MINDAS 南アジア地域研究 国立民族学博物館拠点
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◆研究会報告 2014

調査報告
インド音楽・舞踊のグローバリゼーション ―ベルギーにおけるインド音楽の受容と音楽家のネットワーク―

期 間: 2015年2月5日~15日
国 名: ベルギー(ブリュッセル市)、フランス(パリ市)
報告者: 田森雅一(東京大学)
概 要:  ベルギーは、フランスとオランダに挟まれた、人口約1110万人(面積は岩手県の約2倍)の王国である。今回の調査は、ヨーロッパにおけるインド音楽・舞踊のグローバル化研究の一環として、ベルギーにおけるインド音楽の受容の歴史や実践状況、音楽家のネットワーク等についての情報収集が主目的である。
 インドとベルギーの歴史的な文化交流としては、S.M.タゴール(1840-1914)が1876年に当時の国王レオポルド2世に贈った100点の楽器群が知られており、これらのコレクションを基に1877年に設立されたのがブリュッセル楽器博物館(Musical Instruments Museum : MIM)である。そして、本館に集められた西洋と東洋の楽器群の整理・展示のための模索が近代的楽器分類の基礎となったことはよく知られている。タゴールの寄贈楽器のうち、今回の調査で見ることができたのは北インドの弦楽器ビーンとマユリ・ヴィーナーの2点のみだったが、いずれもよい保存状態で展示されていた。
 さて、アジアに植民地をもたなかったベルギーでは、隣接するフランスやオランダのように、インドあるいは他の植民地経由で移住したインド系住民のコミュニティーが形成されなかったこともあり、インド音楽・舞踊などの文化活動はアクティブではなかった。それが変化したのは、1990年以降のインド人ディアスポラ=NRIの移動であったといえよう。ベルギーに進出しているインド系企業の中には、メセナの一環としてインドから音楽家を招きコンサートを行うケースも見られる。しかし、現地の音楽家によれば、「NRIの大部分の興味はボリウッドに向いていて、伝統音楽への興味は薄い」ようで、むしろ、ベルギー人の方に熱心な学習者や聴衆が多いという。
 このあたりの状況を含め、ベルギーを本拠地として活動する南アジア出身の音楽家たち、また、インド音楽の普及や教育活動を行っている団体の代表者や演奏活動を行うベルギー人音楽家にインタビューを試みた。
 近年、南アジアからやってきてベルギーに定住して音楽活動を行っている音楽家に、インドのラージャスターン出身の歌手マハブーブ・カーン(1970年生まれ)や、パキスタンのラワルピンディ出身のサロード奏者アサド・キジルバッシュ(1963年生まれ)らがいる。前者は、1990年代後半にフランスにやって来て、ティティ・ロビンが中心となってプロデュースされたアルバム『ジタン』や、デニス・ピエンが率いるLo’Joへの参加経験がある。そして、ハミード・カーンによって結成された「ムサーフィル:ジプシー・オブ・ラージャスターン」のメンバーとなった後に独立、2003年ころから「ランギーレ」という自らのグループを率いてベルギーに本拠地を置いて活動するようになった経緯などが今回の調査で明らかになった。また、彼らと活動を伴にするベルギー人のダンス・カンパニーの存在も重要である。このカンパニーを主催するマヤ・サペーラー(通称)は、バラタナティアムやカタックに加えて、ラージャスターンでカールベーリヤー舞踊を学んだ人物である。彼らは、インド音楽・舞踊に西洋のコンテポラリー音楽や舞踊とのフュージョンも積極的に行っている。
 一方、ベルギーにおいて、インドの音楽・芸能が研究・教授されている公的機関は見当たらない。1995年に私的機関として、インド音楽学院(Sangit School of Indian Music)を開校したダニエル・シェル(1944年生まれ)によれば、「政府にインドの音楽や文化を教える学校・学科の開設を働きかけて来たが、反応は鈍く、自分の私財をもとに開校した」という。科目は、インド音楽の理論、シタール、タブラー、バイオリンなどで、フランスやオランダに住むインド人音楽家に定期的に講師を依頼。現在ではここで基礎を学んでインド人のシタール奏者に弟子入りしたベルギー人(1970年生まれ)が初級から中級のコースを教えている。彼によれば、現在では、上記のインド音楽院で学習した者たちのネットワークが出来上がり、ミニコンサートやサロン的な場所を提供し、ベルギーのインド音楽関係者・愛好者の拠点となっている。
 また、アート・ベース(Art-Base)という団体が、小規模ながら民族音楽/ワールドミュージック系の音楽家に演奏場所(キャパ50人程度)の提供とウェブによる告知を行っている。ベルギー滞在中には、報告者のインフォーマント・グループの一つである、ラージャスターンのジャイプル出身のカッワーリー・グループの演奏も行われた。彼らはパリを拠点としつつ、規模の大小を問わずベルギーやオランダ、イギリスなどの演奏会に出かけて足場を広げ、そのネットワーク拡大の努力をしている。演奏当日は、ほぼ満員の状況で、聴衆の多くはベルギー人が占め、会場は熱気に包まれた。

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研究会報告
「MINDAS 2014年度第4回合同研究会」報告

日 時: 2015年1月24日(土)、25日(日)
場 所: 国立民族学博物館4階 第4演習室
発表者: 発表1.竹村嘉晃(人間文化研究機構地域研究推進センター/現代インド地域研究国立民族学博物館拠点研究員)
「ローカルの伝統からナショナル、ハイブリットなコンテンポラリーまで――シンガポールにおける〈インド芸能〉の発展と文化政策」
発表2.寺田吉孝(国立民族学博物館教授)
「カナダ、トロント市における南インド音楽・舞踊の実践」
発表3.五十嵐理奈(福岡アジア美術館学芸員)
「美術制度に抗する南アジア美術ネットワーク――「第5回福岡アジア美術トリエンナーレ2014」より」
発表4.南真木人(国立民族学博物館准教授)
「「移民の文化」の形成過程――ネパール人移住労働者から」
概 要: 発表1.竹村嘉晃
 本発表では、シンガポールにおけるインド人コミュニティの歴史的過程を概観した上で、インド芸能の伝播・受容の動態とその発展に大きな影響を及ぼしている政府の文化政策について報告と考察を行った。
 シンガポールへのインド人の流入は、近代インド移民史の第一期後半にあたる19世紀末に、東南アジアの英領植民地化にともないビルマ、マレー半島、セイロンなどにインド人が移動した時代に遡ることができる。現在、人口に占めるインド人の割合は9%ほどであり、その内の半数以上がタミル・ナードゥ州に出自をもつ人びとである。最近では、ITやエンジニアなどの専門的職業に就く在外インド人の流入が顕著にみられ、かれらはインドに限らず、ヨーロッパや北米、オーストラリアなどからシンガポールに渡ってきている。
 シンガポールへのインド芸能の伝播は、英領植民地時代の人の移動に伴う形で始まったが、本格的には1950年代以降にインドの音楽や舞踊に関するアカデミー(Singapore Indian Fine Arts Society, Bhakar’s Arts Academy, Apsaras Artsほか)が設立されてからである。これらの機関では、バラタ・ナーティヤムやカルナータカ音楽を中心に、インド芸能の教授と実践が活発に行われている。近年では、専門的職業に就く在外インド人の流入に伴い、生徒の数が著しく増えた一方で、彼らの妻たちが自宅マンションの一室で個人教室を開くようにもなり、生徒確保の競争が激化している。
