国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

客員研究員の紹介

江口一久先生

紹介者:池谷和信(民族社会研究部)
フルベの語り部
江口さんとの出会い

「ヨー、元気か?」みんぱくの廊下の中央をさっそうと歩きながら、江口さんは、出会った皆によく声をかけたものだ。私は研究室にいても、廊下から聞こえるその大きな声で、江口さんが館に来ていることがわかった。彼が私の研究室を訪ねてくるのは何か頼みごとがある時が多かった。正直いうと、今日は会いたくないなあと思う時もあった。しかし、彼の個性に少し触れれば、多くの人にとって忘れられない存在になるにちがいない。

私が江口さんに初めて会ったのは、1993 年のアフリカ学会であった。ナイジェリア北部の牧畜民フルベのキャンプでの2 カ月間の調査の結果を報告した時のことである。ひょうたん製のミルク容器に刻まれた模様をめぐって、「君の滞在した集団はウダではなくてボロロではないか」との質問を受けたのだ。その後、彼が現地での収集にもとづきみんぱくのアフリカ常設展示場に「ひょうたんコーナー」をつくったと聞き、それが彼の関心テーマであることを知った。

1995 年夏からみんぱくで同僚になって以来、フルベの話を聞く機会があまりなかったのは残念である。私の研究の焦点がアフリカ南部のカラハリ先住民にあったことだけのせいではない。江口さんのフルベへの熱い思いを察すると、たかが2 カ月ぐらいでフルベを知ろうというのはおこがましく思えたからだ。よく彼から、「君はどこまでアフリカの人を理解しているのか?」、と尋ねられた。

長期定点滞在から世界発信

江口さんは日頃から、頭で考えた理論よりも五感や手足を使うフィールドワークの重要性を語っていた。彼が1969 年から40 年間ほぼ毎年、カメルーン北部のフルベの村に通ったことが、それを物語っている。そこには、江口流の定点観測の方法があったにちがいない。

しかし、残念ながら私は彼の調査風景を見たことがない。おそらく、調査というよりは、多くの時間をフルベの人びとと語りあいながら過ごされたのであろう。そして、言葉で表現された世界をとおして、人びとをいかに深く理解するかということを追求されたのかもしれない。その成果は、期間の長さに対応するかのようにあまりにも膨大である。『北部カメルーン・フルベ族の民間説話集I~V』(全5 巻)は、各巻が約800 頁に及ぶほどの大著で、それぞれ約150 の昔話が、動物と人、精霊、親と子などの主題別に収められている。

その一方で、国際会議や海外の研究機関では、ポールという愛称で呼ばれている江口さんの名前を聞くことが多かった。それは、みんぱく主催の国際会議を通じて、フルベの研究を世界に発信したことに関係しているだろう。1989 年の会議では、著名な5 人の欧米のフルベ研究者が参加し、その成果は93 年にみんぱくの出版物であるSenri Ethnological Studies の1冊として英文で刊行された。これは、西アフリカのフルベの多様性を扱った研究として国際的に高く評価されており、みんぱくでの研究を世界の流れのなかに位置づけた江口さんの功績は忘れてはならないであろう。

強烈な個性づくり

江口さんは、研究者の世界に閉じこもらず、社会との接点を大切にした。みんぱくの特別展「西アフリカのお話村」(2003 年)をはじめ、さまざまなお話会で、江口さんがフルベの昔話を話す語り部のように人びとに語る様子は、記憶に新しい。そして、インターネット時代であるからこそ、いっそう語りの重要性が受け入れられたのか、多くの人びとが参加してお話村の輪が広がっていった。これは、江口さんだからこそできた社会への発信であった。

江口さんの自由奔放な生き方からは、研究者はいかに自分独自のスタンスをつくり、強烈な個性をもつことが大切であるのかを学んだ。彼が、フルベの村に、長年にわたり通いつづけたのは、単にそこが好きだったからかもしれない。しかし、アメリカ大リーグで活躍するイチローが1本1本の安打を積み重ねて記録を生んだように、フルベに関する前人未踏の研究成果が生まれてきたことを忘れてはならないであろう。

今後、フルベの昔話に関する膨大な資料は、きっと誰かの手によって分析されることにちがいない。私の研究室の本棚にも、江口さんからもらった昔話の本が大きな場所を占めている。最近、私もようやく、家畜の放牧や搾乳のような生業のみならず、人と動物とのかかわりが多数でてくる昔話の世界にも興味をもつようになってきた。今後、彼が残したものは何かについて考えながら、ひとつひとつ読んでみようと思っている。最後になるが、江口さんのご冥福をお祈りしたい。合掌。

江口一久
  • 江口一久
  • 名誉教授(故人)
  • 専門は言語民族学
  • 著書に、『語りつぐ人びと:アフリカの民話』(福音館書店2004 年)、『西アフリカおはなし村』(梨の木舎2003 年)、『北部カメルーン・フルベ族の民間説話集:アーダマーワ地方とベヌエ地方の話』国立民族学博物館調査報告45 など