海域アジアにおける人類の海洋適応と物質文化――東南アジア資料を中心に
プロジェクトの概要
プロジェクトの目的
本プロジェクトの目的は、東南アジア島嶼部を中心とする海域アジアとその周辺海域を対象とし、人類の海洋適応に関わる物質文化を、地域と歴史を視野に入れてデータベース化することである。その実現のために、本プロジェクトでは、海域アジアとその周辺における海洋適応の歴史と文化に関する基礎的な情報を現地調査と文献調査により収集する。その上で、国立民族学博物館が所蔵する関係資料データの整理と多言語化を行う。主な対象は第一に東南アジア関連の資料である。だが、先史時代から東南アジアは大きな人の移動を受けてきたために、周辺地域の関係資料ともリンクさせる必要がある。とりわけ東アジアの琉球列島や台湾、オセアニアの島嶼域の資料とのリンクが想定される。本プロジェクトで構築されるデータベースは現地でのワークショップにも用いる。この応用的実践は、人類の海洋適応と物質文化の関係性をめぐる地域性も含めた解明にも資する。
プロジェクトの内容
本プロジェクトの第一の目的は、海域アジアにおける物質文化を海洋適応の人類史的視点から探究し、東南アジアを軸として人類による海洋適応を最も象徴する漁具や航海に関わる物質文化の共通性や相違性を明らかにする点にある。出アフリカ後の人類、とくにホモ・サピエンスは、ユーラシア大陸を経て海域アジアからオセアニア域への移住と進出に成功した。この移住には、島への渡海技術をふくむ高い海洋適応が求められ、その結果として海域アジアとその周辺に位置する島嶼域では、漁撈採集に代表されるような海産資源の積極的な利用や長距離航海や海上交易に代表される海洋技術の発達が起こった。
一方で海域アジアは、温帯から亜熱帯、そして熱帯までを含む多様で異なる海洋環境をもつ。また点在する島の規模や植生、動物相、地質学的背景も多様である。こうした多様な海洋環境や島嶼環境の中に生存する複数の集団が各地で海洋適応を進めた結果、漁法や漁具、船舶や航海術にも多様性と相違性が認められることが、これまでの研究により指摘されてきた。その一方で、海域アジアには異なるエスニシティを構築しながら、エスニシティを超えた海域ネットワークに基づく海上交易が、とくに近世期以降に発達してきたことも知られている。その結果として、海域アジアには類似性の高い漁具や漁法、あるいは特定の物質文化が比較的短期間で、かつ広範囲に普及する事例も知られてきた。本プロジェクトではこうした海洋環境、島嶼環境、そしてネットワーク社会を基盤とするエスニシティが物質文化にどのような共通性や相違性を与えてきたかを、本館の豊富な標本資料ならびにそれらに関連した民族誌、映像、考古資料、歴史史料をもとに探究することを全体の目的とする。
これらの研究目的を達成するために、本プロジェクトでは本館の所蔵する標本資料の中から、東南アジアにおいてはフィリピン、マレーシア、インドネシア、そのほか琉球列島やオセアニアを含めた周辺島嶼地域をも含めた広い地域の資料を対象とし、素材、用途も含めた機能、製作技術等の情報を網羅的に収集する。またそれらの分析を通じて、人類史的、および生態文化的双方の脈絡を考慮しつつ、対象とする物質文化に関して地域間比較の視点も含めた再検討を実施する。調査、研究の主対象となる標本資料は、海域東南アジアの漁撈や航海・船舶関連の資料である。これらの資料のなかでも特に重点的に検証を行うのは、フィリピン、マレーシア、インドネシアの資料である。本プロジェクトでは、現地調査に加え、国内外の研究者とともに資料情報を相互に検証するケーススタディを行う。これによってこのプロジェクトの手法の有効性と、効率的、効果的なプロジェクトの推進方法を探り、その上で琉球列島ならびに他の周辺島嶼域の資料調査にも着手する。
期待される成果
本プロジェクトの成果としては、以下の5点が期待される。
1,海域アジアとその周辺島嶼域の海洋文化に関わる地域間比較の方法論が確立できる。
2,海域アジアとその周辺島嶼域の海洋文化(漁撈・航海・船舶技術)における地域性と共通性を明らかすることができる。
3,海域アジアの海洋文化に関する統合的データベースを多言語で構築することによって、オンライン上で資料検索を可能にする環境を研究者コミュニティに提供できる。
4,本プロジェクトを推進するうえで不可欠な組織体制を構築するために、国内外の機関と学術交流を締結するとともに、資料のソースコミュニティとの協力体制を築く。
5,本プロジェクトを通して本館が海域アジアにおける海洋文化と物質文化研究に関わる中核機関の一つとなることによって、本館の共同利用性を高める。
6,本プロジェクトを推進する上で行われる調査と研究に、若手研究者やソースコミュニティの幅広い参加によって広く民際的な研究を促すことができ、また次世代の研究者の養成と開発に資することができる。
成果報告
2019年度成果
1. 今年度の研究実施状況
本プロジェクトの目的は、東南アジア島嶼部を中心とする海域アジアとその周辺海域を対象とし、本館が所有する人類の海洋適応に関わる物質文化のデータベース化、およびこのデータベースを用いた関係諸国の専門家との海洋文化研究の発展、ネットワーク連携の強化となる。この目的達成の下、今年度はまず(1)海域アジアとその周辺島嶼域の海洋文化(漁撈・航海・船舶技術)に関する本館の資料を総チェックし、日本語と英語による資料台帳の作成を進めた。その結果、インドネシア、マレーシア、フィリピンで収集された800点以上の資料を台帳化できた。さらに東南アジア大陸部における類似性の高い資料についても台帳化を進めた。