 シンガポールにおけるインド芸能の発展には、政府の文化政策が大きな影響を及ぼしてきた。本発表では、とくに1991年に設立されたNational Arts Councilの活動に焦点をあて、1)各種芸能アカデミーへの運営費の助成、2)若手実践者の活動支援、3)芸能公演やイベントへの助成、4)各種コンクールの開催、5)Art Education Programの推進、などを通じて、インド芸能がシンガポールの文化伝統として創造されていく過程を考察した。また、こうした政府の支援のもとで、各種芸能アカデミーが制作した作品のなかには、多文化主義を背景にしたものや異なる舞踊様式を混淆した創作が行われている実態を取り上げ、シンガポール社会のマイノリティである彼らが、芸能を通じて自己の存在を位置づけている生の営みを照射し、移民社会におけるインド芸能の創造的な発展を描き出すことを試みた。
 質疑では、インド人コミュニティの動態について、インド系シンガポール人や永住権保持者、在外インド人、出稼ぎ労働者といった分析上の枠組みの問題や、マジョリティである中華系シンガポール人によるインド芸能の位置づけ、さらには北米やヨーロッパの状況と比較した際のシンガポールの独自性に関する問題など、有益なアドバイスをいただいた。今後は、多文化主義を謳うシンガポールが国家としてインド芸能をどのように位置づけているのか、あるいはグローバル化にともなう新たな人の移動がインド芸能の受容や発展にいかなる形で影響しているのかについて、実証的な考察を進めたい。
発表2.寺田吉孝
 オンタリオ州の州都であるトロントは、カナダ最大の都市であり、経済の中心地でもある。多文化主義を国是とするカナダにおいても、最も多文化化が進んだ地域として認知されており、南アジア系は総人口の約1割を占める。今回の発表では、トロントおよびその周辺地域に約14万人の人口をもつタミル人コミュニティに焦点をあて、彼らの舞踊活動の実態と、その背景について考察した。
 カナダ在住のタミル人は、インド系とスリランカ系に大別され、それぞれ移住の経緯、母国における社会階層、教育レベルなどが大きく異なるため、両者の交流は限定的であり、単一のコミュニティを形成しているとは考えにくい。概して、インド系移民は教育レベルの高い高位カースト出身者が多く、古典音楽・舞踊の伝統的な愛好者であるため、母国における慣習の延長として音楽・舞踊を実践している。スリランカ系タミル人は、その大多数が母国の民族紛争を逃れてカナダに移住した政治難民である。出身カーストや教育レベルは多様であるが、母国におけるタミル文化の冷遇を背景として、かれらの音楽・舞踊の習得に関する関心は極めて高い。
 トロントの南アジア系コミュニティでは、多種のインド舞踊が実践されているが、南インド古典舞踊バラタナーティヤムの人気は際立っており、トロント地域だけで3,000人ほどの若者がこの舞踊を学んでいると推測される。報告では、アランゲートラムと呼ばれるデビュー公演の定着とローカル化に焦点を当て、その内容と特徴を紹介した。特に、スリランカ系コミュニティでは、アランゲートラムが盛大に開催される傾向があり、結婚式のレセプションと並んで、コミュニティ内における地位・序列を交渉する有力な場の一つとなっている。またタミル語楽曲が重視され、インドおよびインド系タミル人コミュニティにおけるアランゲートラムとの大きな相違点となっている。演目や式の進行などにおいてもインドでは見られない特徴(司会者の存在、舞踊家自身によるスピーチ、複数回の衣装替えなど)があり、その一部はインドにも影響を与え始めている。スリランカ系コミュニティにおけるアランゲートラムの隆盛は、技量に優れるといわれるインド系演奏家、舞踊教師の需要を高めており、彼らのカナダ移住、長期滞在の一因となっている。
 次に、インド・トロント間を往還しながら活動する舞踊家・舞踊家集団を紹介した。マドゥライ出身の舞踊家ナルタキ・ナタラージは、毎年一定期間トロントに滞在し、スリランカ系タミル人の生徒の指導にあたっている。彼女は、チェンナイを拠点としてタミル文化に立脚した舞踊活動を展開してきており、その活動がタミル語・タミル文化を重視するスリランカ系タミル人に注目された。南インドの主流音楽・舞踊界では、歴史的な経緯からサンスクリット語、テルグ語楽曲が重視されてきたが、ナタラージのように、主流舞踊界から一定の距離を保ちながら、タミル文化に根ざした芸能活動を続ける演奏者たちが存在する。
 最後に、バラタナーティヤムを基盤として先鋭的な活動を行う舞踊団インダンスについて報告した。この舞踊団は、バラタナーティヤムの源流であるデーヴァダーシ舞踊を再評価することによって、過度に精神性が強調され、大伝統化された現在の舞踊を批判する(歴史性を前景化する)上演活動を行なうとともに、バラタナーティヤムを多様なジェンダー・セクシュアリティの表現の場として再編成する活動もおこなっており、かれらのインド公演はインド舞踊界に波紋を投げかけている。しかし、彼らがインド舞踊界と接点を保ちながら、このような活動を継続できるのは、在外タミル人という外部性を最大限に活用しているからであり、音楽・舞踊のグローバル化の一側面として捉えることができる。
 以上のように、トロントではスリランカ系タミル人の音楽・舞踊への高い関心を背景に、極めて活発で多様な活動が展開されており、その総体はつかみきれていないものの、いくつかの注目すべき現象、傾向を同定することができた。ディアスポラ社会における芸態上の変化と、インドの音楽・舞踊文化への具体的な影響を分析するためには、以上にあげた事例における演目、上演スタイルを精査することが必要であり、今後の課題としたい。
発表3.五十嵐理奈
 近年、南アジアの現代美術は、アーティスト数、展覧会数、美術館やアートスペースの数が増え、またインドを中心に美術市場も多くの取引が行われるようになるなど、活況を呈している。この背景には、南アジアに特有の現代美術ネットワークの存在がある。南アジア各国では、2000年代にアーティスト主体の非営利団体が相次いで設立された。当時実験的なアートに対する支援や制度、美術館や展示場所などのインフラが十分でないことから、作家たち自らが展示スペースの確保、実験的な作品制作のサポート、レジデンス、シンポジウム、出版などを行う団体を設立したのである。その中心的な役割を担ってきたのが、インドの「Khoj」(1997年)で、その後、Khojの運営方法などにも影響を受けつつ、スリランカの「Theertha」(2000年)、パキスタンの「Vasl」(2001年)、バングラデシュの「Britto」(2002年)、ネパールの「Sutra」(2003年[現在休止])などが次々と活動を始めた。各団体は、アーティスト、美術団体の国際的なネットワーク作りを支援する組織「トライアングル・ネットワーク」(イギリスに本部、1982年)にも加盟し、横のつながりも強めて行った。南アジア域内を横断する「ワークショップ」を重ね、組織化、ネットワーク化を図ることで、自らを取り巻く閉塞状況に風穴を開けようとしたのである。それは、既存の美術様式や技術偏重の美術教育、政府主導の展覧会、保守的な商業画廊などの美術制度に抗する活動でもあった。各国の既存の美術界でなかなか認められることなく活動していた若手作家たちは、南アジア圏内の同じ状況にある作家たちと横につながることで、この状況を乗り越えようとしたのである。こうした10年にわたる地道なアーティスト主導の取組みが、現在の南アジア全体の美術の活況を支えている。
 報告では、2014年9月—11月に福岡アジア美術館で開催された「第5回福岡アジア美術トリエンナーレ2014(FT5)」に出品した南アジア6ヶ国の11作家・作品をとおして、南アジア現代美術の各国美術動向とその充実ぶりを紹介した。また本展に参加した新進気鋭の若手作家の多くが上記の団体の設立者やメンバーとして関わっていることを示し、現在の活況の背景にある南アジアの現代美術ネットワークの存在とその特徴について報告した。
