石毛直道館長・栗田靖之教授・杉田繁治教授 退官記念講演会
2002年3月19日開催
杉田繁治教授 退官記念講演
情報工学と民族学との出会い 杉田繁治
皆さん、本日は、私どものためにお忙しい中をおいでいただきまして、どうもありがとうございます。
先ほども栗田さんが言いましたように、我々は人生に2、3回は褒めていただけることがあるようでございまして、結婚式の時と、それから今回のような退官をする時とか、もう1つはまたもうちょっと後になろうかと思いますけれど、本人は直接聞けませんが褒めていただけるんじゃないかと思っております。
先ほど話をしました栗田と私は、1976年の10月、同時にこの民博にやってまいりました。彼と私とは、ものすごく歳が近いんです。私のほうが3日間先輩であります。同じ時に民博に来、そして同じ時にまた民博を去っていくという。そして、彼は、ブータンをやっておりますけれど、民博の情報化のためにいろいろとやっておりましたので、かなり長い時期、同様の仕事をやってまいりました。今回、いよいよ2人とも退官をするということで、我々としても思い出の深いこの民博でございます。
私は、もともとは工学部の出身でございます。それがこういう人文系の世界へやってまいりまして、コンピューターを通じてこの民博と関係ができたわけでございますけれど、そのあたりのお話をさせていただこうかと思っております。
私の話は、「情報工学と民族学との出会い~国立民族学博物館での26年半」。実は、先ほど石森先生からご紹介をいただきましたように、正式には26年半なんでありますけれど、私は京大におります時に、アメリカから帰ってきましてしばらく、3カ月ぐらいでしたか、併任をしておりました。従いまして、26年半よりもう少し長く、この民博と関係をしております。しかし、正式には26年半、そして京大に9年半おりましたので、トータルをいたしますと36年間、公務員でおりました。そういうことで、京大から民博にかけての仕事を中心にお話をしたいと思います。
その前に、今日はいろんな方がおいでになっておられますので、私の学歴などを少し紹介させていただきたいと思います。
京都に生まれ、ずっと京都におりまして、小学校は富有小学校。御所の南側。最近、小学校が統合しまして、その名前が御所南小学校という、なんやほんまにしょうもない名前になっておりますけれど、かつては富有小学校という立派な名前があったわけであります。それから、柳池中学校。これは京都で一番古い小学校であります。新制度の時に中学になりました。御池の柳馬場の角のところにございます。今はその、向かいのところに大きなマンションが建とうとしておりまして、それでそんな大きいもんを建てたらいかんとか、かなり反対等がありましたけれど、その御池通に面した柳池中学校でありました。高校は、二条城の西側のところにあります、昔の京都府立第二女学校が、朱雀高校というのになりまして、そこを卒業しました。それから、京都大学の電気工学科に入学いたしまして、修士、それから博士を経まして、そして1967年(昭和42年)に一応単位を取得いたしまして、その翌年、68年に博士号をいただきました。
職歴といたしましては、ドクターコースを出た昭和42年に電気の助手になりました。それからちょうど1970年に、情報工学科というのが京大とか阪大とかいくつかの大学にできました。そのほうへ移りまして、1971年にその助教授になりました。私は、学生の時から助手、助教授ずっと坂井利之先生の研究室でお世話になっておりました。
先ほど石森さんからも紹介していただきましたけれど、1年間、アメリカに行っておりました。カーネギーメロン大学、これはピッツバーグにありますが、それとボストンのMIT、そこへ行って、別に研究するというんではなくて、アメリカのそういう雰囲気ですね、大学における雰囲気、そういうものをかなり勉強したといいますか、肌で感じてきまして、それがその後、大変自分の研究する上において役に立ってるなあと今も思っております。
民博へ来ましたのは1976年の10月でありますが、それから87年に教授になって、それから平成元年には総合研究大学院大学というのができまして、それの併任教授になりました。文化科学研究科の第1号の博士号の主査をしました。その後研究部長、企画調整官なども併任しておりました。
工学部の人間がどうしてこういう文科系の世界へ来たのかと、ちょっと疑問に思われる方もあろうかと思いますので、そのきっかけを紹介しておきたいと思います。
今も申しましたように、アメリカにおりました時に、私の先生であります坂井先生から手紙が来ました。梅棹館長は「コンピューター民族学部門」というのをつくっておかれたんですが、それの研究者を求めているというようなことでございまして、「おまえ、行かないか」というようなお誘いをいただいたわけであります。
