MINDAS 南アジア地域研究 国立民族学博物館拠点
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◆研究会報告 2013

研究会報告
MINDAS 2013年度第4回合同研究会

日 時: 2014年2月10日(月)、11日(火)
場 所: 国立民族学博物館2階 第3セミナー室
発表者: 発表1.鈴木晋介(関西学院大学・先端社会研究所研究員)
「現代スリランカにおける「路傍の仏堂」の増加について ―調査報告と予備的考察」
発表2.田森雅一(東京大学・大学院総合文化研究科学術研究員)
「インド音楽伝統と多様性の環流 ―インドとフランスを結ぶグローカル化の諸相―」
発表3.杉本星子(京都文教大学総合社会学部教授)
「アジア・アフリカ向け日本製プリントテキスタイルの輸出とインド商会」
概 要: 発表1.鈴木晋介
 2000年代に入る頃より、スリランカでは小さな仏堂が次々と道端に建造されている。この「路傍の仏堂(Budu Madura)」増加現象を如何に捉えるべきか、本発表では中央州キャンディ県での短期集中調査による成果報告と報告者による予備的考察がなされた。
 「路傍の仏堂」、その殆どは何気ない生活の場にひっそりと佇んでいるもので、多くは近隣住民による共同出資で建造されている。日に三度のブッダ・プージャーがなされ、道行く人びともそっと拝んで通り過ぎていく。傍目には、特段どうということもない「仏堂のある風景」と映る。しかし、報告者が調査地キャンディ市とその周辺で網羅的に行った調査では、全域で84棟ある「路傍の仏堂」のうち、約75%は2000年代以降に建造されたものだった。道端に仏堂のある風景はごく新しいものなのである。
 報告では、仏堂の形態と建造パターンの分類、建造の担い手や建造目的に関するインタビュー結果など基本事項が概観されたのち、この増加現象を3つの文脈に結んで理解する予備的考察が展開された。第1の文脈は、シンハラ仏教の展開であり、19世紀後半の仏教復興運動で醸成された仏教浄化ないし仏陀一仏信仰という思考と実践形成の強力な磁場とその延長上の「再呪術化」という展開に、この仏堂増加現象を捉えるものだ(議論ではObeyesekereや杉本良男氏が指摘した仏堂の路傍展開第1波(1950年代)との対比的検討がなされている)。第2は仏像と呪力の結びつきを強く促したとみられる2004年インド洋津波という文脈(特に「三叉路」の場所性をめぐって)、そして第3の文脈として提示されたのが、仏堂の増加時期と重なる「生活全般の断片化」という事象であった(「海外出稼ぎの増加」や「葬儀ホール」の事例などを元に、共同性の再構築として仏堂増加を捉える視角が提出された)。
 研究会参加者からは、事象全体の背景を整合的に捉えようとする水準とは別に、(特に文脈3の仮説妥当性をめぐって)個々の事例へのより微視的な着眼からの立論の必要性が指摘され、また、仏堂の管理や女性の関わり方など、事象の細部に至るまで他の地域や時代との比較的視点からのコメントがなされた。研究会での有益な示唆を受け、報告者は今後のより入念な現地調査を継続していきたいと考えている。
発表2.田森雅一
 本報告は、インドとフランスという国家的な枠組みを超えたインド人音楽家たちの近年の諸活動に焦点をあて、「グローカル化する世界でのインド音楽伝統の再生産をめぐる問題」についてローカルでミクロな視点から検討する試みの一環をなしている。
 本報告では、1960年代以降のインド音楽の世界的な認知拡大に果たしたアラン・ダニエルーとユネスコの貢献、フランスにおける文化政策と地域振興がインド音楽の受容に果たした役割など、インド音楽のグローカル化の背景にある動向との関連を視野に入れつつ、インドとフランスを結ぶインド伝統音楽のグローカル化の諸相について検討した。
 より具体的には、1980年代前半に北インド・ラージャスターン地方のジャイプルからフランスの地方都市アンジェに渡った、当時無名のハミード・ハーンの音楽活動とカーストを超えたムサーフィルというグループの形成が、ラージャスターンの音楽世界に与えたインパクトについて検討した。さらに“ムサーフィル・モデル”を継承・発展させているグループとしてラージャスターン・ルーツに注目し、ムサーフィルとの比較を行った。