 本報告に対して、抗する美術制度が時代によって変化すること明確にすべきこと、なぜ南アジアにのみこうしたネットワークが特徴的に形成されるかなどについて、コメントや質問をいただいた。今後、さらに詳細に考察を進めたい。
発表4.南真木人
 ネパールの村における中東湾岸諸国やマレーシアなどへの移住労働は、近年、多くの青年男子が経験する通過儀礼的な性格を帯びてきた。連鎖的な移住が生まれる背景には、送金はもとより、移住労働者や帰還した元移住労働者が出身コミュニティにもたらす文化的影響(社会的送付)が大きく関わる。本報告では私がこれまで調査してきた村(西部ネパール、ナワルパラシ郡ダーダジェリ行政村)を事例に、移住労働者の送り出しシステムが形成されてきた過程を記述し、情報(考え、実践、会話、規範など)の環流が人の環流を助長するトランスナショナルな現代移民の特性について発表した。
 ネパールにおける移住労働者の先行研究では、送金の経済的効果、残された女性の役割変化、移民の発生や動機づけにおけるメディアの役割、低賃金労働といった搾取や家事労働者に対する暴行など人権に関わる問題などが取りあげられてきた。だが、移民を手引きする在村の仲介者の役割や移民が送り出し社会にもたらす文化的な影響、「移民の文化」の形成過程については看過されてきたきらいがある。本報告ではMINDASの成果の一部として出版が予定されている論集に寄稿する論文の構成、概要、考察と議論について話した。現地調査は、上記のネパールの村、及び同村から移住労働者として渡航した青年をカタールとUAEに訪ねる形(2012年12月)で実施した。
 オリジナルなデータとして、海外移住労働を手助けする在村の仲介者がいかにして生まれ、どのような役割を果たしてきたかを政策・法令の変化に合わせて示した。とくに、調査村はマガールという民族が暮らす村だが、そこのマガール人の仲介者(ダニヤ)に焦点をあて、彼が2003年から2014年までの11年間に仲介してきた53人延べ60件の渡航歴を表にあらわした。そこからは、渡航先の内訳がマレーシア27件、カタール17件、UAE16件であり、2007年までマレーシアが主であったが、その後カタールとUAEが増加している傾向が読みとれた。また、仲介を依頼した若者の48人がマガール人で、残る5人はチェトリ、パリヤール、ヴィシュワカルマのカースト出身者であった。2007年には既に2回目の渡航(休暇帰国ではなく、別職に就くもの)をした人が出て、既にそうしたリピーターは53人中10人に達しており、現在3回目の渡航準備を進めている人も3人いる。移住労働を繰り返し行うことで、移住労働への依存が進行しつつあることが見てとれた。
 移住の送り出しシステムに関しては、まず人材派遣会社を用いるルートと個人ベースのルートに大別できる。個人ベースとは、先行して海外で働く親族などが現地で雇用先にかけあって、あるいは雇用先の求めに応じて、個人を招く方法であり、渡航に必要な書類は現地から送られる。移民送り出しシステムには、「市場媒介型移住システム」と親類や知人などのつてに頼る「相互扶助型移住システム」があるとされる(樋口 2002)。ネパールの場合、人材派遣会社ルートが市場媒介型移住システムに、個人ベースのルートが相互扶助型移住システムに該当しそうだが、必ずしもそうとは限らない。調査地のマガール人の場合、何れのルートにおいてもダニヤのような仲介者に頼ることが多く、仲介者も仲介料として1件につき約1万ルピーを得るので、厳密にいえば相互扶助型とはいえないのである。とはいえ、仲介者の手助けなくしては移住労働の連鎖が成り立たないことは自明であり、市場媒介型移住システムと相互扶助型移住システムの混成型ともいえる在村の仲介者を介在させる移民送り出しシステムがネパールの一つの特徴といえそうだ。それは、首都のカトマンドゥですら一度も訪れたことがない若者が、国外にいきなり渡航しているという現状を反映している。
 とくに2007年の「国外雇用法」の改定と2008年の「国外雇用規則」の制定は、仲介者の役割を増加させた。これにより、政府が認定した人材派遣会社を通さずには、国外労働許可書が発行されなくなり、個人ベースの渡航においても人材派遣会社を介在させずに出国することができなくなったからだ。逆にそれによって移住労働のプロセスは複雑になり、制度と裏技を熟知した仲介者の役割はますます不可欠のものとなった。何れにしろ、仲介者がいることでマガールの仲介者は同郷のマガールを同じ雇用先に送り出すという、移民の促進、選別と方向づけのメカニズムが強化されているのである。

研究会報告
「MINDAS 2014年度第3回合同研究会」報告

日 時: 2014年10月11日(土)、12日(日)
場 所: 国立民族学博物館 2階第6セミナー室、4階第1演習室
発表者: 発表1.三尾稔(現代インド地域研究国立民族学博物館拠点代表・国立民族学博物館准教授)
“Enchantment of the Past: Nature of ‘Faith through Things’ in the Worrier’s Spirits’ Cult of Southeastern Rajasthan”
発表2.Lindsey Harlan (Professor of Religious Studies, Connecticut College)
“Stories of Gevar Bai and the Construction of Mewar’s Rajsamand Reservoir”
発表3.田中鉄也(日本学術振興会特別研究員)
“Consideration on Struggles of Rani Sati Temple Management after Implementation of Commission of Sati (Prevention) Act,1988”
発表4.松尾瑞穂(国立民族学博物館准教授)
「神話と遺伝子――現代インドにおける生殖医療とサブスタンスの文化的意味付け」
発表5.山下博司(東北大学大学院国際文化研究科教授)
「ディアスポラにおけるヒンドゥー儀礼の制約と変質――世界数カ所の事例をもとに」
発表6.鈴木晋介(関西学院大学先端社会研究所専任研究員)
「ラフィング・ブッダ――現代スリランカの民間信仰とグローバリゼーション」
概 要: 発表1.三尾稔
 Contemporary ICT has potentiality to bring about changes in this situation. Internet homepages or Facebook pages have potentiality to liberate the locally and/or temporary boundedness of popular religious practices centered round gods’ or spirits’ images. When these images are brought into the ICT world, what kind of changes is taken place in popular religious practices and beliefs? Taking up a Rajasthani local spirit’s cult’s patrons’ practices as a concrete example, this paper tries to examine how the features of the nexus of god’s images and human beings change when they move from off-line everyday world to on-line cyberspace.
