国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

「日本を食べる世界」:ベトナム編 バイクにのった日本食

佐藤まり子

ハノイを走るバイクの群れ
[写真1] ハノイを走るバイクの群れ
押し寄せる「バイク」の波。東南アジアの一国ベトナム社会主義共和国の都市部を訪れると、この光景に唖然とする。道路を横断するのも一苦労。まさにバイク天国である。素敵な衣装に身を包んだ女性やスーツにネクタイ姿の男性、はたまた内臓を除去され解体された豚、竹篭に入れられた十羽以上の鶏、3人もしくは4人乗りで散歩を楽しむ家族連れ。恋愛を謳歌する恋人たち。バイクは様々なベトナムの「顔」をのせて走っている[写真1]。

近年そのバイクが、また新しいベトナムの一面をのせて走るようになった。「日本食」である。食の豊かさで知られるベトナムには現在、日本食を提供する数多くのレストラン、カフェが存在する。そういったお店がバイクによるデリバリー・サービス、つまり出前を行なっているのだ。「早速、出前をとってみよう。」と言いたいところだが、自らバイクを運転し、日本食を探しに雑踏に飛び出してみるのも楽しいのではないだろうか。では、かつて筆者が暮らしていた首都ハノイを舞台に、日本食のお店3軒をめぐる食のツーリングへと出発することにしよう!


とんかつとハノイの韓国人
Cafe Motのカツ定食
[写真2] 『Cafe Mot』のカツ定食
街路樹が生い茂るハノイの大通りは、散歩コースにはうってつけである。相変わらず、バイクは群れをなしているが、それをぬけ、モーニング・コーヒーを求めて辿りついた先に『Cafe Mot(『カフェ・モット』)』がある。オーナーである粟生さんは、大阪出身の日本人。1997年に渡越後、ベトナム語を習得。1999年にカフェ経営を始め、手伝ってくれていたベトナム人の女性と結婚、現在に至る。オープン当初はコーヒーとトーストといったシンプルな経営スタイルで、お客も地元のベトナム人が中心だったという。その後お店の移転にともなって日本食を作れるベトナム人のコックを雇い、ボリュームのある美味しい日本食を良心的な価格で提供するカフェへと経営スタイルを転換した。現在では、日系企業勤めの人を中心に多くの日本人が訪れ、ハノイの喧騒で疲れた心と身体を出汁のきいた濃い目の豚汁で癒す、「美味しい場」となっている。

この『カフェ・モット』で、ここ数年興味深い現象がおきている。お客の4割を韓国人の留学生が占めるようになったのだ。粟生さんの話によると、彼らはカツ系のメニューを好んで選び、カツカレー、カツどん、カツ定食は大人気、週に数回食べに訪れるリピーターもいるらしい[写真2]。その理由は、「『カフェ・モット』のカツにある!」と粟生さんは言う。韓国にも日本食でいう「とんかつ」と同じような料理があるらしいのだが、その違いは、肉が薄めで、衣もそれほどふんわりしていない点だという。『カフェ・モット』のとんかつがまさにそれに当てはまり、韓国人学生の胃袋を満たすようになったのだ。さらにカツは大きめなので、学生にとってはこの上ない満足感が得られるわけである。粟生さんは特に意図してこうした形のカツを提供しているわけではないらしいのだが、今となっては韓国人学生も御用達の日本食カフェとなっている。


ベトナム製ラーメン
ベトナム製ラーメン。器には、日本でも有名なベトナム陶器バッチャン焼(安南焼)が使われている。
[写真3] ベトナム製ラーメン。器には、日本でも有名なベトナム陶器バッチャン焼が使われている。
『カフェ・モット』をあとにし、5分程度小道の散策といこう。ハノイに暮らす人々の姿が、面白いくらい目に入ってくる。そんな風景に夢中になっていると、次の目的地、その名も『Ramen Shop(ラーメン・ショップ)』に到着である。日本では、今やこだわりの「食」としてのイメージを定着させたラーメン。それをハノイでも味わうことができるのだ。驚くなかれ[写真3]。そのラーメンを作るのは、お店の経営者でもある一組のベトナム人夫婦タンさんとヒエンさんである。

2人と日本食の関係は1995年からはじまった。日本料理屋『楽』に、ヒエンさんはウエイトレスとして、タンさんは料理人として就職したことがきっかけである。料理学校に通った経験のないタンさんは、ここで一から日本食を学んだ。1998年「楽」が店を閉め、2人は失職するが、タンさんはDaewoo Hotel(デウー・ホテル)の日本料理屋に転職し、ヒエンさんは日本語学校に通いはじめる。その後2人は結婚。ホーチミン市へ行き、新たな土地で日本料理屋に就職して料理の腕を磨いた。2004年、タンさんがハノイに帰郷すると、2人で貯めた貯金を開店資金にあて、自分たちの店を開いたのである。

