客員研究員の紹介
崔 仁宅さん
体当たりフィールドワーカー
このエッセーを執筆するにあたって、崔仁宅さんに自分史的な「メモ」を書いていただくようお願いした。その「メモ」には、崔さんの「人となり」がよく表れているエピソードが盛り込まれていた。以下では、「崔さんメモ」を基に紹介してみたい。
崔さんは、1958年に韓国の慶尚北道尚州郡玉山という農村に生まれた。当時韓国の農村では十分な食べ物がなく、白米も珍しかった。小学生の崔さんにとって唯一の楽しみは米軍の援助による「トウモロコシのパン」の給食だった。3年生の時、1人1個配られるトウモロコシのパンが2人で1個に半減したため、級長であった崔さんは級友たちを扇動してハンストを起こした。これは崔さんにとって初めての社会に対する反抗であった。
1978年に、啓明大学日本学科に入学。2年半の軍役(韓国には徴兵制がある)を終え、復学してから、次第に、文化人類学に関心をもちはじめた。当時の指導教官、崔吉城教授(現・東亜大学)のフィールドワークに同行し、調査のノウハウを習得していった。こうして、崔教授から文化人類学的手法を学んだ崔さんは、大学入学以来のテーマである日本研究に進むことを決心した。それまで崔さんが知っていた日本は、植民地時代を経験した母親からの話や教科書からの知識で、総じて否定的なものであった。しかし、崔さんは総体としての日本を鳥瞰し、新たな日本学を韓国で展開したいという目論見をもっていた。日本の多様性を自ら体得し、ステレオタイプの日本観を乗りこえることで韓国における日本研究に一石を投じようとしたのである。
1986 年に東京都立大学大学院に進学。鳥羽・菅島の村落共同体、特に両墓制に関する修士論文を執筆した。1989 年に博士課程へ進んでからは、沖縄へと関心を広げていった。そして、1991 年から1 年間、家族とともに、八重山諸島の小浜島で本格的なフィールドワークを実施することになった。当初は、外国人調査者であることもあって、なかなか島の人びとから信頼を得られなかった。島の人びととの違和感を和らげるため、家の建築現場で働きだし、誰よりも早く現場に着き、誰よりも遅くまで仕事をした。炎天下のなか、地ならし作業や鉄筋曲げもした。そして徐々に島の人びとと親しくなった。酒を交えて聞き取り調査をするまでには2 ヵ月以上はかかった。まさに体当たりフィールドワークによって、島の人びととのあいだに信頼関係を築いていったのである。
小浜島には「アカマタ・クロマタ」という秘密結社的な秘儀祭(豊年祭と呼ばれる)があり、外部者が調査をおこなうのは難しいといわれている。豊年祭を守るため、ある中年男性が酔った勢いで、崔さんに「島を出て行け!」と言ったことがあった。その時、崔さんは、調査への協力と理解を求めて必死に説明したのだが、受け入れてもらえず、結局、男性の目の前で、豊年祭には一切触れないことを証明するために持っていた大事なカメラをたたきつけて壊したが、それでも受け入れられずちょっとした喧嘩になってしまった。崔さんは後悔するとともに、途方に暮れた。そして、この事件を契機に「調査ができなくてもいいから、現地の人びととはもめごとを起こさない」という調査姿勢を堅く守るようになった。この事件は、島ではちょっとした騒動になったが、結局、崔さんは、その男性と義兄弟になるほどの仲になった。
飲み会は調査の絶好のチャンスであったので、崔さんは、人びとの話を聞きながらメモを取ったり、録音したりしていた。しかしある時、島の男性が、「あんたはいいさ!こっちの話を巡査みたいにいちいち調べて、博士号をとって、先生になって、新聞に出てな!」と、崔さんに言った。この出来事は、崔さんにとって人生最大のショックだった。インフォーマントのプライベートやプライドを傷つけてしまったことや、配慮が足りなかったことを恥じ、以来、島の人びととの私的な飲み会にはいっさい筆記用具を用いないことを決心したのである。
私は、東京都立大学大学院に入学してまもない1992年、小浜島でのフィールドワークを終えたばかりの崔さんと初めて出会った当時、先輩の院生であった崔さんは、人類学者としての覚悟やつき合い方、生き方などを熱っぽく語っていた。今回、「崔さんメモ」を読んで、なぜあの当時、崔さんが熱心にフィールドワークを語っていたのかよく理解できた。崔さんは今も学生たちにフィールドワークにおける「思いやり」の大切さを伝えている。
- 崔仁宅 チェ・インテク
- 東亜大学校人文科学大学中国・日本学部日語日文学科教授
- 2008年3月12日から2009年2月10日まで国立民族学博物館外国人研究員(客員)教授
- 研究テーマは、「日韓両国における人類学史の比較研究」