発表2.Lindsey Harlan
 This paper focuses on Gevar Bai, an important Jain heroine in legends about the assassination of Prince Sultan Singh by order of his father, Maharana Raj Singh, who ruled Mewar during the seventeenth century are Jain. The stories I have collected about her come predominantly from non-Jain sources and represent her and other Jain legendary figures as heralding Rajput values while also challenging Rajput authority. Gevar Bai, a Jain sati (devoted wife) is identified at her temple at Rajnagar with the goddess Ambaji and credited with aiding Maharana Raj Singh after he rued his decision to execute his son, who has become Udaipur’s most widely worshipped sgasji (divine hero). The king wanted to expiate his guilt after realizing that he had unwisely believed a false rumor. Gevar Bai’s stories credit this Jain sati with helping the king to atone for his misdeed by aiding him to successfully construct the vast reservoir Raj Samand during a time of drought and siege by Moghul forces. Her story reveals ambiguous modes of representing Hindu—Jain relations in narratives reflecting on authority and power in some salient constructions of seventeenth century politics.
 Because the lake’s embankments had repeatedly crumbled and failed, Brahmins advised the king to find a pure woman, a sati, who could consecrate the reservoir and fortify its banks with her inner fortitude or integrity (sat).
 After learning about Gevar Bai from the search party he sent to find a pure woman, Raj Singh asked her to stand in the reservoir and consecrate it while the water rushed in. Before agreeing to do so, however, she extracted from him a promise to fund a costly Jain temple to glorify her husband (identified in the temple as the Jain general and minister Dayal Shah). Although this paper focuses on Gevar Bai’s delivering the king from his guilt, ennobling her husband, and potentially (and in some stories, ultimately) sacrificing her life, it locates key elements of Gevar Bai’s stories in a dense and complex narrative milieu, one that includes tales about the post-execution resurrection of Sultan Singh by a Jain mendicant or jati.
 This tantrik, who was staying in Udaipur during the rainy season, resurrected Sultan Singh while his body was being carried in procession to the mahasatiyan, the cremation and memorial grounds. He did this because he wanted to finish a board game (chaupad) with him. Good friends, they were accustomed to playing the game routinely, but had been interrupted during their last game. The jati’s power reversed, and so rectified, Raj Singh’s errant execution, said by some to have been plotted by a queen, a merchant, a Brahmin, or a agent of Aurangzeb. After finishing the game, the hero chose to honor his father’s will and so proceeded to the mahasatiyan, where his brother (who was also murdered or killed himself because of grief) was being cremated. Sultan Singh then immolated himself, mingling his ashes with his brother’s, which is why they share a single memorial pavilion (chatri). The sati-like immolation, which the jati made possible, gave Sultan Singh the opportunity to manifest his extraordinary agency (shakti), some element of which is typical of sagasji stories, even though almost all sagasji are victims of assassination, and do not, like other worshipped heroes (jhunjharjis) have the opportunity for prolonged and glorious struggling in battle. This self-immolation demonstrates his integrity (sat) while establishing Brahmanical authority over Sultan Singh’s Udaipur temple, because the Brahmin who presided at the cremation felt guilty for participating in a live immolation and so joined the hero brothers on the pyre.
 The paper analyzes the resistance to and negotiation with royal authority in the form of the king ,who is held culpable by devotees but still beloved for his role as Aurangzeb’s nemesis. Like Rana Pratap, Raj Singh’s images are found all over Udaipur. The critiques and challenges found in the sati and jati legends, typify stories about Sultan Singh and Udaipur’s many other sagasjis, whose tragic deaths continue to critique political authority not only in the “Golden Age” of Rajput hegemony but also in the “Kali Yuga” of the city today. The shrines for these heroes, which are found throughout the city and which have become enormously popular as neighborhood protectors during the past two decades, celebrate the birthdays of all the sagasjis on the weekend after Hariyali Amavasya, the time in which the monsoon’s “greening” of Udaipur is celebrated during the new moon. During the Janam Mahotsav (Birthday Mega-festival), he heroes are believed to visit one another’s darbars (divine, “gods only” gatherings) and the bhopas (mediums) whom they possess also visit one another’s shrines. Aside from Sultan Singh’s at the Sarv Ritu Vilas Palace, there are many vibrant temples in Udaipur, includingones for Sardar Singh (the brother who died with him) and Bhim Singh (another brother, whom Raj Singh banished rather than slay, but who died in Afghanistan while performing a daring riding trick). During the three days of this festival, people of all backgrounds fill the streets of Udaipur and visit highly decorated sagasaji shrines and attend their cultural programs. About thirty percent of Sultan Singh’s devotees at his major temple are Jains and some of the most prominent bhopas for sagasjis are Jains, who, when possessed, embody royal and noble Rajputs.
 This paper contemplates ways in which the identities of two Jain figures in Sultan Singh’s legend critique authority in ways that demonstrate shared but fluid constructions of integrity. Among the questions to be addressed here is whether or to what degree the rich stories about the sati and jati are Jain, Jainish, or not Jain. One of the stories about the sati was narrated from her husband’s temple, the one built by Raj Singh, but the narrator was the Hindu priest who tends the gods’ images there. Thus the story he tells reflects the complex space in which Hindus and Jains, many of whom assert Rajput provenance, co-exist and construct shifting religious histories and fluid identities.
発表3.田中鉄也
 This paper analyzes a contemporary issue of management of Rani Sati temple in Jhunjhunu, Northern Rajasthan. This temple commemorates a legendary widow from the Jalan lineage of the Agrawal caste, who was alleged to conduct the custom of widow immolation, namely Sati, in 1295, and subsequently became one of the most famous Satimatas (deification of the immolated widows) in India. Actual widow immolation at a small village called Deorara in 1987 drew attention to this temple, one of the biggest satimata temples in India. Since the Commission of Sati (Prevention) Act was implemented to prohibit worship of the immolated widows in 1988, the temple has initiated lawsuits regarding the legal legitimacy of the management as well as finding a feasible way to manage under the restriction of the Act.
 Despite the medieval origin of the goddess (1295), construction of the Rani Sati temple complex in her honor was begun in 1912. In 1957, a public trust, “Shree Rani Satiji Mandir Trust”, was formed as the temple’s primary management division and registered in Calcutta because all twenty-one trustees resided in Calcutta and used Calcutta as their business base. Formation of the public trust allowed the temple itself to be in Jhunjhunu, but its management center is in Calcutta. The composition of the mythical origin of Rani Sati in 1964 illustrates how the temple represents for the Jalans as a homeland.
