国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

「政治的アイデンティティ」とは何か?-解放運動としての先住民運動

共同研究 代表者 太田好信

研究プロジェクト一覧

目的

本共同研究の目的は、グローバル化とともに広がる「アイデンティティの政治化」という現象を、文化人類学者とその隣接領域の研究者たちによる学際的検討をとおして解明することである。とくに、現在、アイデンティティが政治化する現象を理解するには、アイデンティティをある集団の所与とせず、植民地統治、そして脱植民地化後の新国家形成過程などからつくりだされ、その後は国家内制度の変容を迫る力をもつ-すなわち、解放運動-という視点が有効になるだろう。政治(国家制度)によりつくられ、国家に働きかける、という意味で、それは「政治的」であり、集団が共有する文化、言語や伝統がつくりだす「文化的アイデンティティ」や市場の歴史がつくりだす(階級などの)「経済的アイデンティティ」と区別することができる。アフリカなどの植民地統治の歴史や虐殺、さらにはアパルトヘイトや人種差別との解放運動の歴史から、世界各地の先住民運動を理解するための新たな視点を構築する。

研究成果

研究会の最大の成果は、アイデンティティと政治との関係を再考できたことである。冷戦構造後の世界では、アイデンティティの暴走が民族や部族紛争、ならびにエスニシティの対立を生んだとされてきた。現代社会において、アイデンティティは政治を混乱させ、民主的手法による秩序維持を困難にする元凶とされてきた。たとえば、先住民運動も、集団的権利を要求し、そのような混乱要因であるといわれた。

本研究会では、民主国家内でのアイデンティティを政治変革の促進材料として肯定的に論じることは可能だろうかという疑問に答えようとした。最終的には、先住民運動を解放運動として再評価できるかどうかを問おうとした。より理論的なレベルでは、アイデンティティを政治の前提ではなく、その効果として再考するために、政治的アイデンティティという概念を提示した。アイデンティティの主張は、民主政治がいまだに不完全であることを示す指針であり、けっして民主政治内の病巣ではないということである。

しかし、そのような結論にいたるまで、いくつかのハードルも存在した。たとえば、共同研究会に参加した文化人類学者にとり、政治的アイデンティティを文化的アイデンティティから区別するのは、しばしば反直観的であったようである。また、アイデンティティを固定化する力を肯定的に捉えることへの反発も強かった。リベラリズムの発想が、自然化しているからかもしれない。

また、政治学や国際関係論の領域でも、政治行動を文化的要因から説明しようとする傾向―すなわち、文化を政治化する「文化的語り口」―も顕著であった。課題として浮上したのは、文化を忘却せずに、いかにして「文化的語り口」から距離をとるかということである。

それらのハードルを越え、参加者がこれまで前提にしていたアイデンティティと政治との関係を再考した結果、新しい分析への道が開けたと確信している。

2010年度

各研究員は2010年3月末をめどに、各自が担当する章の執筆を行っている。これを踏まえ、2010年4月から7月の間に2度に渡り、各自が草稿を事前に回覧し、それぞれのコメントを持ち寄り、最終稿を作成するという計画である。昭和堂編集者からは、すでに詳細な「論文執筆にあたり留意すべき形式」についての指示が配布されている。2010年8月下旬をめどに脱稿。その後は、3度の校正、そして出版という日程になる。2010年内(あるいは2011年初頭)の出版を予想している。

【館内研究員】 池谷和信、太田心平、内藤直樹
【館外研究員】 岡崎彰、黒木雅子、狐崎知己、小林致広、清水昭俊、鈴木慎一郎、武内進一、出利葉浩司、山本純一
研究会
2010年7月17日(土)10:00~19:00(国立民族学博物館 第1演習室)
出版社である昭和堂の編集者をまじえ、太田好信、武内進一、清水昭俊、黒木雅子、出利葉浩司、他の論文を合評する。
2010年10月30日(土)10:00~19:00(国立民族学博物館 第1演習室)
成果発表刊行にむけた合評会―池谷和信、岡崎彰、慶田勝彦、太田心平の論文を中心に、前回の共同研究会以後、改稿した出利葉浩司らの論文と合わせて、検討する。
研究成果