私が日本にいたら、なかなか決心しにくかったんじゃないかと思います。工学部でそれなりにおもしろい分野にもおりましたから。しかし、アメリカの雰囲気というのは、大学、研究所、民間企業、などにあまり関係なく、みんなわぁわぁとやってるような、そういう雰囲気でありました。私もそういうところに籍を置いておりますと、人が異動するというようなことになんの抵抗もないような感じになってきまして、先生から言われまして、「それでは、私、帰ったら民博のほうへ行きます」というふうな返事を書いて、さっそく帰ってきてから手続を進めまして、しばらく併任、それから専任で民博のほうに着任したというようないきさつであります。今から考えてみますと、1つの転機であったかと思いますけれど、結果的には大変これは私にとってはいい選択肢であったなあと思って、坂井先生にも、それから梅棹先生にも大変感謝をしております。
もう1つ、間接的なきっかけというのは、京大の学生のころ、3,4回生のころですか、電気教室の中で、あるいは文学部の人も一緒やったと思いますけれど、ノバート・ウイナーの『サイバネティックス』というような本を読むような、そういう一種の集まりに参加をして、それを読んでおりました。この本は大変おもしろく、感銘を受けた本であります。我々工学部の者は、数学的なものとか、物理とか、そういうようなものはよく読むんですけれど、サイバネティックスという社会におけるモデルを考えるというようなものにはほとんど接しておりませんでしたので、これは大変おもしろかったわけであります。
それから、もう1つは、博士課程のころですけれど、ノアム・チョムスキーの影響がありました。今、チョムスキーは、反戦運動とかで大変有名にはなっておりますけれど、そのころは「句構造文法」、「変形文法」ということで、従来の文法ではない新しい文法を提唱したということで、大変有名でございました。このチョムスキーの初めての本は1957年に出てるんですけれど、まったく従来の文法とは違って、記号論理のような感じで、我々の分野から言いますとオートマトンに相当するような考え方なんでありますけれど、それを提案していました。
私は博士論文のところで機械翻訳をやっておりましたので、ちょうどこのチョムスキーの「句構造文法」というのが、まさに機械にとってもわかりやすい文法であり、有効な記述方法でありました。それと本人にも出会っております。博士課程の時にチョムスキーが日本へやってきたことがあるんです。東京の日生ホールでしたか、1週間ほど彼が講義をしたんです。私もそこへ行きまして、直接講義を受けたことがあります。それと後にMITにいる時に、彼はMITで講義をしておりましたので、そこへ行って聞いたりもしておりました。
そういうチョムスキーの考え方とか、あるいはサイバネティックスとか、こういうのを、アメリカなんかでは文科系、工学系という区別なしに、皆が集まってサロン的にディスカッションしていく、そういう雰囲気というものにも触れて、私は民族学というのはどんなものか知りませんでしたけれど、なんとなくおもしろい分野ではなかろうかなあと思いました。梅棹先生は、名前は知ってたんでありますけれど、『知的生産の技術』、あれは確か博士の終わりのころに出たんじゃないかと思いますが、それから電気工学教室で梅棹先生をお招きして、確か懇話会かなんかでお話をしていただいた記憶があります。その時に洗濯機の話をされた。たらいによる洗濯ですね、ああいう諸民族の洗濯の話とか、そういうのをまじえたお話をされたというのが記憶に残っておりまして、詳しい民族学云々ということは後で知ったわけですけれど、なにかおもしろそうだなあというふうなこともありました。それで、民博に行くことを決心をしたわけであります。
民博へやってきまして、梅棹先生は「コンピューター民族学」というのを創設の時につくっておかれたんですけど、果たしてそれが一体どういうことをねらっておられるのかということは、たぶん先生ご自身もあまり確たるものはなかったんじゃなかろうかという気がするんであります。しかし、先見の明のある梅棹先生が、その当時、今から30年ぐらい前にすでにコンピュータと民族学を結びつけた分野を考えておられたのです。当時、万博がここでありまして、その時にコンピューターのいろいろな新しい試みをしようと。坂井先生なんかも、人の顔を撮ってそれを分析するというようなことを1つのパビリオンでやられたことがありますが、コンピューターはまだ一般の人にはなじみのないものでありました。ましてや人文科学の分野でコンピューターというものを使おうというか、使い切れるようなことはなかったわけであります。そういう時期に、梅棹先生がコンピューターと民族学とをドッキングさせて、まさにコンピューター民族学というのをやるんだということをおっしゃいました。