 The court battles and the state intervention on the Rani Sati temple after the implementation of Act in 1988 actually became a turning point of the temple’s management. The first case was on 18 August 1988 when The Shree Rani Satiji Mandir Trust filed a lawsuit in the Calcutta High Court against public interference of the Rajasthan State violating Section 25 (on the basic rights of religious freedom) and Section 26 (on the freedom of management of religious institutes) in the Indian Constitution. According to its interim order, the citizen’s religious freedom inside the temple complex should be protected and respected as an endeavor in the “private area” while festivals conducted outside the temple complex should be restricted by the rule of law as an event in the “public area”. Based on this decision, the annual festival was permitted, since then, within the temple complex although promotion and publication of the festival outside the constructions was completely prohibited. However, attention of the court battles gradually turned into “glorification of sati” within the temple complex. By 1996, the utilization of following materials like chunari (a red veil), kalash (a pot filled with water) and chappan bhog (fifty-six kinds of sweets for the gods) became illegal even in the temple complex because they are perceived as the violation of the glorification of sati.
 Because of a series of the State interventions from 1988, the public trust had to search opportunities both to restore their relationship with the District Magistrate of Jhunjhunu and to regain social and cultural legitimacy as a pilgrimage center in Jhunjhunu District. The tactical emphasis of generality and universality of the temple’s character should refer to Rani Sati worship not as the “rights of the community”, i.e., of only the Jalans, but as the basic rights of religious freedom, i.e., for everyone wishing to visit the Rani Sati temple. The analysis given in this paper on the court battles and State intervention on the temple after 1988 illustrates a duplicate picture of the Rani Sati temple both as temple for the Jalans and as for the Jhunjhunu society.
発表4.松尾瑞穂
 インドは、近年、生殖ツーリズムのハブとして、国境を越えて提供配偶子や代理出産などの生殖医療技術(ARTs)を求める人びとを引き付けている。正確な統計はないものの、国内に不妊症クリニックは約1000軒、代理出産件数も年間数百人にのぼっている。主に外国人や国外に居住するNRIらの利用が中心だったこれらの生殖医療は、インドの経済成長とともに、不妊に悩む中間層のインド人の間でも急速に広まっている。卵子・精子の提供や、代理母に子どもを産んでもらう代理出産によるリプロダクションは、これまで南アジア社会で議論されてきたサブスタンス論とどのように接合し、また乖離しているのだろうか。
 本報告では、新たな科学的実践が現代のインド社会においていかに認識され、受容されるのかを、生殖医療をめぐる言説やそれらが生み出す新たな現象を事例として取り上げた。具体的には、血液や臓器といったこれまで提供がなされてきた身体部品と、生殖医療の現場に登場する卵子や精子、さらには子宮という新たな身体部品との比較と、その宗教的な解釈枠組みの再編成についてである。そうした新たな技術を受容する社会的素地として、マハーバーラタなどの古代神話を科学技術という視点から現代的に解釈するヴェーダ科学という思考や、歴史認識問題について考察した。さらに、報告者の調査に基づき、代理母と胎児との体液や血液の交換を通したサブスタンスの共有が、どのように代理出産のプロセスにおいて作り出されつつも、ある文脈においては忌避されるのか、ということを論じた。
 本報告に対して、研究会では、ヴェーダ科学のような、近代科学をインドの伝統に再配置する科学史的な視点と、調査地における微細な人々のサブスタンスの交換実践とをいかに接続できるのか、イスラームとヒンドゥーの身体部品及びその提供の観念の違い、地域的特性等に関する有益なコメントや質問がなされた。これらの点を課題として踏まえ、今後はさらに考察を深めていきたい。
発表5.山下博司
 近現代におけるインド人の世界進出は、このところの世界経済のグローバル化によって一段と活発化している。これにともないヒンドゥー教も、布教活動によってではなく、主として移民活動を通じて顕著な世界的拡大を果たしつつある。
 ディアスポラに展開するインドの民族宗教は、故地そのままの実践形態を保つのにさまざまな制約が課され、何らかの妥協を迫られ変容を余儀なくされつつ存立している。宗教儀礼上の既成の定めに照らし、やむなくどこまで変質を許容するかの問題も生じてくる。一方で、新しい環境を宗教実践の維持と拡大の好機と捉え、むしろ積極的・主体的に自らを改変し状況に活路を見いだしていく事例も観察される。いずれの場合も、自らのアイデンティティの保全・維持との絡みで微妙な調整が求められることになる。実際には、ディアスポラのヒンドゥー寺院は、両様の態度が複雑かつ微妙に入り交じり絡み合う中で営まれているのが現実である。
 本発表は、故地の文脈から切り離された環境において、さまざまな制約や条件のもと、移民先のヒンドゥー教徒たちが寺院を中心に信仰と宗教的実践を維持しようとする際に、ヒンドゥー教の組織や内部にどのような変化・変容が生じるのかについて、寺院、儀礼、司祭等の問題を引きながら考察するものである。他地域の事例も参照しつつ、旧英領マラヤ地域で独特な形態を発展させてきたタミル系のヒンドゥー教・ヒンドゥー寺院を軸に問題に迫ってみたい。
 インド国外のヒンドゥー寺院で儀礼行為が営まれる場合、聖典の記述に寸分の違いもなく、あるいはインド本土で行われるのとまったく同一のやり方で執行されることは事実上皆無に等しい。インドとは異なる環境のもとで宗教儀礼を行う際に、大なり小なり何らかの妥協を強いられ、儀礼の詳細にも変更や取捨選択が加えられるのはきわめて自然なことである。状況の変化に合わせて、何らかの要素を付加するなどの必要も生じることであろう。上述のように、どこまで変更や改変を許容するかは当事者たる移民たちに課された難しい問題でもある。