文化によって政治行動を説明しようとする傾向は、冷戦構造後の世界では自然化してしまった。もはや世界の紛争はイデオロギー対立ではなく、文化により自らのアイデンティティを拘束された集団が武力に訴えるというナショナリズムや民族の衝突、場所によっては、部族対立が起きているという理解の広がりである。M・マムダニは、このような傾向を、「文化的語り口」と呼んでいたが、それとは異なる説明が、政治的アイデンティティという考え方である。この考えは、政治と(文化により形成される)アイデンティティとの関係を否定しないまま、文化的語りに回収されない分析視点の獲得へと向かう。結果的には、文化は政治化されることがあるが、それはどのような状況においてなのかを問うことになる。共同研究会では、各共同研究員はいま述べた概念に関し、その有効性を認めつつも、同時に地域限定性も指摘し、精緻化に貢献した。

2009年度

平成19年度から20年度には、理論的枠組みの説明(太田)、東アフリカでの政治的アイデンティティの形成に関する分析(慶田)、先住民運動の国際法的根拠に関する分析(清水)、スーダンにおける「民族紛争」と民族アイデンティティの関係(岡崎)、セネガルの多言語主義政策と現状の報告(砂野)、南アフリカの先住民運動の現在(池谷)、ラテンアメリカの先住民運動の動向(小林)、博物館展示と先住民アイデンティティ(出利葉)の研究報告と総合討議をおこなった。

本年度は、当共同研究会の最終年度にあたるが、ラテンアメリカ、北米などの先住民運動とクラス闘争(再分配)や移民のエスニシティ覚醒などの諸運動(承認)との差異と類似を、リベラル民主制国家との関係において問い直し、成果発表の準備をおこなう。

【館内研究員】 池谷和信、太田心平、内藤直樹
【館外研究員】 岡崎彰、黒木雅子、慶田勝彦、狐崎知己、小林致広、清水昭俊、鈴木慎一郎、砂野幸稔、武内進一、出利葉浩司、山本純一
研究会
2009年4月25日(土)14:00~19:00(国立民族学博物館 第4演習室)
岡崎彰「ダルフール紛争をめぐって――マムダニの新刊を読む」
2009年6月13日(土)14:00~19:00(国立民族学博物館 第3演習室)
2009年6月14日(日)9:30~12:00(国立民族学博物館 第3演習室)
(1)鈴木慎一郎(関西学院大学)「政治的アイデンティティとディアスポラ」(仮題)
(2)太田心平(国立民族学博物館)「先住民言説のない国で――政治的アイデンティティとしての世代」
2009年6月27日(土)14:00~19:00(国立民族学博物館 第4演習室)
2009年6月28日(日)9:30~12:00(国立民族学博物館 第4演習室)
(1)狐崎知己(専修大学)「政治的アイデンティティに関する政治経済学的考察――理論研究と中米・アンデス地域の事例」
(2)内藤直樹(国立民族学博物館)「たたかいの後をどう生きるか――2007年ケニア国会議員選挙時における政治的アイデンティティの構築と解体」(仮題)
2009年7月20日(月・祝)10:00~16:00(国立民族学博物館 第4演習室)
(1)総合討議「政治的アイデンティティの概念化」(成果発表にむけての総括)
研究成果

本年度は、政治的アイデンティティという概念が再解釈を通して、どのような射程を持ちうるか、その概念の限界を含めた検討を目指した。まず、マムダニの近著『生存者と救済者』(2009)の議論を俎上にのせ、紛争が人種化されて語られる状況を批判的に再考した。政治的アイデンティティは、政治とアイデンティティの二語が連結するため、了解済みという印象を与えるものの、実際はそうではなく権力により民族や人種という集団が固定化され、それがあたかも自立した存在であるかのように誤認される状況を理解した。このような結論は、狐崎、内藤らの報告でも言及されている。太田心平と鈴木は、政治的アイデンティティという概念をディアスポラと世代という考え方に拡張できないか模索している。太田好信は、ふたたび政治的アイデンティティの理論的有効性を、これまでの一連の発表と関連づけならが、論じた。

2008年度

平成19年度は、第1回共同研究会では理論的枠組みの説明(太田)をおこなった。

同年度第2回共同研究では、東アフリカでの政治的アイデンティティの形成に関する分析(慶田)と先住民運動の国際法的根拠に関する分析(清水)をおこなった。

平成20年度は4回にわたり、世界の各地域での歴史・民族誌的状況からアイデンティティがいかに制度化され、そしてその制度化を打破するように、今度は社会運動が形成される様態を理解する。

結果として、「アイデンティティの政治」の限界と可能性、エスニシティと人種を文化と生物学に対比させる対立の限界、脱植民地後の慣習法と民法(civil law)の矛盾、器物の所有と返還、などが議論されよう(太田好信、黒木、狐崎、岡崎、池谷、鈴木、出利葉、砂野らが中心)。