 インド国内のローカルな社会関係のなかで劣位に置かれてきた世襲音楽家たちは、かつても今も自分たちの技芸を披露する新たな活動の場と経済的機会を求めて活動している。1960年からのインド伝統音楽のインターナショナル化、1980年代からのワールド・ミュージック化、そして今日のグローバル化の流れの中で、ミーラースィーと呼ばれるムスリムの世襲音楽家たちの中には、自らの演奏活動の場を海外に求めた者たちがいる。彼らの活動は、インドと海外を往復し、異文化の先進社会でインドの伝統音楽・舞踊を披露し、海外の音楽家たちとのセッションを通じて外貨を獲得するだけにとどまらない。西洋流のアレンジ手法やグループ編成などに習熟し、現地の言葉を学び、聴衆の嗜好性などを察知し、音楽プロデューサーやオーガナイザーなどとの独自のネットワークを築くようになる。そのなかには、インドからの招聘音楽家(Guest Musician)という立場を越えて、自らのグループを率い、伝統的な楽曲の新たなアレンジや音楽家の人選、出演料の交渉や配分を行うようになった者もいる。そして、インドに帰国した際の社会経済的な優位性を背景に、異なるカースト・コミュニティの優れた音楽家をリクルートし、インターカースト的なグループ構成による新しい形態の音楽活動を行うようになる。そのような成功例は一つのモデルとなり、新たなグループの生成を促進させることになる。
 このような現象は、クロスカルチュラルな音楽交流が生み出す「多様性の環流」として捉えられるが、それはナイーブな脱埋込化の一方向的な循環として捉えられるものではない。交流の相手先、すなわち異文化の「輸出先(地域社会)」の音楽に変化を与えると同時に、インド国内の「輸出元(地域社会)」にも環流され、ローカルな音楽伝統と社会関係に変化を生み出していると考えられる。
発表2.杉本星子
 近代の日本経済において、繊維産業は重要な基幹産業であった。1970年代の為替レートの切り上げと2度のオイルショックそして1985年のプラザ合意による円高誘導による輸出減少に至るまで、日本の繊維産業の特徴は輸出主導型にあった。
 日本製プリントテキスタイルのアジア・アフリカ向け輸出は、①19世紀後半から20世紀初頭にかけての絹製ハンカチーフやスカーフの輸出とアジア・アフリカ市場への進出、②戦間期の絹から綿・化繊へという素材の転換とアジア・アフリカ向けプリント製品の市場拡大、③戦後の復興とアジア・アフリカ向けプリントテキスタイルの輸出再開と現地市場席巻と、大きく三期に分けられる。そのいずれの時期においても、インド商会、インド市場、インド商人ネットワークが果たした役割は大きい。
 明治期の絹製品は、ほとんどが外国商社を介して輸出されたが、なかでもインド商会は大きな数を占めていた。在日インド商会のなかで繊維を扱っていたのは、主にシンド商人である。日清戦争後、日本各地で羽二重のほかに繻子、甲斐絹、琥珀など多彩な絹織物が生産されるようになったが、インド商人は、生産地の織屋と組んでこうした新たな織技術の開発にも関わっていた。やがてインドは、アメリカに次ぐ日本製テキスタイルの輸出先となった。また、インドは古くから海外に布を輸出し、布を扱うインド商人は世界各地に拡がっていたが、日本製テキスタイルはこうしたインド商人のグローバルなネットワークを介して輸出された。昭和5、6年ごろより、人絹織物も、在日インド商社によりインド、東南アジア、中近東、アフリカへ輸出されたことによって、生産は急成長を遂げた。
 戦後の復興と日本製プリントテキスタイルの輸出再開と輸出拡大の背景には、戦前からの在日インド商会の活動と彼らのネットワークを介した仕向け地との繋がりが指摘できる。1960年代、日本製化繊プリントサリーが、インドを始め世界各地のインド系住民の間でブームとなった。「ジャパン・サリー」は、まさにこのようなグローバルな布交易のなかで育まれた緊密な日印関係を象徴しているといえるだろう。