 しかし、これは国外のヒンドゥー教においてのみ現出している現象であろうか。実際には、インドにおけるヒンドゥー教の発展にも、同様の問題が付随していたであろうことは想像に難くない。歴史的展開にも、あるいは地理的拡大にも、同種の問題が常につきまとっていたはずである。ヒンドゥー教が新しい時代的局面を迎えた際や新しい環境と出会った時に、それに合わせて操作や改変が為されてきたであろうことは、バラモン教からヒンドゥー教へ、およびヒンドゥー教自体の変遷の足跡を通時的に辿ってみれば自ずと明らかである。第一、ヴェーダでは神像の崇拝を説かないにもかかわらず、ヒンドゥー教のアーガマ文献は、神像を用いた崇拝様式や儀礼体系を前提に存立している。もとより寺院や聖地そのものの存在すら、ヴェーダでは例証されないのである。このように、アーガマに準拠する儀礼的実践は、先行する規範や慣例を逸脱したところに成立しているが、それにもかかわらず、ヴェーダの権威性は注意深く保全されるのである。ヒンドゥー教が、本土において時代の変遷を経ながらも今日まで延々と命脈を保ち、かつ国外的にも顕著な拡大を見せている事実は、ヒンドゥー教のアーガマ的な伝統が有する上述の融通無碍な性格と関係している。
 ヒンドゥー儀礼が、インドの国内外を問わず、常に変容を被りつつ現在に至っていることに鑑みれば、こうしたことは決して一時代・一地域に局限される現象ではなく、ヒンドゥー教の展開の背後に一貫して働き、それを新たな環境に順応させ、次なる段階に移行させていく動態的なメカニズムであると言うことができる。もちろん、ディアスポラ的環境が劇的な改変を時に生起させることは確かであり、それを実見できる機会を提供してくれるという意味で実に貴重なフィールドではあるが、同様の現象は、インドにおいても時間的なスパンこそ違え常に生じてきたものであり、現代のディアスポラ特有のものではないのである。
 本発表で援用する「アーガマ化」という用語は、未だ概念として定着しているとは言い難く、したがって必ずしも定義が確定しないまま、さまざまな意味合いに用いられている。類似の分析視覚もないわけではない。ここでは「アーガマ化」を、もともとヒンドゥー教の正統的な伝統の埒外または周縁にあったものが、正統な儀礼体系の中で意味づけられ存立の場を与えられていく現象あるいはそのプロセスを指すものとする。「アーガマ化」は、とくにインド国外のヒンドゥー教現象に特化して用いられてきた傾きがあるが、それがインドにおけるヒンドゥー教の進化と展開のプロセスにも等しく適用し得る概念たり得ることは、こうしたことからも肯んぜられるのである。
 発表では、いくつかの神格や儀礼の変容を具体例に掲げつつ、上述の諸問題が検討され質疑応答がなされた。
発表6.鈴木晋介
 本発表では、2000年代半ばのスリランカにおけるラフィングブッダ信仰拡大の背景と宗教的実践の諸相について報告と考察を行った。ラフィングブッダ信仰の生成に中心的な役割を果たしたのは、中国製の大量生産品である小さな布袋像である。そもそもグローバルに展開する風水ビジネスのメイン商材として国内に持ち込まれたこの塑像は、スリランカ風水ビジネス特有の販売戦略(グッズ販売の重視、宗教色の排除、中国イメージの強調など)と、既存の物流網を利用した仏具店や雑貨店等による大量販売により、風水ビジネスの文脈を離れ、招福招財の「かみさまらしきもの」として、ただし「縁起由来の定かならぬもの」として市中の人びとの関心を呼ぶことになった。この塑像のまわりにどこから始まったとも知れぬ雑多な宗教的実践(「並べた貨幣の上に祀る」、「塑像のおかなを3回さわる」といったものから「巡礼地における立像の建立」まで)が形成されていったのである。考察では、こうした宗教的実践がスリランカのローカルな宗教的実践・知識を媒介とした創造的受容であることを論じるとともに、ラフィングブッダ信仰生成に至るプロセスを「パッケージ化/脱パッケージ化」の対概念で分析することで、諸要因のグローバルな分散状況を浮き彫りにすることを試みた。質疑では、「パッケージ化」概念の分析上の意味範囲の限定の問題をはじめとする有益なアドバイスをいただいた。事例自体の有する多文脈性と生成プロセスにあずかる諸フローの地理的分散状況とを如何に立体的に描出するか、考察を進めたい。

調査報告
インド音楽・舞踊のグローバリゼーション ―フランスにおけるインド音楽の受容とムスリム音楽家グループの実態調査―

期 間: 2014年9月12日~25日
国 名: フランス(パリ市)
報告者: 田森雅一(東京大学)
概 要:  今回のフランス調査の主要目的は、1)フランスにおけるインド伝統音楽とそのフュージョン化の状況、2)フランスにおけるインド音楽振興・文化交流の歴史と現状、3)ラージャスターン出身の民俗音楽家グループの活動状況の把握の3点である。
 パリ郊外のロワイヨーモン・カトリック僧院で行われた音楽祭では、「文化を超える音楽」と題して行われた二つのコンサートを取材した。一つは、インド古典音楽(弦楽器シタールと打楽器タブラー)とイラン古典音楽(弦楽器タール/セタールと打楽器ザルブ/ダフ)という異なる文化圏の古典音楽の共演。もう一つは、インド古典音楽(弦楽器サロードと打楽器タブラー)をベースとする新世代の奏者(インド系英国人)とフランス現代音楽グループとの共演。サロードのソウミック・ダッタはフュージョン音楽の演奏に適するように楽器を改良。サロードにショルダーバンドをつけて担ぎ、電子楽器のようにサロードにマイクを繋いで演奏をしている。演奏はインドの伝統的な旋法であるラーガをベースにしつつ、多様な音響効果を狙った奏法を行い、西洋・東洋の各種の音楽との即興的なコラボレーションを行う点など、異文化間の音楽・楽器のフュージョン化の実際について把握することができた。
 音楽・舞踊によるインド文化振興・文化交流では、国立ギメ東洋美術館の音楽担当ディレクターのユベール・ラオット氏にフランスにおけるインド音楽の歴史と現状について、東洋の音楽・舞踊の専門劇場であるマンダパ代表のミレーナ・サルヴィーニ氏に劇場の運営やインド音楽家との交流の歴史について、㈶自治体国際化協会・パリ事務所ではフランスの文化政策と移民政策などについて調査を行った。また、カタック舞踊のジャイプル・ガラーナーの家元筋にあたるカマル・カント氏が主催するトリワット協会(パリ教室)の授業と教室運営について調査を行った。
 フランスを根拠地として音楽活動を行うラージャスターン出身の4つの音楽グループ(括弧内は活動拠点)、すなわち①Kerap Gypsies from Rajasthan(Paris), ②Dhoad Gypsies from Rajasthan(Tours), ③Gypsiys of Rajasthan(Paris)、④Mastana Qawwali of Rajasthan(Paris)のそれぞれのリーダーに個別に聞き取り調査を行った。彼らの共通点は、ムスリムの音楽世襲カースト出身者がリーダーとなっていること、前3者のグループ編成がミーラースィー(歌謡、ハルモニウム、タブラー)、ランガ(歌謡、ドーラック、カルタルなどの民俗楽器)、サペーラー(カールベーリヤー舞踊)、ファキール(曲芸)という宗教とカーストを超えた音楽家で構成されていること、別動グループとしてブラスバンドを組織している点などがあげられる。
 このような編成の先駆的グループとして、1990年代の半ばに結成された「ムサーフィル」がある。そして今回、パリを基点として活動するラージャスターン出身の4つのグループのリーダーの親族関係と音楽活動の聞き取り調査により、彼らはすべて何らかの姻戚・遠縁関係にあり、ムサーフィルへの参加後に独立、あるいはムサーフィルの西欧での展開を手本として2003年以降にグループ結成されたことが明確になった。

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研究会報告
「MINDAS 2014年度第2回合同研究会」報告

期 間: 2014年7月19日(土)、20日(日)
場 所: 国立民族学博物館4階 第1演習室
発表者: 発表1.松川恭子(甲南大学文学部准教授)
「地域的想像力の故地への環流:ボンベイのゴア人コミュニティ形成と演劇ティアトルの発展」
発表2.小牧幸代(高崎経済大学地域政策学部教授)
「現代インドのテーマパークにおける商品としてのイスラーム:アドラブズ・イマジカの事例を中心に」
発表3.福内千絵(京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科研究員)
「近現代インドにおける「ナショナル・アート」の生成:ラヴィ・ヴァルマーをめぐる言説から」
概 要: 発表1.松川恭子
 本報告では、19世紀から20世紀にかけてのボンベイ(ムンバイ)におけるゴア人コミュニティの形成と、演劇ティアトルの誕生と発展およびゴアへの活動拠点の移動について考察を行った。
 19世紀後半から20世紀前半にかけて、インド各地で近代演劇成立の動きがあった。カルカッタ、ベナレス、ボンベイで新しく生まれた演劇には(1)西洋の演劇伝統とインドのサンスクリット劇・民衆劇(folk theatre)の出合いと様々な発展の形、(2)公共の劇場での上演とミドル・クラスの観客に対する啓蒙の役割、(3)独立運動と平行したナショナリスト的メッセージ伝達の役割という三つの傾向がみられる。サンギート・ナタックやパールシー演劇が出現したボンベイでは、20世紀に入るとヒンディー語で作られた映画の人気が高まり、劇場は演劇ではなく映画上演に特化していくようになった。
