国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

西アフリカにおける生権力の複数性――ガーナ南部における結核対策を事例に(2013-2014)

科学研究費補助金による研究プロジェクト|研究活動スタート支援 代表者 浜田明範

研究プロジェクト一覧

目的・内容

今日、西アフリカで暮らす人々の多くは、ヘルスセンターや病院、薬剤の日常的な利用を通して生物医療と関わっている。人間の生病死に関わる生物医療とそれをめぐる状況への注目は、人々の生活における重要度に加え、科学技術の普及やグローバル化の影響の格好の事例となるという点からも、人類学的研究の有効な出発点を提供してくれる。
本研究の目的は、ガーナ南部における結核対策プロジェクトの展開に注目することにより、生物医療が(1)どのように異なる立場の人々の行為を統制しながら全体的な目標を達成しようとしているのか、(2)どのようなモノ・行為・制度の配置によって人々の自己統治を促しているのか、(3)どのように「生かすべき者」と「死ぬに任せる者」を結果的に選別しているのか、の三点について明らかにすることである。

活動内容

2014年度活動報告

本研究の最終年度にあたる2014年度は、当初の計画通り、ガーナ南部の農村地帯において現地調査を実施した。具体的な成果として、以下の3点が明らかになった。
まず、結核治療においては、毎日欠かさず、決まった時間に薬剤を服用することが求められるが、ガーナにおいては、必ずしも国際的に標準化されているように看護師の面前で薬剤が服用されているわけではない。これは、看護師の怠慢というよりは人員不足のためである。このような、標準的な治療の失敗の結果、患者はむしろ主体的に薬剤を服用する必要性に駆られており、配布される服薬チェックシートは患者の主体化を支える重要なツールとなっている。
次に、結核患者を取り巻く人間関係の再編成は、部分的には、乳幼児との接触を避けるように促す結核対策の影響と言えなくもないが、それにもまして、患者の経済状況や患者の家族によるより良い生の希求に影響されていることが明らかになった。長期の治療を必要とする結核は、貧困と負のスパイラルを起こすことが多く、治療の成否は経済状況と密接に関連する。そのため、患者がどのような規模の家族の中でどのような役割を担っているのかが治療にとって重要になるのだが、この家族の状況は、患者自身だけでなく、他の家族の希望によっても変更され続けていた。
最後に、ガーナにおける結核対策における「生かすべき者」と「死ぬに任せる者」の選別は、結果的に、担当看護師の本気度や柔軟さ、経験に依存していることが明らかになった。結核対策を担当するコミュニティ・ヘルス・ナースには、患者を早期発見するためにコミュニティを巡回することが推奨されているが、その他の感染症対策や乳幼児健診も担当する看護師達には十分な時間が与えられていない。そのため、結核患者へのケアの質は、個々の看護師の性格や経験に依存することになっている。

2013年度活動報告

初年度となる2013年度は、当初の予定通り、ガーナ南部の農村地帯における結核対策プログラムに関する文字資料の収集・分析と現地調査を実施した。具体的な成果として、(1)当該地域の結核対策プログラムは患者の発見に力を入れていること、(2)看護師に対する働きかけが焦点化していること、の二点が明らかになった。
ガーナにおける結核に関する文字資料は、結核のみに焦点を当てたものよりも感染症対策という枠組みの中でHIV/AIDSやマラリアなどと共に包括的に議論しているものが多い。それらを含め、現地やネットを通じて収集した文字資料を分析した結果、結核対策に関しては投薬管理などの患者に対する統治は一定の水準を満たしているとされ、結核に感染していながら患者と診断されていない人をより多く発見するための対策に重点が置かれていることがわかった。
現地調査を実施した農村地帯においては、患者の発見は看護師への働きかけを通じて強化することが目指されていた。看護師たちは、外来を訪れた、咳を頻繁にしている患者に塗抹検査を指示したうえで、その結果にかかわらず登録し、リストを作成している。その上で、そのリストに基づいて家庭訪問という形で村落内部を歩き回りながら、結核やその他の病気が疑われる患者を発見することが求められていた。
このように、当該地域の結核対策プロジェクトでは、投薬管理のような患者に対する統治よりは看護師に対する統治が重視されている。しかし、このことはガーナ政府が主張しているように患者への投薬管理がすでに十分にうまくいっていることを意味しない。現地調査では、患者に対する投薬管理に対する看護師の遠慮のようなものを感じる場面が多々あり、薬剤の服用が定められた通りなされているかどうかは必ずしも確認されていないからである。