研究会報告
「MINDAS 2013年度第3回合同研究会」報告

日 時: 2013年10月19日(土)、20日(日)
場 所: 国立民族学博物館2階 第7セミナー室、第3セミナー室
発表者: 発表1.Abhijit Dasgupta(Delhi University 教授/国立民族学博物館外国人研究員[教授])
"Affirmative Action and Identity Politics: The OBCs in Eastern India"
発表2.豊山亜希(国立民族学博物館外来研究員/宮城学院女子大学附属キリスト教文化研究所客員研究員)
「大戦間期のインド建築における日本製マジョリカタイルの受容」―シェーカーワーティー地方のハヴェーリーを中心に―
発表3.香月法子(中央大学政策文化総合研究所)
「イラニーから見たパールシー」
概 要: 発表1.Abhijit Dasgupta
 教授自身の長年の研究に基づき、インド東部を中心とした後進諸階級(OBCs)への留保制度とその社会的・政治的影響に関する現状分析が加えられた。はじめにインドの留保制度や制度の後進諸階級への適用の歴史的経緯を瞥見された後、インド東部諸州、特に西ベンガル州、オディシャ州、ビハール州における現状が比較された。これらの州は互いに隣接しあっているにもかかわらず、後進諸階級にどのような集団を指定し、また彼ら/彼女らにどの程度の割合で就職や就学上の優先枠を設けるかという点で大きな違いが見られる。その背景には、後進諸階級への認定、特にムスリムの間での後進諸階級の存在を認めるかどうか、をめぐる各州でのアイデンティティ・ポリティクスの状況や州政権のイデオロギーの違いがあると考えられる。この現状分析を踏まえて、発表の最後においては、後進諸階級への留保制の今後に対する提言が述べられた。すなわち、留保制はアイデンティティ・ポリティクスと連関させると弊害が大きいため両者を切り離すべきであるが、そのためには古い統計結果だけにとらわれず、現状に関する現地調査を重視し、また制度の適用を地方分権的な方法に改めることが重要である。
 なお、この発表のセッションは、国立民族学博物館共同研究『ネパールにおける「包摂」をめぐる言説と社会動態に関する比較民族誌的研究』(代表 名和克郎・東京大学東洋文化研究所准教授)ならびに同『グローバリゼーションの中で変容する南アジア芸能の人類学的研究』(代表 松川恭子・奈良大学社会学部准教授)との共同で開催した。(文責 三尾 稔)
発表2.豊山亜希
 ラージャスターン州シェーカーワーティー地方は、植民地期に台頭し現代インド経済の発展にも大きく寄与する、商業集団マールワーリーの故郷として知られる。彼らは19世紀前半より植民地都市でブローカー業や貸金業を営み、得られた富で故郷にハヴェーリーと呼ばれる大邸宅を造営した。ハヴェーリーは前植民地期に盛行した王侯貴族の邸宅を規範とし、壁や天井には伝統に則り彩色画が施されたが、1920年代から30年代にかけては、多彩レリーフタイルと呼ばれる量産型の装飾タイルを壁面に施工することが新たに流行した。発表においては、これらのタイルが日本からもたらされたとの調査結果を報告するとともに、従来は工業製品が空間装飾に用いられることから非伝統的と批判されてきた、当該時期のハヴェーリーの造営意義について、日本製タイルの受容のあり方を踏まえて再検討した。
 ハヴェーリーのタイルが日本製と同定されるのは、施工箇所の剥落部分に残る裏型痕に、日本のメーカーが戦前期に使用した商標が確認されることによる。これら日本製多彩レリーフタイル(通称マジョリカタイル)表面の意匠はイギリス製品の模倣が少なくないが、『ラーマーヤナ』などのヒンドゥー神話に取材した複数枚のタイルからなるパネル画は、日本で独自に開発された製品として注目される。こうしたタイル・パネルの誕生は、日本のメーカーにインドの貿易商から、当時流行していた印刷複製絵画が製品見本として送られてきたことを端緒とする。それが製品化され反英の気運が高まるインド市場に輸出されると、イギリス製タイルのボイコット、ヒンドゥー神話画へのプロパガンダ性の付与、タイル建材がもつ衛生性という近代国家像と結びつき、ヒンドゥー・ナショナリズムの記号として、マールワーリーを含め民族運動を支持する富裕層に熱烈に歓迎された。こうしたタイル・パネルに飾られた大戦間期のハヴェーリーは従って、従来言われてきたように量産品を取り入れた伝統破壊の産物などではなく、民族資本家としてのマールワーリーの自己規定を表象する文化装置として、大きな歴史的意義をもつのである。
発表3.香月法子
 2000年頃に中国の山西省や陝西省においてソグド人のものと思われる墓が見つかったことで、最近のゾロアスター教徒研究は、これまでのゾロアスター教徒(インド系ゾロアスター教徒とイラン系ゾロアスター教徒)とソグド人の慣習の対比などがなされる傾向にある。
 しかしインドのゾロアスター教徒であるパールシーと、イランのゾロアスター教徒であるイラニーを同じゾロアスター教徒と見なすことに問題はないのだろうか。また最近の中央アジアのゾロアスター教徒の存在に対して、特にパールシーは強い拒否反応を見せている。だが一方のイラニーは、中央アジアの教徒の存在に対して、パールシーのような拒否反応を示していない。
 この反応の違いを考察するためにまず、パールシーとイラニーは、はたして同じ、ひとくくりに出来るゾロアスター教徒であるのか、という疑問について今回の調査を行った。調査は2010年から2013年に掛けて、インド(ムンバイ)、イラン(テヘラン、ヤズド)、パキスタン(カラチ)、アメリカ(ヒューストン、ダラス、シカゴ)で行った。イランを除いて世界のどの地域を対象としても、現代のゾロアスター教徒を研究しようとすると、ほとんどパールシーを対象とすることになるだろう。だがこれはイラニーが少ないとか、イラニーがパールシーとは別の集団だからというわけではない。彼らもパールシーとともにコミュニティ組織維持に活動している。しかしコミュニティの外から見れば、イラニーはパールシーより目立たず、閉鎖的で見えてこないのである。
 今回、イランでの調査も合わせて行うことが出来たことで、ようやくなぜ彼らがパールシーと融合せず、イラニーとして存続し続けているのか、明らかになりつつある。またイラニーを通してゾロアスター教徒を見ることで、これまで見えてこなかったパールシーの特徴も次第に見えてきた。今後は彼らの交流史にも注目し、両者の比較調査を続ける予定である。