 ヒンディー映画がナショナルなメディアとして発展していく一方で、演劇の中にはローカルなコミュニティの「地域的想像力」発現の場として展開してくものがあった。ボンベイのゴア・クリスチャンの間では、都市における「視覚(ヴィジョン)」に訴える新たな大衆文化の発展と並行して、民俗演劇とは異なるティアトルという新たな演劇の様式が誕生した。ティアトルとは、主にゴア・クリスチャンによって演じられる、現地語コーンカニー語(Konkani)の演劇のことであり、ポルトガル語のteatro(演劇)が語源である。村落で実践されていたケル(kell)、ザトラ(zatra)がティアトルの源流として考えられている。その時々の社会問題を反映した物語を舞台上で展開し、幕間に現地語コーンカニー語の歌、カンタール(kantar、cantar)が歌われる。1892年4月17日の復活祭の日にボンベイのニュー・アルフレッド・シアターで、ルカジーニョ・リベイロ率いる有志たちにより、初めてティアトル劇が上演された。それは、イタリア・オペラの『イタリアの子供』をコーンカニー語に翻案したものだった。
 その背景として、ゴア・クリスチャンの各地への移住の動きがあった。ゴア・クリスチャンは、旧宗主国のポルトガルだけでなく、ナポレオン戦争時(1799~1813年)にイギリス軍がゴアに駐留したことを契機に、ボンベイ、プーナ、カラチなどの英領インド各地及び東アフリカへと移動し、現地でコミュニティを築いてきた。アフリカ諸国の独立後のイギリスへの再移住、1970年代以降のオイル・マネーをターゲットにした湾岸諸国への流れ、2000年代の定住志向のイギリス、カナダなどへの動きなど、移住の動機は様々であるが、ゴア・クリスチャンの移動の流れは現在まで継続的に起こっている。ゴアという空間の歴史的形成と現在にとって、在外ゴア人の存在は大きな意味を持っている。
 ティアトルは、ゴア・クリスチャンの自己表象とともに伝統的なゴア社会批判のメディアとなっていった。1930年代から70年代までの50年間がボンベイにおけるティアトルの黄金時代だった。自由な表現の様式は、1961年までポルトガル支配下にあったゴアでは検閲により難しいものだったが、ボンベイのティアトル劇団がゴアで公演することで故地にも伝えられた。そして、ティアトルにおけるゴア社会批判の様式は、ティアトルの中心地が1980年代以降にゴアに移ることによってゴアにおいて現代的な社会問題をテーマとするなどの形で更に発展していくことになった。
 本報告では、主にボンベイのゴア・クリスチャン・コミュニティの間でティアトル劇が都市演劇や映画の発展と並行して形を整えていき、「ゴア・クリスチャンとしてあること」を表現する媒体として1960年から1970年代に最盛期を迎えることとなった経緯を考察した。ボンベイのティアトル劇団のゴアへの出張公演や1980年代から1990年代に中心地がゴアに移動した後の変化については十分に論じられなかった。現在のティアトルは、ロンドン、湾岸諸国への出張公演など、国境を越えた動きがある。劇のテーマとして、グローバリゼーションの進展から生じる問題(たとえば観光産業の発展に伴うドラッグや児童買春)が扱われる、湾岸諸国やロンドンへの出張公演の数が増加するといった変化がみられる。このような点を踏まえ、故地ゴアへのティアトルの環流がどのような変化を伴ったのかを明らかにしていくのが今後の課題である。
発表2.小牧幸代
 2013年4月18日、ムンバイ近郊のコーポーリー市に、「インド初の国際基準のテーマパーク」として「アドラブズ・イマジカ」が堂々オープンした。ボリウッドの大手映画配給会社アドラブズ・エンターテインメントが、総工費約290億円と4年の歳月をかけて完成させた大規模な豪華娯楽施設である。本発表では、このテーマパーク内の2つのアトラクションに観察されるイスラーム的要素に注目し、そこで確認される商品としてのイスラームのあり方の考察を通して、現代インドの娯楽産業における自文化/他文化の表象・演出の仕掛けを浮き彫りにしようとした。  「世界に通用するインドの物語」をテーマに掲げるアドラブズ・イマジカにおいて、シュリー・デーヴィーとアニル・カプールのコンビで1987年に大ヒットしたボリウッド映画「Mr. India」をフィーチャーしたアトラクションや、インドの雄大な自然と伝統的な祭礼・建築物を「鳥瞰」するアトラクション、ヒンドゥー神話、そしてインド中世史を題材としたアトラクションは目玉商品となっている。とはいえ、広大なパークはインドだけでなく、ヨーロッパ、アジア、アメリカ、アフリカ、アラビアという全部で6つのエリアで構成されており、それらは順に、ヨーロッパがエンターテインメント・ショー、アジアが3D映画、アメリカは絶叫マシーン、アフリカはエスニックな雰囲気と恐竜の時代、アラビアが千夜一夜の世界として表象され演出されている。
 世界をこのように分類する発想とそれぞれのイメージおよびアトラクションとのマッチングが、平均的なインド人の世界観を反映しているのかどうかの判断は難しいが、本発表で注目したいのは、アラビアとインドの両エリアにおけるイスラーム・イメージである。いずれも4人掛けのコースターに乗って、薄暗い窟の中にゆっくりと吸い込まれていく。アラビア・エリアの「アリババと40人の盗賊」は、盗賊たるムスリムを標的にしたシューティング・ゲームである。インド・エリアの「サリームガルの呪い」は、ムガル朝第6代皇帝アウラングゼーブの残虐行為を題材としたホラーハウスである。先述の「世界に通用するインドの物語」のポジティヴな側面が広大な国土の雄大な自然美と豊かな民族文化の視聴、荘厳なインド神話の体感、ボリウッド映画の追体験であるのとは非常に対照的である。
 イスラモフォビアが疑われるアトラクションに、私は「いやな感じ」を覚えたが、パークマネージャーの言説は、自分自身がムスリムでありながら、それに対して平常心・無関心を示すものであった。だが、この種の平常心・無関心こそ、きわめて政治的な意味合いをもつといえないか?日常と非日常を分離できる人間こそ現代的でスマートだという風潮、宗教と政治を切り離せてこそ先進的だとする意識は、一見、穏健派のようだが、娯楽性を強調し前景化することで、眼前の敵意や悪意に気づかぬ努力を自らに強いているのである。この意味で、消費社会の暴力は、現実的な暴力よりも悪質かもしれない。
 これまでの人類学的研究において、宗教と観光の関係は聖地巡礼や世界遺産などの宗教施設の観光をめぐる宗教的体験の強調もしくは娯楽性の追求など、どちらかといえば二者択一的な側面に関する議論が多かった。それに対して本発表は、宗教の中の娯楽的要素ではなく、娯楽の中にちりばめられた宗教的要素を扱うものであった。
 各アトラクションの写真や動画、発表者による参与観察の報告とパーク関係者・観光客の語りの紹介をふまえ、研究会参加者からは、アトラクションを企画する側とアトラクションを楽しむ側で、やりとりされるメッセージが「正確」に伝わっているとは限らないこと、つまり発信者と受信者のあいだのズレに注意する必要のあること、またメッセージの受信者の性別、年齢、宗教などをはじめとした個々の背景の相違によってもメッセージ受容の仕方に違いがみられるはずであること、同テーマパークでは博覧会・博物館のような文化表象のあり方が注目に値すること等のコメントがなされた。発表者は、これらの貴重なアドバイスをもとに、今夏の現地調査計画を練り直し、本調査を実施したいと考えている。
発表3.福内千絵
 本報告では、画家ラヴィ・ヴァルマー(Ravi Varma 1848-1906)をめぐる言説を跡付けることで浮かび上がる、インドにおける「ナショナル・アート」の様相について、近現代の長期的視座からの概略を述べた。
 報告者はインドにおける「ナショナル・アート」生成の流れを、大きく四つの時期に区分できると考える。
 第Ⅰ期は、19世紀後半、南インド、トラヴァンコール藩王国出身のラヴィ・ヴァルマーが西洋の絵画技法に出会い、習熟したインド人「Artist」として成功した時期である。ラヴィ・ヴァルマーは、イギリス人主導のサロン展での活躍する一方で、インド国民会議派との交流のなかでナショナリズムにおける「Art」の可能性を認識し、「インド」の多様性を包摂する表象を絵画化した。こうしたヴァルマーの画業への評価とともに、西洋から到来した「Art」という概念の普遍性が問われ始め、ベンガル地方の知識人や西洋オリエンタリストのあいだでは、はたしてインドの伝統文化には、西洋に対置できる「Art」があるのかという議論が活発になされた。