その頃に、梅棹先生がなにかと機会があるたんびにおっしゃったのは、コンピューターというのは研究者にとっては、昔で言うと万年筆のようなもんなんだと。紙とペンで字を書く、論文を書くように、これからはコンピューターというものが万年筆がわりになるべきものだというふうな、そういうことをおっしゃっていました。
それから、もう1つ、これは文部省とかの人が聞いたらびっくりするんじゃないかと思いますけれど、従来は、これこれの仕事をするからこれだけのコンピューターをくださいというふうに概算要求なりをしていくんです。ところが、梅棹先生は発想が全然逆なんです。つまり、需要に応じたシステムを供給するのではなくて、大規模なシステムをぼーんと供給してみたら、今までなかったような潜在的な需要が出てくるんだと。人文系なんか、待ってたらいつまでたっても需要は出てくるわけはないんだと。ほっときゃ、そのままコンピューターなしでも事は済んでしまう。しかし、目の前にとてつもないコンピューターが来て、それがこんなおもしろいことができるということになれば、これは使わな損じゃないか。自分の研究もそれでうまくいくかもしれないと思う人が出てくるんじゃないかというような発想で、まず供給する。そうすると需要が生まれるという、まったく逆の発想を多くの人に説いておられたわけです。
そして、この民博ができる当初から、とにかく従来の研究所、特に人文系の研究所では、標本資料なり図書なり、そういうものをそろえるのは当たり前ですけれど、できるだけあらゆる問題にコンピューターを活用してやろうというふうなことで、率先してコンピューター化を進めてこられました。私は、それをできるだけ具体的にサポートするということで、今までやってまいりました。
民博での私の研究といいますか、大きく分けますと、先ほど石森さんからもご紹介していただきましたけれど、1つは、コンピューター民族学というもの。これが一体何かと。なんとかしてこれを姿形あるものにしたいということ。それから、もう1つは、比較文明学の研究というものにも少し足を踏み入れました。それから、最近ではデシタルアーカイブというような方面、これにもかなり関心があります。本日はこの3つの問題に絞ってお話をしてみたいと思います。
私は、コンピューター民族学というものに対して、4つの大きな役割があるのではないかと思っております。
1つは、人文系の研究者と、それからコンピューターとをつなぐ媒介者、インターフェイスだと。そういう役割が重要ではないかと思っておりまして、これにかなり力を注いできました。いろんな人が問題を抱えておる。その問題をどうしたらコンピューターで扱えるようになるか。これは、自分自身もその問題に興味を持たないとうまくできません。単なるコンピューターシステムだけでしたら、メーカーなり、そういうシステムをつくる会社に頼めば、それなりにシステムをやってくるでしょうけど、そうじゃなくて、やはり研究者と話をしながら新しいプログラムを開発し、データを入力し、そして加工する。そういうことをやるには、単なるハードウェアの専門家であってはうまく行かない。お互いにお酒も飲みながら、個人的な話をしながら、そしてこの人は何をしたいのかを聞いて、そしてそれをコンピューターに伝えていくというような、そういう媒介者としての役割、これが大変重要ではないかと思います。特に初期のころ、まだコンピューターがそれほど人文系になじみのないころには、こういう役割の人間というのが必要とされておりました。
最近、私もちょっと考え方が変わってきまして、もう今のように個人個人がパソコンなり、あるいはインターネットなり、そういうものでかなり人文系の人もコンピューターに慣れてきますと、そしてまたいろんな応用ソフトが身近にありますと、必ずしも媒介者というものを必要とせずに、各自がそれなりに自分の好きなような形をとれるかもしれませんけれども、かつての過渡期のところでは、こういう役割の人間が必要とされたんではないかと思います。
それから、マルチメディア・データベースということ。当初、マルチメディア・データベースという言葉がなかった時期に、民博では、いわゆる図書の書誌的データだけではなくて、博物館ですから標本資料がたくさんある、その標本資料の単なる名前だとか地域だとかじゃなくて、標本資料そのものの画像をコンピューターで検索できるようにしようということを始めました。それから民族音楽や言語、そういう音響ですね、そういうようなものを含めて、すべてをコンピューターで扱えるようにするということで、マルチメディアのデータベースというものをつくろうということで進んでまいりました。これは、大体今、基礎はできておりまして、すでに二百数十万件のデータが入っております。画像、音響も、かなりのデータがコンピューターの中に入っているという状態になってきております。