調査報告
カナダのタミル人コミュニティにおける南インド古典舞踊の実態調査

期 間: 2013年8月7日~15日
国 名: カナダ(トロント市)
報告者: 寺田吉孝(国立民族学博物館)
概 要:   オンタリオ州の州都であるトロント市には、約14万人のタミル人が住んでいるといわれる。彼らは出身地によりインド系とスリランカ系に分かれ、それぞれが個別のコミュニティを形成している。両者は、言語は共通するものの、移住の時期や経緯、カースト帰属や階層などが異なり、交流は比較的少ないといえる。市内には4つのタミル人集住地域があり、西部のミシサガMississaugaにはインド系タミル人が多いのに対し、東部のスカーボローScarborough、北東部のマーカムMarkham、北西部のブランプトンBramptonの3地域ではスリランカ系タミル人が多数派を占める。
  トロントではインド音楽・舞踊が極めて熱心に学習、上演されており、舞踊では南インド古典舞踊バラタナーティヤムの人気が特に高い。今回の調査では、バラタナーティヤムの学習、上演に関わる活動の実態について、主にアランゲートラムと呼ばれるデビュー公演を軸として調査をおこなった。元来アランゲートラムは、演目を一通り習得した踊り手のお披露目を兼ねて開く公演である。トロントのタミル人コミュニティでは、母国文化の継承を目的として子供たちに音楽・舞踊を習わせることが多く、女子の場合5~7歳で舞踊を習いはじめ、14~16歳でアランゲートラムを開くことが一般的である。近年、舞踊の習得を祝うという本来の趣旨は保持されつつも、親の経済力を誇示し、コミュニティ内における威信を高める手段の一つとしてアランゲートラムが盛大におこなわれるようになった。この傾向は、スリランカ系タミル人の間で特に顕著であり、競争が過熱するにつれコミュニティ内での社会問題ともなっている。このような状況は、舞踊や伴奏音楽の内容、師弟関係などにどのような影響を与えているのだろうか。
  今回の調査では、この実態を探るため、3つのアランゲートラム(スリランカ系2、インド系1)を視察し、踊り手と彼女たちの家族、舞踊教師、伴奏の音楽家らにインタビューをおこなった。インド系とスリランカ系のアランゲートラムの実施形態や内容には共通する部分も多いが、舞台進行、演目、衣装などに際立った違いが存在することが明らかになった。今後は、より高い技術と経験を有すると考えられているインド系教師に師事するスリランカ系子女が増えているため、両者の交流がどのような舞踊文化(芸態、演奏慣習、教授方法、社会関係など)を作り上げていくのかを見極めたい。