【館内研究員】 池谷和信、太田心平
【館外研究員】 岡崎彰、黒木雅子、慶田勝彦、狐崎知己、小林致広、清水昭俊、鈴木慎一郎、砂野幸稔、武内進一、出利葉浩司、山本純一
研究会
2008年4月27日(土)13:30~19:00(国立民族学博物館 第4演習室)
2008年4月28日(日)9:00~12:00(国立民族学博物館 第4演習室)
(1)砂野幸稔「ジョーラ人は先住民か?――カザマンス・アイデンティティをめぐって」
(2)小林致広「アメリカ大陸先住民運動の新たな展開 -先住民族サミットにおける「抵抗から権力へ」というスローガンをめぐって-」
2008年6月28日(土)14:00~19:00(札幌市・厚別区・北海道開拓記念館)
2008年6月29日(日)9:30~11:45(札幌市・厚別区・北海道開拓記念館)
(1)池谷和信(国立民族学博物館)「アフリカ南部の先住民運動の展開について」
(2)岡崎彰(一橋大学)『ニュー・スーダン』と『自己決定』」
(3)出利葉浩司(北海道開拓記念館)「博物館の歴史展示において『政治性』はどのように展示されるか」
2009年2月21日(土)14:00~19:00(国立民族学博物館 第1演習室)
2009年2月22日(日)9:30~12:00(国立民族学博物館 第1演習室)
武内進一「ルワンダのジェノサイド―その要因をめぐって」
黒木雅子「アジア系フェミニスト神学における『はざま』のアイデンティティ」
太田好信「政治的アイデンティティとしての先住民」
研究成果

本年度は、ルワンダ、南部アフリカ、スーダンなどの諸地域において部族アイデンティティが形成される歴史的過程、さらには中米と北米では文化的アイデンティティが政治的に機能する状況を包括的に検討した。また、アイデンティティが論争の焦点となる展示に関する理論的検討も行った。平成20年度末は、本共同研究会開催期間の中間地点にあたるため、その方向性を再度確認する意味を込め、第3回目には政治的アイデンティティに関する理論的背景を振り返り、これまで報告されてきた民族誌ならびに歴史的事例を考えなおす契機とした。アイデンティティを政治と結びつけて考えることは、社会運動の是非を構築主義か、あるいは本種主義かという篩にかける評価とは異なる分析の可能性を示すことを確認した。

2007年度

平成19年10月から平成20年3月まで3回の共同研究会において、おもに政治学の領域で展開してきた「政治的アイデンティティ」-「文化的アイデンティティ」や「経済的アイデンティティ」とは異なる概念-をめぐる議論を概観する。人類学者には馴染みの薄い概念かもしれないが、おもにアフリカでの歴史や民族誌資料を土台にして、政治学における構築主義的発想を理解する。

【館内研究員】 池谷和信
【館外研究員】 岡崎彰、黒木雅子、慶田勝彦、狐崎知己、小林致広、清水昭俊、鈴木慎一郎、砂野幸稔、武内進一、出利葉浩司、山本純一
研究会
2007年11月17日(土)14:00~19:00(国立民族学博物館 第1演習室)
2007年11月18日(日)9:00~12:00(国立民族学博物館 第1演習室)
太田好信「「政治的アイデンティティ」という考え方」
総合討論
2008年2月2日(土)14:00~19:00(国立民族学博物館 第4演習室)
2008年2月3日(日)9:00~12:00(国立民族学博物館 第4演習室)
慶田勝彦「ケニア海岸地方における政治的アイデンティティ」
清水昭俊「国連先住民権利宣言と国際法の背景」
研究成果

太田は「政治的アイデンティティ」というおもに政治学の領域で論じられてきた考え方を説明し、文化による説明が困難となる状況――とくに、暴力、紛争、虐殺など――での視点の転換が必要であることを示した。また、清水は先住民運動を可能にするひとつの文書として国連の先住民権利宣言の編纂を詳細に追う発表をおこなった。先住民は、まさに暴力、紛争、虐殺などの対象とされてきた歴史をもち、そのような歴史が公式文書にどのように刻印されているかが明らかになった。慶田は、ケニアの大統領選挙の結果をめぐり勃発した暴動を説明するときに、「民族対立」――ルオ対ギクユ――という理解図式が有効ではなく、両者を「政治的アイデンティティ」とみなすことを提唱した。共同研究会開始から半年しか経過していないが、民族、部族など、植民地時代に構築された歴史をもつ概念に代わり「政治的アイデンティティ」がより有効な概念であることが、すでに明らかになりつつある。