国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

非境界型世界の研究─中東的な人間関係のしくみ

共同研究 代表者 堀内正樹

研究プロジェクト一覧

キーワード

非境界型世界、先発グローバリズム、ネットワーク・ハブとしての中東

目的

アラブ諸国では、いわゆる「コネ」が社会を動かす基本的な手段になってきた。しかしその背後には、絶えざる交渉によって作り上げられる諸個人のあいだの、必ずしも功利的とばかりとは言えない複雑な関係が横たわっている。ともあれ組織や制度ではなく、具体的な顔をもった人間関係が社会の主役なのである。そうした実名性に担われた人間関係は、中東を起点として8世紀以来今日まで、三大陸を舞台に国家や民族、言語、宗教、地勢などの境界を超えて、切れ目のない世界規模の人間のネットワークを生み出してきた。人々の、境界に拘泥しないフレキシブルな意識構造がそれを可能にしている。そうして結びついた広大な多文化複合空間を「非境界型世界」と呼ぶことにする。本研究は、その世界で実際にどのように人間関係が営まれているのかをネットワークのハブである中東各地にさぐり、非境界的な人間関係のしくみとその成立条件を当の人々の感覚や世界観にまで踏み込んで解明することを目的とする。

研究成果

中東では、国家・宗教・民族・部族・言語などさまざまな社会的・政治的・文化的な境界がきわめて複雑に絡み合いながら存在するにもかかわらず、人々は自由で奔放な人間関係を中東のみならず世界中にまで広げている。当初「非境界型世界」と名付けたそのようなことがなぜ可能なのか。共同研究を通じて判明したのは、中東では人々のあいだの関係の切断が当然視されるがゆえに、新たな人間関係を自在に取り結んでゆくことができるのではなかろうかという点である。そうすると、一見強固にみえるさまざまな境界は後景に退く。それに代わって前景に出てくる状況が「非境界型世界」である。非境界型世界は社会も空間も時間も、その連続性をいったんばらばらに切り離して、必要な部分をつなげながら常に組み替えてゆく。そこは境界がないという意味の「無境界」ではないし、境界は取り払われるべきものだという「反境界」でもない。結局は境界的なしくみに依存しない独立した生活のスタンスと世界観を意味する。では境界的なしくみとはなにかといえば、分類やカテゴリー化や関連づけといった操作によって世界を整合的な連続体として定立しようとする近代の思考に支えられた組織や制度が機能する状況である。中東で「非境界的」姿勢が顕著だというのは、境界の整合性が極端に低いということにも一因があろう。
共同研究によって明らかになった「非境界型世界」がもたらす具体的な特徴としては、人々のあいだの不完全な意思疎通や不整合な会話といったコミュニケーションの相貌が日常生活では大きな問題を引き起こさないことや、既存の人間関係に縛られないことへの社会的な合意がみられることなどが挙げられる。そして人間関係の組み替えは、まったく新しい状況つまり偶然性を織り込み済みの前提としていて、そのため日々の生活は常に新規なこととして意識される。したがって歴史や社会は法則や必然性に支配されるような抽象物ではなく、具体的な個の集積として構想されることになる。本研究が得たこうした結論は、境界的しくみの限界が見え始めている今日、新たな視座を提供する契機となろう。

2013年度

本年度はこれまでの共同研究会の議論を総括し、研究成果を一般向けの書籍という形で刊行する準備を行う。本研究課題は、学問領域だけでなく、ひろく一般社会への還元を実現させてこそ意義があると考えるからである。ともすれば難解で内向き・独善的になりがちな学問的議論を一般の人々にも理解してもらうことが重要であり、そうした努力は逆に学問的議論の明晰性と妥当性を確保することにもつながるはずである。そこで一般読者を代表するという意味合いから、必要に応じて編集者にも討議に加わってもらい、できれば研究期間終了時までの出版の実現をめざす。  具体的には、9月までに原稿を完成させ、10月に研究会を開催して相互チェックと基本姿勢の最終確認を行う。その後1月に研究会を開催して、研究全体の総括と、今後本研究課題をどのように発展させてゆくか、その方向性を検討する。