その次に重要なのは、この大量の、必ずしも大量じゃなかっても、研究者が持っている調査した結果、フィールドワークで得られた資料、こういうようなものを、ただ研究者がじっと眺めておっても、そこに潜んでる情報というのはなかなか表に出てこないわけでありますが、そこをコンピューターをうまく活用することによって、隠れている情報を表に出してくる。これは、一種、情報処理と言われる分野かもしれませんけど、単なる処理というよりは、情報を引き出すという、そちらのほうに重きを置いて、いかにデータを加工するかということ。これについてもいろいろとやってまいりました。
それからもう1つ、私がこのコンピューター民族学として人文社会の研究にとって新しいのは何かと考えた時に、工学部の世界ではモデル&シミュレーションというのはごく普通の手法なんでありまして、特に電気工学なんていうのは記号で回路なんかを書いて、そのシステムの振る舞いを解析するというのは当たり前になっておりますけれど、そういう手法を人文科学の分野にも応用すれば、もっとおもしろいことが明らかになってくるんじゃなかろうかというふうなことで、モデル&シミュレーションによる研究をなんとかものにしたいなと思っておりました。残念ながら、これに関しましては、まだ途中といいますか、十分な結果は出ておりません。
コンピューターと人文系との媒介ということが重要であるということを言いましたけれど、コンピューターを導入しますと、大きく2つの反応があります。まったくコンピューターにびっくりする人、「え、こんなことがコンピューターでできるのか」と言うて驚く人と、「なんや、たったこんなぐらいしかできへんのか。コンピューターってなんとばかなもんだ」というふうに反応する人があります。これ、どちらもそれなりに的を得た見方なんであります。
確かにコンピューターは、思いも寄らないようなところに能力を発揮することができます。しかしながら、またある面では、まったく人間がやったほうが速いといいますか、人間ならもっときめ細かいことができる。コンピューターにはできるけれど、どうもまどろっこしいというような面があるんじゃないか。我々からすれば、媒介者としては、そういう驚きの面ももっと強調しながら、しかし頼りないところをなんとか人間の能力に近づけていくようにしないかんのじゃないか。それが人工知能の研究者にとっての1つの役割でもあるわけですけれど、こういうことを私も随分、いろんな機会に経験をいたしました。
マルチメディアのデータベースについては、先ほども言いましたように、かなりの資料ができております。そこで、情報の加工とか情報の顕在化ということにつきまして、私もいろんな方と一緒に、これは私のプロジェクトじゃなくて、あるプロジェクト、テーマを持っておられるところに私が参加して、そのデータをよりよくわかるような形で表に出していく、そういう役割を引き受けるということをやりました。
「タイ語の三印法典のKWIC索引」というのがございました。これは、タイで書かれましたいろいろな慣習法だとか経済の問題を記述したようなデータとかがあるんです。もともと石井米雄先生がそういう問題を抱えておられまして、私が民博へ来た当初に、こんなことはコンピューターでできないんだろうかというお話を受けて、民博の田辺教授、タイの専門家ですが、そういう人たちと一緒にKWIC索引をつくろうということでありました。
タイ文字というのはちょっと変わった文字でして、英語のアルファベットではない、くねくねと曲がったような文字。しかも、それが上に載ったり下に付いたりとか、大変ややこしい構造をした文字なんですね。こういうようなものをコンピューターで扱うということ自体が、私にとっては初めての経験ですから、それ自体はおもしろいですし、それからこれを辞書の順に並べるのに、普通のアルファベットと違った複雑なアルゴリズムを必要とするような、そういうものでしたので、私としては大変やりがいのある問題でありました。また、石井先生にとってみたら、それでインデックスができると、世界の、そうたくさんの研究者はおられないそうでありますけれど、そういう人たちがこのインデックスを使うことによって研究が進むということで、双方ともに得るところがあったわけです。
このインデックスでは、製本しまして大体3メーター半ぐらいのものになりました。 140万ストロークの文字、それを使ってKWICインデックスをつくったんです。それを世界に約30コピーつくりまして、いろんな研究者の人に民博の事業としてお配りをしたという記憶もございます。