 第Ⅱ期は、20世紀初頭から1920年代にかけて、スワデーシーの高揚のなかで、ラヴィ・ヴァルマーへの批判が沸き起こり、ヴァルマーを超えた「ナショナル・アート」が提示された時期である。ベンガル地方の知識人によって、インド古典神話を題材としたラヴィ・ヴァルマーの絵画は、西洋の絵画技法に依拠したハイブリットなものであること、描き方も世俗的であるという点から、「真正なインド美術」ではないとして酷評された。そして、アバニンドラナート・タゴールをはじめとしたベンガル派の画家たちによって、「Indianness」とは何かが探求され、インドや東洋の伝統的な絵画様式から着想した「ナショナル・アート」が提示された。
 第Ⅲ期は、1920年代以降、それまで拘泥していた「Indianness」を超えて、真の「Art」とは何かが省察された時期である。モダニズムをはじめとした西欧の絵画動向への関心が高まるとともに、ベンガル派の絵画が否定され、前衛的な「Art」の実践が試みられた。ラヴィ・ヴァルマーの存在は、この時期のインド画壇からは消え去っている。
 第Ⅳ期は、1970年代以降、ラヴィ・ヴァルマー作品の歴史的意義が回顧され、インドの文化資源施策によって「ナショナル・アート」が再提示された時期である。国家の文化遺産登録・保護の動きのなかで、ラヴィ・ヴァルマーはインド美術史における近代の重要な画家として再び見出され、「National Treasured Artist」の一人として登録されるに至った。こうした国家による「ナショナル・アート」認定とアート市場とが結びつくことで、ラヴィ・ヴァルマーの価値が定着することとなった。
 参加者からは、「インド的」なイメージが形成された要因を解明することで、本研究が環流議論におけるアイデンティティー形成の考察につながる点を示唆いただいた。また、カルカッタとボンベイの画壇の違いに注意を払った上で言説を捉えることの重要性や、インドのモダニズム表現の検討の必要性、インド近代音楽史との比較の視点の有効性など、多くの有益なご意見をいただいた。それらをふまえて、今後はさらなる詳細な調査と考察を進めたい。

研究会報告
「MINDAS 2014年度第1回合同研究会」報告

日 時: 2014年5月10日(土)
場 所: 国立民族学博物館2階 第3セミナー室、第7セミナー室
発表者: 発表 David Trasoff (Lila Vihun Music)
"Hindustani Music in America: The First Years"
コメント・討論田森雅一(東京大学・大学院総合文化研究科)、岡田恵美(琉球大学教育学部)
概 要: 発表 David Trasoff
 Musicians from royal Indian courts first brought Hindustani music to Europe. The Uday Shankar dance troupe performed in Europe and the United States in the 1920s and 1930s. In the 60s George Harrison of the Beatles popularized the sitar, and Ravi Shankar performed at the Monterey Pop Festival, Woodstock and (with Ali Akbar Khan) the Concert for Bangladesh. Alauddin Khan (1881-1972), the father and teacher of Ali Akbar Khan and the teacher of Ravi Shankar, wanted to see Indian music established in the west. Ravi Shankar popularized Hindustani music through thousands of concerts around the world. Association with Beatle George Harrison made “sitar” a household word in the United States.
 Dr. Robert Brown, a visionary ethnomusicologist, invented the term World Music and pioneered the teaching of non-Western music by master musicians. In the early 1960s he established the ethnomusicology program at Weslyan University; in the early 1970s the World Music program at California Institute of the Arts (founded by Walt Disney); and in the late 1970s the Center for World Music. In 1965 Robert Brown brought Ali Akbar Khan and other master musicians from around the world to teach in America as part of the American Society for Eastern Arts (ASEA) summer program in Berkeley California. After two years with the ASEA Ali Akbar Khan and his students started the Ali Akbar College of Music in 1967. The College had many students in the late 1960s and early 1970s. many students. The number of students declined in the mid-1970s but increased steadily from mid-1980s numbers forward. Ali Akbar Khan’s achievements were recognized when he received the MacArthur Fellowship and the National Heritage Fellowship in the 1990s.
 Ali Akbar Khan passed away in 2009. His son, Alam, is now the principal teacher at the Ali Akbar College. A digital archive of Ali Akbar Khan's teachings includes thousands of original compositions, audio recordings and videos of classes.
 Jazz musicians found a common interest with Indian musicians in improvisation, and some very successful collaborations resulted, including Oregon; Shakti with John McLaughlin and Zakir Hussain; and Ali Akbar Khan and John Handy.
 “New Age” music was a commercially successful genre from the 1960s - 1980s that linked influences from Indian music to yoga or meditation. It was a worldwide phenomenon, in the United States, Europe, and in Japan. Hit became a highly marketable charted commercial music, with stars and big profits.
 From the 1990s to the present has seen the rise of "American Kirtan," group chanting of Sanskrit-derived mantras. Practitioners use tabla and harmonium, but the music is based on Western pop music harmonic formulas and has no relationship to raga music. The performers and the audiences are almost entirely non-Indian. The genre is not really Indian musically, but is connected to India in peoples’ minds.