求めて、館内を走り回った。まずは最初の来館時の記録写真。庶務が撮っていたはず、という証言をもとに広報係や総務係にたずねるが、倉庫からでてきたのはキッシンジャーの写真。初期の『月刊みんぱく』や『十年史』にも載っていない。古参のS氏に聞くとE氏のもとに連れていかれた。E氏が管理するデータベースには十年史用に集められた写真等の資料の情報がつまっている。ついに映像音響資料収蔵庫にきちっと一枚一枚番号つきで冷蔵保存されている写真とネガに辿り着いた。
 次に、梅棹初代館長に渡されたというアカデミー・フランセーズの記念メダル。梅棹資料室にはなく、先生のご自宅まで家捜ししていただいたが見当たらないという。最後は、収蔵庫のヌシであるI氏の協力をえて、意外なところからひょっこりあらわれた。
 直筆のサインを求めて当事の芳名録もあたってみた。レヴィ=ストロースの署名は残念ながらなかったが、かわりに見つかったのは、毛筆でアルファベットを堂々縦書きにしたCosmologist Carl Sagan。ジェラルドとベティー・フォード元米国大統領夫妻は、ページのど真ん中にちんまりと二人仲良くボールペンでサインしていた。
 梅棹資料室、館長室、その他関係部署の方々に感謝する。 (山中 由里子)



バックナンバー