この店、メニューを見ると、「ラーメン・ショップ」を越えた域にある。塩、醤油、味噌の3種類のラーメンのほか、餃子やチャーハンといったラーメン屋ならではの品から、ニラレバ定食など日本の定食屋で提供されている定番もの、さらには焼き鳥、おでん、さば煮つけなど居酒屋メニューまで多彩な内容で構成されているのだ。一方で、テーブルやいすの配置、整頓された店内の雰囲気、さらに従業員のあいさつ、立ち位置、注文の取り方等は徹底しており、日本のラーメン屋をイメージせずにはいられない。日本に行ったことのない2人が、これほどまでに「日本のラーメン屋」を演出することができるのは、長年日本食に関わってきたことによって蓄積された経験と知識、そして日々のたゆまぬ努力と、何よりも日本食に対する彼らの愛情であろう。


ハノイのリトル・ジャパン
新鮮な蛤を手にする『紀伊』の料理長
[写真4] 新鮮な蛤を手にする『紀伊』の料理長
『紀伊』の自家製納豆
[写真5] 『紀伊』の自家製納豆
日も陰りはじめ、夕方の帰宅時間をむかえると、家路を急ぐ人、夜風を楽しむ人でバイクの量は一段と増え、道路は渋滞となる。ようやくそこから脱出し小道に入ったかと思うと、今度はその先に、タクシーや自動車で混雑している一画が目に入ってくる。いったいどうしたのか。そこに日本食レストラン「『紀伊』」があるのだ。1998年の開店以来、『紀伊』はハノイ近郊の漁港ハイフォンから直接仕入れる新鮮な魚介類を、刺身や煮魚、焼き魚として客に提供し続けている。ハノイ在住の日本人全般に好評で、特に夜の店内はさながら「リトル・ジャパン」と化す。入り口前の道路が自動車で混雑するのは、その客層が、会社専用車やタクシーで来店する、ベトナム社会においては経済的にゆとりのある階層だからだ。魚料理に限らず、揚げ物、煮物といった全てのメニューが一級品で、その味に舌鼓を打つ日本人が集う空間なのだ。オーナーの小林さんのこだわりは、あくまでベトナム国内で手に入る食材を利用し、そこから誰もが美味しいと認める日本食に創造することである[写真4]。味噌や納豆はベトナム産の大豆を使用した自家製で[写真5]、うどんやそばもベトナム産素材を使って独自に打っている。

先述したように、本格的な日本食を提供する『紀伊』に訪れる客は日本人がほとんどで、全体の7割を占め、残りの3割がベトナム人、台湾人、欧米人、韓国人で構成される。やはり一般のベトナム人にとっては、日本食というとその味よりもまず値段が高いことが先立ち、まだまだ手の届かぬ高嶺の花であり、また日本食に関する情報ですらなかなか入ってこないのが現状なのである。しかしながら、こうも考えられるのではないだろうか。小林さんと料理長の2人以外、他のスタッフ全てがベトナム人である『紀伊』店内では、ベトナム人スタッフへの「指導」というかたちで日本の食文化が伝えられている、と。ハノイの「リトル・ジャパン」から、日本の味が着実に発信されているのである。

バイクは食の国境を越えるか
はじめに述べたように、今やハノイではこういった日本食がバイクで至るところに出前されている。さらに使用されているバイクが、ベトナム国内市場で順調に売上を伸ばすホンダ製であるとしたら、日本ブランドのバイクが、日本食である丼物や定食、お弁当、そしてラーメン、半チャーハンセットを配達していることになる。さながら日本のお昼時を髣髴させる風景と言いたいところだが、明らかに東南アジアの一国ベトナムのハノイで繰り広げられる日常なのである。とんかつを楽しみに『カフェ・モット』に集まる韓国人学生も、ベトナム人夫婦によって作られるラーメンの温かい味も、日本の伝統の味を伝えるリトル・ジャパン『紀伊』も、ハノイという空間に共存しているのである。

残念なのは、ハノイの日常の一部分となりつつあるこの日本食が、一般のベトナム人にとっては、まだまだ遠い存在であるということだ。『紀伊』の小林さんは食のプロとしての視点から、人の食に対する保守性を強調する。いくら同じ食材を使用していたとしても、その調理法や見た目が異なると、そこに旨味や味わいを見出すのはなかなか難しい。味覚にもその社会的背景が多分に影響を及ぼしているのだ。ハノイは日本食をはじめとする新たな外国の食文化をようやく取り入れ始めたに過ぎない。日本食需要の受け皿も、経済的に余裕のあるベトナム人の間ではできつつある。今後こういった日本食への興味が一層広がり、いつの日かベトナム人の一般家庭にも、バイクによる日本食の出前が配達されることを期待したい。

余談ではあるが、実は筆者は、通算3年になるハノイ暮らしで、まだ一回もバイクを運転したことがない。そんな筆者が運転するバイクでの食のツーリングはいかがだっただろうか。筆者自身は些か「バイク酔い」を感じながらも、今日もまたハノイの街中を日本食という異文化をのせてバイクが颯爽と走っていく姿を思い浮かべている。


[取材協力店]
Cafe Mot: 50 Bui Thi Xuan, Ha Noi Tel: (84.4) 943.5356
Ramen Shop: 103 Mai Hac De, Hai Ba Trung, Ha Noi  Tel: (84.4) 974.2459
『紀伊』:166 Trien Viet Vuong, Hai Ba Trung, Ha Noi  Tel: (84.4) 978.1386
[取材協力者]
伊藤真実(東北大学文学部 在籍)