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調査報告
インド音楽のグローバリゼーション ―フランスにおけるPIO/NRIの音楽活動とネットワーク―

期 間: 2013年8月7日~15日
国 名: フランス(パリ市)
報告者: 田森雅一(東京大学・学術研究員)
概 要:  インドに起源を有し、フランス本土で暮らすインド系移民(PIO)は約55,000人を数える。この数字は、イギリス、オランダ、ポルトガルに次いでヨーロッパでは4番目である。この他に、フランス在住インド人(NRI)が約10,000人おり、彼らの多くは1980年代以降にやって来たニューカマーである。インドとフランスを頻繁に行き来する生活が常態化しているインド人音楽家・舞踊家の多くは、このようなカテゴリーに含まれる。
 1980年代半ばから1990年前半にかけて、ミッテラン政権下のフランス政府が中心となるインド祭や各種の文化イベントが開催され、以後、数多くのインド人音楽家・舞踊家がフランスに招聘されてきた。また、1996年にはPIOのコミュニティが中心となって在仏インド人連合会が組織され、在仏インド大使館のホームページには様々な文化活動を行う団体の一覧が掲載されている。それらの団体の多くがインドから音楽家・舞踊家を招聘し、コンサートや教室を主宰している。
 今回の調査では、PIOの有力団体の一つであるGroupe de Réflexion Franco-Indienの代表ラリタ・バドリナース氏にフランスにおけるインド系移民の歴史や文化活動について、インド音楽・舞踊の常設小ホール・教室を主宰するマンダパのミレーナ・サルヴィーニ氏にフランスにおけるインド音楽の歴史について聞き取り調査を行った。また、1989年からパリ市を拠点としてドゥルパド(北インド古典声楽)のコンサートと教室を定期的に開催している、サイードウッディーン・ダーガル氏のワークショップに参加し、ダーガル氏本人、彼の活動をサポートする人々、ワークショップ参加者ら(フランス人、ベルギー人、中国人、日本人)と過ごし、彼らの国境を超えたネットワークなどについて調査を行った。さらに、パカーワジ(古典両面太鼓)のモーハン・シャルマ氏の個人授業に同席し、外国人への教授法や聴衆に応じた演奏スタイルの差異化などについて聞き取り調査を行った。
 自らの文化的アイデンティティのルーツをインド本国の音楽・舞踊に求めるインド系移民(PIO)に対し、インドから海外に渡る音楽家・舞踊家(NRI)の多くは、自らの実践活動の場の拡大とネットワーク形成に重きがある。そのような音楽活動は、外国人によって受容され他のジャンルに応用・融合されるだけでなく、音楽家自身の音楽展開と社会関係の両方に微妙な変化を与えつつ、インド本国の音楽世界に環流されてゆく。

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研究会報告
「MINDAS 2013年度第2回合同研究会」報告

日 時: 2013年7月20日(土)、21日(日)
場 所: 国立民族学博物館2階 第3セミナー室
概 要:  「現代インド地域研究」プロジェクト全体で出版を計画している叢書(シリーズ<現代インド>)の第6巻の内容に関する2度目の検討会を行った。
 今回の研究会では、「環流」をテーマとする第6巻の各章及び補論の執筆担当者が 事前に草稿を準備し、それに対して相互に意見交換を行った。第6巻の各編の方向性がより明確となったが、それはこのプロジェクトによる研究の着地点を確かめる 作業にもなった。
(文責 三尾 稔)

研究会報告
「MINDAS 2013年度第1回合同研究会」報告

日 時: 2013年6月1日(土)、2日(日)
場 所: 国立民族学博物館2階 第3セミナー室
概 要:  「現代インド地域研究」プロジェクト全体で出版を計画している叢書(シリーズ<現代インド>)の第6巻の内容に関する検討会を行った。第6巻は「環流」をテーマとして、国立民族学博物館拠点の2つの拠点プロジェクト、及び京都大学拠点の研究プロジェクトの一部の研究成果に基づいた内容となる予定である。今回の研究会では、この第6巻の各章及び各補論の執筆担当者がそれぞれの章の論点や中心となる事例についての発表を行い、それに対する質疑応答や討論を行った。(文責 三尾 稔)