【館内研究員】 西尾哲夫
【館外研究員】 池田昭光、井家晴子、宇野昌樹、大川真由子、大坪玲子、奥野克己、小田淳一、苅谷康太、小杉麻李亜、齋藤剛、錦田愛子、水野信男、米山知子
研究会
2013年10月19日(土)13:00~19:00(国立民族学博物館 大演習室)
全員・「共同研究の成果のとりまとめについて」
2013年10月20日(日)9:00~14:00(国立民族学博物館 大演習室)
苅谷康太(東京外国語大学)「中世のアラブ地理学とサハラ以南アフリカ」
2014年1月25日(土)14:00~18:00(成蹊大学 10号館 第2中会議室)
堀内正樹(成蹊大学)「世界のつながり方について」
2014年1月26日(日)10:00~14:00(成蹊大学 10号館 第2中会議室)
全員・研究成果報告書最終方針の検討
研究成果

本年度は研究の総括を念頭に置いて研究会を実施した。まず研究成果については、「非境界型世界」という考え方を研究者のみならず広く一般にも知ってもらう必要があるという点で合意した。続いて苅谷康太が中世アラブ世界の知識人たちによる地理的な「境界」認識を詳述し、もし中東地域を非境界型世界とするならば、その世界はサハラ以南アフリカを外部と位置づけることによって成立していたのではないかと論じた。「非境界」が「境界」をもつかという議論は検討課題となった。その点も含めて堀内正樹は世界のつながり方としての「非境界」を考え、中国からオセアニア、アフリカ、中東、さらには欧米までも含めた地域を想定し、「差異」と「境界」の基本的な違い、およびグローバリゼーションとはまったく別のタイプの世界のつながり方としての「非境界」を論じた。最後に全員で、研究成果を一般の書籍として出版し、「非境界型世界」の概念を世に問うことで意見の一致を見た。

2012年度

本年度は、平等・公正の倫理という支柱と並んで非境界型世界を支えるもうひとつの柱である「文化情報の非中心性と非拘束性」という特徴を検証する。人的ネットワークのグローバルな展開を担保してきたものは情報の流通経路の「非中心性」つまり「中心を持たない」あるいは「多数の中心がつながる」という特性である。そこでは象徴配列や概念構成、意味の構築といった認識にかかわる領野を一元管理するような中心的な権威組織が存在しないために、文化情報の自由で広範な流通が確保され、その結果、情報内容の「非拘束性」が生み出された。それが人々の認識のこだわりのなさを保証し、人と人がつながる場の可能幅を広げてきたのである。しかしそのこだわりのなさが如何にして共通の価値を生み出すのかが解明されなければならない。本年度は儀礼、音楽、身体技法、出産、学芸、テクストなどといった具体的な分野に即して、文化情報の非中心性と非拘束性の問題を検討する。

【館内研究員】 西尾哲夫
【館外研究員】 新井和広、池田昭光、井家晴子、宇野昌樹、大川真由子、大坪玲子、奥野克己、小田淳一、苅谷康太、小杉麻李亜、齋藤剛、錦田愛子、水野信男、米山知子
研究会
2012年5月19日(土)14:00~19:00(国立民族学博物館 第1演習室)
井家晴子(京都大学)「私の身体と医学的リスク─モロッコ農村部におけるオーラリティとリテラシー」
2012年5月20日(日)10:00~13:00(国立民族学博物館 第1演習室)
西尾哲夫(国立民族学博物館)「言語と文化の境界─言語人類学の再構築のために」
2012年7月21日(土)15:00~19:00(成蹊大学 10号館第2中会議室)
全員「中間総括:問題の再定義」
2012年7月22日(日)10:00~13:00(成蹊大学 10号館第2中会議室)
全員「中間総括:非境界的研究指針について」
2013年1月26日(土)13:00~18:00(国立民族学博物館 第4演習室)
錦田愛子(東京外国語大学)「イスラエル調査報告」
佐久間寛(東京外国語大学)「見せる顔、隠される顔―非境界型世界の末端から」
溝口大助(九州大学)「マリ共和国南東部セヌフォ社会における夢と埋葬儀礼」
2013年1月27日(日)9:00~14:00(国立民族学博物館 第4演習室)
堀内正樹(成蹊大学)「非境界型世界をどう表現すべきか」
研究成果