一方、データベースを基にした専門家との研究の発展については、まず国内における海洋文化の専門家による本館資料とそのデータベース化に関しては、国立科学博物館、沖縄県立博物館・美術館、沖縄海洋文化館、南山大学人類学博物館に所属する専門家を招き、様々な有益となるアドバイスをもらったほか、海洋文化に関わる国内研究者ネットワークの強化を行った。そのうえで、2020年1月からはマレーシアの国立博物館、アダット博物館、マレーシアプトラ大学、フィリピンのフィリピン国立博物館、フィリピン大学を訪ね各国の代表的な海洋文化研究の専門家と作成したデータベースも使用しつつ協議したほか、各機関と連携強化を進めた。さらに2020年2月18から22日にかけて国立民族学博物館にてマレーシア、インドネシア、フィリピンの海洋文化に関わる専門家、および日本国内の専門家を招聘した国際ワークショップ「Maritime Adaptation and Material Culture in Southeast Asia」を開催し、東南アジアの海洋文化を専門とする研究者や研究機関のネットワーク構築を目的とした発表や情報交換を行ったほか、本プロジェクトで対象としている本館の所蔵資料を実見してもらい、直接的な意見や関連情報の提供を受けた。これにより現時点のデータベースをアップデートすることが可能となったほか、今年度中に完成したデータベースの検討とそのさらなる発展を目的とした相互的な意見・情報交換も実施できた。
2. 研究成果の概要(研究目的の達成)
今年度における研究成果には、まず(1)国立民族学博物館が所有する、東南アジア島嶼部における海洋文化関連の資料(漁具・船関連)をほぼすべて英語化し、データベースのウェブ版デモまで作成できた点があげられる。マレー語を含めた現地語の使用に関しては、資料の現地名の項目において反映させることができた。さらに(2)このデータベースを軸にインドネシア、マレーシア、フィリピンの専門家を交え、資料の実見に基づく検討と海洋文化研究の推進も目的とした国際ワークショップを2020年2月に開催し、データベースおよび研究の両方をさらに発展できた点があげられる。特に資料の現地語名や素材のチェックという点で、現時点でのデータベースに掲載されていた現地語名で修正すべき資料の存在や、現地語名が新たに判明した資料を確認することができた。また素材については、データベースには記載なしの資料が多かったが、今回のワークショップによりほぼすべての資料の素材同定を行うことができた。そのほか本館が所蔵するマレーシアで収集された舟標本が現地国においても希少で極めて価値の高いものであることも確認することができた。関連性の高い舟標本はマレーシア国立博物館にも所蔵されていることを2020年1月に小野がマレーシアを訪問した際にも確認したが、両資料は今後の比較研究の上でも貴重な資料となる可能性が高い。この新たな知見を踏まえ、マレーシアの専門家とは共同研究を進める計画であるほか、本プロジェクトの期間中、あるいは終了後に関連標本を軸とした展示の開催も検討中である。フィリピン関連資料についても、2020年1月に現地を訪問し、専門家を多く擁するフィリピン国立博物館およびフィリピン大学との連携強化を進めることができたほか、両機関の専門家が2月に開催した国際ワークショップに参加し、本館のデータベースのアップデートに貢献してくれた。一方、本館においてフィリピンで収集された海洋文化関連の標本数は他地域に比べかなり少なく、まだ限定的であることも確認できた。これを踏まえ、今後どのような民族誌資料を標本として収集する必要があるかについて協議し、現地専門家の協力を得つつ、新たな標本の収集についても計画していく予定である。インドネシアに関しても2月の国際ワークショップ後、2020年3月初旬にジャカルタ市内にある二つの海洋博物館を訪問し、館長を交えた協議を行うことができた。本館におけるインドネシアで収集された海洋文化関連の標本は少なくないが、舟標本に関してはかなり限定的である。これに対し、インドネシアにおける両博物館は豊富な舟標本を所蔵しているほか、専門家もおり、両機関との連携を強化しつつ、新たな舟標本の収集も視野にいれた共同研究を予定している。なお当初の予定では、今年度の研究目的は(1)までを目安としていたため、(2)まで達成できたことで、研究目的は十二分に達成できたと考えている。また前倒しで最初の国際ワークショップを本年度中に開催できたことで、次年度はより多角的な検討を展開できるほか、対象地域も東南アジア島嶼部から大陸部、また海洋文化の点では密接に関連するオセアニア域における資料も対象とできる十分な余地があり、さらなる発展とプロジェクトの拡大を期待できる。
3. 成果の公表実績(出版、公開シンポジウム、学会分科会、電子媒体など)
論文
◇Fuentes, R., Ono, R., Nakajima, N., Siswanto, J., Aziz, N., Sriwigati, Octavianus S., Miranda, T., Pawlik, A, “Stuck within notches: direct evidence of plant processing during the Last Glacial Maximum in North Sulawesi” Journal of Archaeological Science: Reports 2020/04, No.30:102207,
◇小野 林太郎 「環境変化からみた環太平洋圏におけるヒトの移住史―ウォーレシア・オセアニアの事例から―」『環太平洋文明研究』4号:76-88