それから、その次には、「東南アジア・オセアニアの文化クラスター」ということで、大林太良先生、お亡くなりになりましたけれど、この方をヘッドとして、当時は民博の教官でありました秋道さんとかがマネージをしながら、東南アジア・オセアニアの 240の民族、それと横軸には 340の文化要素、これをとりまして、 240×340のマトリックスをつくりました。いろんな東南アジア・オセアニアの研究者が、フィールドからとってきた調査に基づきまして、そのマトリックスを埋めていくわけです。
つまり、この民族にはこの文化要素は現在ある、あるいは現在ない、過去にあった、過去になかったというふうに。そういうマトリックスができましたら、後はコンピューターの出番でありまして、それを数学で言うておりますクラスター分析、そういう手法がありますが、それを忠実にコンピューターで実現をいたしまして、東南アジアからオセアニアの民族を、どんなかたまりといいますか、どの民族とどの民族は近い関係にあるか、あるいはどの文化要素と文化要素が近い関係にあるかというふうなことを、コンピューターの力を借りて明らかに表示するという、そういうプロジェクトをやりました。
これは、コンピューターがやったことが正しいというんではなくて、コンピューターはデータに忠実に情報を引き出してきますので、もし変な結果が出てきたとしたら、そのデータがおかしいのかもしれない。あるいは、調査の方法がおかしかったのかもしれないということで、もう一度フィードバックして調査をやっていく。そういうきっかけといいますか反省するときの材料になります。何回か行き来することによって、より正確な情報が得られる。そういうためにもコンピューターの分析というのは役に立つのではないかと思います。
それから、縄文時代の人口シミュレーション。これは小山さん、昨年退官しましたけれど、彼が縄文時代のシミュレーションをやったり、それから『斐太後風土記』の問題とか、それから『東国與地勝覧』という韓国・朝鮮半島のいろんな産物を書いた本があるんですが、そのデータをコンピューターに入れまして、そしていろんな分布図をさっと出してくるとかをやっておりました。それから、モンゴロイドのプロジェクト、赤沢教授らいろいろな分野の研究者からなるのプロジェクトがありました。それからイスラームのプロジェクト、こういうものにも私は参画しまして、ランドサットの写真だとか、あるいはモンゴロイドの分布のコンピューター化だとか、そういうようなものもやりました。
それから、韓国の族譜のプロジェクト、これは嶋さんのかなり個人的な研究でありますけれど、韓国の族譜というのがありまして、これは家系ですね。それをコンピューターに入れまして、AさんとBさんがどこの先祖でまじわっているのかというふうなことをコンピューターで検索したり、あるいはグルーピングをやったり、それとお墓の関係を調べようとか、そういうことを嶋さんがやっておられたのを、私もお手伝いしてやりました。これも大変私にとっても初めての経験でおもしろかった問題であります。
モデル&シミュレーションにつきましては、いくつか考えたんですけど、なかなかうまく行きませんが、祇園祭とか家元制度を例にとりまして、それを要素と関係で記述して、そしてそれをいろいろ変形することによって祭の本質等が明らかにならないかなという、そんなこともやっています。それなりにおもしろいことにはなっております。
それから、次に比較文明学の話ですが、これは1980年に梅棹先生の還暦記念シンポがございまして、私も民博へ来てから4年目ぐらいでしたけれども、そのパネリストといいますか、発表者の一人にしていただきまして、「文明のシステム工学」というタイトルで話をいたしました。そこで私が提案したのは、文明というものを比較する尺度をつくろうということです。冗長度とか、人工度とか、適応度とか、速度とか、いくつかの尺度をつくりまして、それでいろんな社会の文明を比較したらおもしろいんじゃないかというふうなことでやりました。まだこれも具体的には比較のところまで行っておりませんけれど、現在は文化と文明の概念とか尺度の定義のところで、いくつか考えております。