本年度は、非境界型世界を支える「文化情報の非中心性と非拘束性」という特徴を検証した。井家晴子はモロッコで、妊娠や出産にかかわる文化情報の矛盾や不整合や曖昧性がなんの問題も引き起こさない例を通して、重要な語彙が拘束的な言辞の対極に位置することを論じた。西尾哲夫はエジプトでのフィールドワークに基づいて独自の言語的文化認識モデルを示し、言語と文化の境界をめぐる言語人類学の再構築を提案した。その後全員による本研究の中間総括を踏まえて、錦田愛子は、可視的な政治的・社会的境界が堅固に張り巡らされたイスラエルで不可視の境界が形成されるプロセスと、それを乗り越えるプロセスの重要性を論じた。境界の可視化と不可視化は本共同研究の根幹に関わる問題でもあるため、外部から特別講師を招聘し、この点に関する知見を求めた。佐久間寛はニジェールの開発に関わる場面で具体的な顔が意図的に隠される、つまり不可視化される局面の重要性を論じ、溝口大助は逆にマリの村落において不断に社会的・文化的境界が可視化されるプロセスを論じた。堀内正樹は今後こうした多様な局面を総合的に表現してゆくための問題点を整理した。

2011年度

本年度は、非境界型世界を支える「平等」と「公正」という基軸的な倫理が機能している社会状況を、中東各地の民族誌的事実を通して浮かび上がらせる。この二つの倫理は人間がさまざまな社会的・地理的境界を超えて結びつくときの前提となるもので、非境界型世界を成り立たせる不可欠の構成要件であると考えられる。具体的には市場取引の現場、職業とエスニシティーの結びつき、アイデンティティーの複合性、相互扶助の精神、難民・移民の生活構築などのテーマを、この倫理の発現機会として検討する。そこでは、人間の作り出す家族や部族、宗派、エスニック・グループといった濃密なネットワーク・クラスターと、それを外部や遠隔地の異質なネットワークと結びつける自由な外部リンクの同居という一見矛盾する特徴が、この倫理に基づく人間関係の重層性と、この倫理によって保証された、境界に拘泥しない精神的フレキシビリティーとによって解明されるはずである。

【館内研究員】 西尾哲夫
【館外研究員】 新井和広、井家晴子、池田昭光、宇野昌樹、大川真由子、大坪玲子、奥野克己、小田淳一、小杉麻李亜、斎藤剛、錦田愛子、水野信男、米山知子
研究会
2011年5月14日(土)13:00~18:00(国立民族学博物館 第1演習室)
2011年5月15日(日)10:00~14:00(国立民族学博物館 第1演習室)
大川真由子(東京外国語大学)「言語からみたオマーン移民の人間関係─植民地期東アフリカ、ザンジバルの事例から」
錦田愛子(東京外国語大学)「つながる難民・移民と国際移動─パレスチナ人における対面的ネットワークの働き」
2011年7月16日(土)13:00~18:00(国立民族学博物館 第1演習室)
2011年7月17日(日)10:00~14:00(国立民族学博物館 第1演習室)
《7月16日》
大坪玲子(共立女子大学)「薬物、部族、バザール経済-イエメン・サナアにおけるカートの事例から」
《7月17日》
新井和広(慶應義塾大学)「国境・国籍・民族-20世紀前半、蘭領東インド在住アラブを例に」
2011年11月5日(土)13:00~18:00(成蹊大学10号館第2中会議室)
2011年11月6日(日)10:00~14:00(成蹊大学10号館第2中会議室)
《11月5日(土)》
水野信男(兵庫教育大学)「かくしてウンム・クルスームは、アラブの伝説となった」
《11月6日(日)》
小杉麻李亜(京都大学)「現代イスラーム世界における国際朗誦大会と朗誦家ネットワーク」
2012年1月28日(土)14:00~19:00(国立民族学博物館 第1演習室)
2012年1月29日(日)10:00~14:00(国立民族学博物館 第1演習室)
《1月28日(土)》
池田昭光(東京外国語大学)「レバノンにおける人間関係およびその記述について:資料と論点」(仮題)
《1月29日(日)》
米山知子(国立民族学博物館)「パフォーマンス実践空間における境界と非境界の創出―トルコの都市のアレヴィー文化協会付属セマー教室の事例から」(仮題)
研究成果

