国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

高齢者の威信と社会的ポジションに関する人類学的研究(2006-2008)

科学研究費補助金による研究プロジェクト|特別研究員奨励費 代表者 福井栄二郎

研究プロジェクト一覧

目的・内容

本研究は、人類学でこれまで正面から扱われてこなかった、高齢者の威信と社会的なポジションに関する研究であり具体的には次のような問題点を扱う。
1.研究の前提として、どのような人間が「老人」として位置づけられるのかを検討する。
2.個別社会で求められている「老人」の社会的役割と、実際に生起している老人をめぐる問題を把握する。
3.(2)で明らかになった問題が、どのような要因によるものなのかを考察する。
4.伝統的知識を持たず伝統的な場でリーダーシップを発揮できない老人が、他のどの場面で「生きがい」を見出しているのかを分析する。
これらの問題点から、社会変容のなかで老人が新たに獲得する威信や社会的ポジションに関する学際的な視座を構築する。また調査は、近代化の偏差が著しいオセアニア地域に焦点を絞ることで、より効率よく上述の問題点を考察することができると考えられる。

活動内容

◆ 2008年10月より島根大学へ転出

2008年度実施計画

最終年である本年度(平成21年度)は、高齢者と社会福祉の問題に焦点を当てて研究を遂行する。
現在、日本における社会福祉において、大原則となっているのが個人の尊重、および自己決定権の尊重である。もちろん背景には、ロックやミル以降、ロールズ、ノージック、セン、ドゥウォーキンと脈々と受け継がれる法哲学の議論があり、「自由」「平等」観をキーワードにして、個人の「自由」をどこまで認めるのか、そして(福祉)国家が富やリスクをどのように再分配すべきかが問われている。
実際、日本における介護保険制度でも、(少なくとも理念的には)利用者の当事者性が一番に尊重されたうえでサービスが提供されている。しかし、高齢者にとって「自己決定」とは何を指すのだろうか。追い衰えていく高齢者、あるいは重度知的障害者に「自己決定」を「健常者」と同様に要求することは、彼ら/彼女らにとってどのような意味を持つのだろうか。
一方で、メラネシアにおける「人間」観にも焦点を当てる。M.ストラザーンの議論にもみられるように、メラネシアにおける「人間」とは西洋的な「個人(individual)」ではない。こうした議論を踏まえながら、ヴァヌアツで高齢者のケアがどのように行われ、そこにメラネシア的な人間観が繁栄されているのかを考察する。 「自由」「平等」だけでなく、「自己決定」「自助努力」「自己責任」など、高齢者をめぐる社会福祉のキーワードの背後には、常に、離接的な「自己」がある。本年度は、以下の計画に沿って、高齢者問題からこの「自己」の今日的な意義を再考する。
1.社会福祉の分野における「自立支援」「自助努力」などのキーワードの背景に、いかにして「自己」観が立ち現われてくるのか。
2.(1)はそのような歴史的背景があるのか。高齢者援助論を学説史的に把握する。
3.メラネシアにおける「人間」観とはいかなるものか。M.ストラザーンやM.レーナルトの議論を中心に再考する。
4.(3)の議論が、実際にどこまで有効なのか。ヴァヌアツの高齢者介護の現状を把握する。
5.これらの議論を踏まえ、高齢者福祉における政策提言まで視野に入れつつ、「自己」概念に関する包括的な議論を展開する。
また、(1)に関しては、特別養護老人ホームなど、日本における高齢者介護の現場において調査を行う。(4)に関しては、ヴァヌアツ・アネイチュム島、およびポートヴィラでの調査を行う。

2007年度活動報告

平成19年度は、国外だけでなく日本国内での調査も遂行し、高齢者における社会的ポジションや生きがいに関する知見を広げた。とくに19年9月から20年にかけて、国土交通省などが主体で実施した「平成19年度国土施策創発調査・健康長寿社会の実現に向けた地域滞在型観光等の推進方策に関する調査」にオブザーバーとして参加し、沖縄・宮古島でのモニターツアーに帯同した。そこで明らかになったのは、高齢者が観光において求めているものであり、観光に参加することの意義である。高齢者の娯楽は、彼ら/彼女らにとっての生きがいであり、仲間とのつながりを補強し、確認する重要な機会となっている。そう考えれば、「癒し」や「休息」を求める若年層の観光に対する意義と異なっており、超高齢社会における高齢者観光の意味をもっと詳細に検討する必要があるだろう。
また昨年度行ったヴァヌアツでの調査をもとに、「老いる」ことの意味について、理論的に検討した。人類学では現在、「社会構築主義」が親和性の高い分析概念として定着している。そこでは「老人らしさ」の実践が「老人」というリアリティを再構築しているというのであるが、ヴァヌアツでの調査で明らかになったのは、「老人らしさ」はすでに実践されていないにもかかわらず、「老人」は確固たるリアリティを持っているという現実であった。そこから明らかなのは、「老人になる」ということは「老人らしさ」の実践なのではなくて、ただ「歳を重ねる」ことのみに拠っているということである。つまり構築主義的に捉えるならば「歳を取る」という行為の実践なのである。ただ「歳を取る」ことが特徴的なのは、そこに選択性が排除されている「宿命的な行為」だという点である。そこでわれわれは、こうした「宿命的行為」も種々の行為のひとつとして認める必要があるし、高齢者を考えるうえで重要な概念であることを主張した。