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「わたしを演じる ─ 演技と変身への願い」 ─ 第264回(2000.4.15)みんぱくゼミナール講演要旨
「世界は舞台、みんな役者」といわれるように、私たちの生きる世界は古くから舞台になぞらえられてきた。わたしたちひとりひとりが実人生のなかで毎日いくつもの役柄を演じているからだ。都市生活でのそんな演技のひとつに、儀礼的無関心というのがある。知らない人には礼儀として無関心のふりをする現象である。
たとえば、多くの日本人は毎日かなりの時間を電車で過ごす。その車内では互いに知らないふりをしてすわっていなければならない。そんなとき、学生風の若い女性が乗ってきて、座席にすわると仮面をつけ、赤い帽子をかぶり、名札を胸にとめて、ひざの上の鞄から紙を取り出し、なにやらスケッチをしはじめたとしたらどうだろう。実は、これは京都市立芸術大学の山口明香さんが制作したビデオアートの主題である。彼女がそんな格好をしてすわり、筒状のオブジェを描きはじめても、隣席の乗客は横目でちらりと見るだけでまったく動かない。彼女は自分の車中のそのような光景を友人にビデオにとってもらった。画用紙を何枚もテープでつないでオブジェを長くしていく。紙は床にたれていく。それでも、隣の席では男女がまるでそしらぬ顔で乗降する。ビデオカメラにとられているのがわかってか、新聞を広げて読みふける人もいる。やがて彼女は紙を再び鞄にしまい込んで、一葉のセルフポートレートを取り出した。サインして座席に残して降りていく。隣の男性はしばらく間をおいてから、カードを遠目に見るように見つめているが、手にとろうとはしない。どう見ても奇妙に思える女性に体を接するようにして近くにすわりながら、鞄をひざに抱えて居眠りしている男性もいる。これはいかにも現代日本的光景ではないだろうか。
無関心をよそおうのはよいが、この作品を見ていると、日本人は互いに本当に無関心になっているのではないかと心配になる。一日のうちことばを話している時間はわずかだが、わたしたちの身体は四六時中何かを伝える。そうした身体が伝えているものを感じ取る力が、わたしたち日本人は、鈍くなっているのではないかとさえ思われる。
みんぱくの今春の企画公演「みんぱくミュージアム劇場-からだは表現する」は、社会という舞台で、ほかならぬわたしたちの身体が何を表現しているのか、また、表現しうるのかを考る機会として開催された。
一方では、家でも学校でも劇場でも役割があいまいになって、そのうえ互いに相手役への信頼が薄れているという状況、換言すれば、社会の約束事が信用できなくなっている状況があって、社会のなかで与えられた役割から自由になり、別の自分になってみたいという思いも広がっているのではないか。常に他人になりきろうとする美術家の森村泰昌の「なりきりアート」が人気があるゆえんである。男もメイクする時代だが、わたしたちは以前にもまして自己を演じる必要に迫られている。