それから、最近ではデジタルアーカイブということを関心を持っております。これは、ハイパー風土記といいまして、日本全国あちこち、市町村でその地域の特徴、産物、人物等々、これをコンピューターで風土記化するという、そういうプロジェクトに参加いたしまして、北海道から沖縄まで、いろんな地域の人たちと一緒につくりました。近畿ですと歴史街道プロジェクトというのがあるわけですが、そういうふうなものの一部であります。これをデジタルミュージアムというふうに最近は表現をする場合もありますが、世界遺産だとか、あるいは日常の生活用具、あるいは無形文化財等々、今消えていく、そういうようなものをなんとか記録として残していくことです。その時に、物として残すということも重要なわけで、それに越したことはないんですけれど、なかなか実物を残すということは難しい場合がある。せめてそれは情報で残していくといいんじゃなかろうかということで、デジタルアーカイブというものに関心を持っております。
また、民博と日本IBMのプロジェクトとして洪さんらと一緒にやったのが、グローバル・デジタルミュージアム。デジタルミュージアムがあちこちに地球規模でできてきますと、それをネットワークでつなぐことによって、バーチャルなミュージアムができるんじゃないかというような発想で、非常に基本的な部分の実験をやりました。世界のあちこちに分散する博物館なりが、ネットワークを通じて、あたかも巨大な1つの博物館があるかのごとくに機能する、そういうものが今後できてくるんじゃないかと思います。
さて、そろそろ時間もなくなってまいりました。定年後、どうするのかということをお話ししておかねばなりません。坂井先生が龍谷大学の理工学部というのを瀬田のほうに立ち上げられました。もう十数年前だと思います。そこに今年の4月から情報メディア学科というのと、それから環境ソリューションというんですか、その2つの学科ができることになりました。私は、この情報メディア学科に勤めて、学生の指導と、それから研究活動に専念するということを考えております。
それから、もう1つ、京阪奈の学研都市に国際高等研究所というのがございます。最近、その近くに国会図書館の関西館ができました。歩いて10分ぐらいのところにあるんですが、この高等研究所は大分前にできておりますが、そこにフェローという資格というのがございまして、それを私、1年間いただきまして、高等研究所の中にオフィスをいただいて、共同研究をやったりできるようになっております。ここは、時間的には大変自由なわけで、いつ行ってもよろしいし、何をやらないかんというオブリゲーションは特にありません。もちろん給料はいただきませんけれど、そこの施設等を使い、そこでいろんな人を集めて共同研究等をやるということができるようになっております。
それから、もう1つ、まだ私も元気でありますので、多少なりボランティアとかでちょっと変わった活動なんかもやってみたらどうかと思っております。
今後、まだやり残したことがいっぱいありますけれど、今当面のこととして考えておりますのは、せっかくこういう民族学、あるいは人文社会学の分野に二十数年身を置いていて、いろんな研究者とお会いして話をお聞きしたわけでありますから、もうちょっと人文社会学研究に我々が貢献できるといいますか、新しい手法等を導入してなにかおもしろいことができないかな考えております。ちょっと違った目で、本来その分野の人じゃない者からして、ちょっと端から見たらおもしろいことが見えてくるかも知れないと思っています。サイバネティックスだとか、それにひってきするものの見方を入れてみたらどうかなというふうに考えております。
それから、今、情報社会と言われていながら、情報に追われているような人、あるいは情報に振り回されているというような人がありまして、もっとしっかりと情報社会の成熟に向けて、そのリテラシーといいますか、情報に使われるんじゃなくて、情報を積極的に使うんだということ、そういうことを学生にも伝えていきたいなと思っております。それから今の大学がちょっと変な方向に行っておかしくなりつつありますので、教養教育をもう一度しっかりとやるようにしたいと考えています。私自身も、自分の教養というのは頼りないものでありますので、自分も教養を身につけながら、また学生にも教養というものをしっかりと身につけるように、せっかく大学へも行くことですから、そういう機会も持てたらと考えております。
それからもう1つ、これは情報技術誌の博物館の設立。これはアーカイブの延長線でありますけれど、情報技術、物、装置、そういうようなものはソフトもハードも消えていく。これをなんとかちゃんと歴史といいますか、ちゃんと次に継承していく仕掛けがいるんではなかろうかと考えています。そういう意味で、情報技術誌博物館の設立。「し」は歴史の「史」じゃなくて、「誌」を書きましたけれど、物語としてそういうようなものが継承されるように、場外での活動をやっていきたいなと思っております。
短い時間でございましたけれども、私がこの約26年半、民博に来て、工学部からこういう民族学のほうに入ってきて何をやってきかということの一端をお話させていただきました。どうもご静聴ありがとうございました。