本年度は、非境界型世界のあり方を民族誌的事実に沿って議論した。大川は東アフリカのオマーン出身者の言語運用を、錦田はパレスチナの人々が政治的境界を無効化するために用いる人的ネットワークの開発・維持方法を、また新井はインド洋を越えたハドラミーの地理的拡大のプロセスを、小杉はインドネシアのコーラン朗唱大会の国際化を、米山はトルコのマイノリティ集団の舞踊実践の場をそれぞれ例として、境界型世界と非境界型世界がオーバーラップする事情を検討した。これに対して小田は情報科学の立場から、「ネットワーク」という語をはじめとする科学用語を人文科学で隠喩的に用いることの危険性に警鐘を鳴らし、呼応するように、大坪はイエメンを例に、つながりよりもそれを切り捨ててゆく軽やかさが人間関係の広がりを確保できることを示した。水野によるエジプトの国民的歌手の名声獲得プロセスの説明もそれに連なる。池田はそうした複雑な人間関係の構築過程をフィールドの微視的局面に沿って提示した。

2010年度

2010年度はキー概念と用語の整理にあてる。本研究の趣旨と基本方針を確認したのち、重要な用語・概念について認識の一致を図る。優先項目として「非境界/境界」「先発グローバリズム/後発グローバリズム」「実名/匿名」「多様性/均質性」「平等化/不平等化」といった対概念が検討対象になる。

【館内研究員】 西尾哲夫
【館外研究員】 新井和広、池田昭光、井家晴子、宇野昌樹、大川真由子、大坪玲子、奥野克己、小田淳一、小杉麻李亜、斎藤剛、錦田愛子、水野信男、米山知子
研究会
2010年10月16日(土)13:00~19:00(国立民族学博物館 第1演習室)
2010年10月17日(日)10:00~15:00(国立民族学博物館 第1演習室)
堀内正樹「共同研究の主旨と基本方針」
奥野克己「先発グローバリズム研究の意義」
全員「問題の所在確認と研究指針」
2011年1月29日(土)14:00~19:00(成蹊大学10号館第2中会議室)
2011年1月30日(日)10:00~15:00(成蹊大学10号館第2中会議室)
斎藤剛「<非境界型世界>という視座に関わる問題群」
宇野昌樹「クルド人の移動、労働、コネ」
研究成果

第1回研究会では1日目に堀内正樹が研究代表者として共同研究全体の主旨と方針を説明し、研究員全員の確認を得ることができた。また今後の研究会の進め方についても合意を得た。続いて奥野克己が共同研究の柱となる概念を「先発グローバリズム研究の意義」と題して補足し、議論を深めることができた。2日目は前日の議論に基づいて、全員で問題の所在を確認するとともに、研究指針の具体的な詳細を検討した。

第2回研究会では1日目に斎藤剛が「<非境界型世界>という視座に関わる問題群」と題してモロッコの言語事情とベルベル人のおかれた状況を具体的に検討した。その結果、あらゆる方向からの参画が可能な無中心の開かれたネットワークの連接としての社会空間を非境界型世界の根幹に横たわる原理としてとらえ、その起点となる「場」という概念の重要性を提起した。2日目は宇野昌樹が「クルド人の移動、労働、コネ」と題して、シリアに暮らすクルド人の職業ネットワークを、喫茶店の水タバコ・サービスを例に分析した。そこでは職業ネットワークの持つ閉鎖性とエスニック・アイデンティティとの結びつきが、同時に開放性を伴って社会全体とつながっていることが示された。