国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

客員研究員の紹介

オラディン・エルデン・ボラグさん
Uradyn Erden Bulag

紹介者:島村一平(研究機関研究員)
反骨のモンゴル人研究者
反骨の人

オラディン・エルデン・ボラグ氏は、反骨の人である。

1964 年、彼は中国内モンゴル自治区オルドスで、モンゴル族の牧民の子供として生を受けた。オルドスは黄河の大湾曲に囲まれた地域である。この地は、北を除いた東西南が漢民族の居住地帯によって囲まれている。しかも漢族の移住がすすんだ現在、オルドス自体の人口の90パーセントは漢族によって占められている。実際、ボラグ氏も小学校のときから漢族の子供たちに囲まれて漢語で教育を受けてきたという。「オルドス」とは、モンゴル語で「宮殿」を意味する。漢族に包囲されたなかで、彼らが祭祀を続けてきたチンギスハーンの霊廟「八白宮」に由来する地名である。ボラグ氏の反骨精神は、この生地の地理的・文化的状況と深く関係があるといえよう。

こうした状況に加えて、彼は幼少の頃、病気で左の耳の聴力を失うというハンディキャップを背負っていた。しかし、努力家の彼は、高校入試(高中全盟通考)において、盟(日本の県に相当)で1位の成績での入学を果たした。ところが高校に入学してまもなく、今度は右の聴力をも失ってしまう。そして自主退学。高校を中退した彼は警備員の仕事についた。一時は自暴自棄になったというが、ひとりの女性についての報道が彼を奮い立たせた。彼女は、難病が原因で5 歳のときから全身麻痺でありながら、大学に進学して作家になったのだという。

両親の尽力もあって、1年後に右の聴力が回復すると、ボラグ氏は独学で英語を学びはじめた。そして、逆に同級生よりも1年早く大学受験に成功した。入学したのは内蒙古師範大学の英語科である。大学を卒業すると、故郷で英語教員として2年働いた。 1989 年、通訳として働いていた彼にイギリス留学のチャンスが訪れる。半年間の研究生を経て、ケンブリッジ大学大学院修士課程、つづいて博士課程へとすすんだ。そして、内陸アジア研究で著名な人類学者キャロライン・ハンフリー教授の指導の下、1993 年に博士号を取得したのである。現在、ボラグ氏は、ニューヨーク市立大学ハンター・カレッジの準教授。妻とのあいだに3歳の愛娘がいる。

モンゴル・ナショナリズム批判

1990 年、彼は博士論文執筆にあたって、調査地として社会主義が崩壊してまもない新生「モンゴル国」を選んだ。いわゆる「モンゴル民族」は歴史的な諸事情から、現在ロシア連邦、モンゴル国、中国の3カ国に分断されて居住している。「モンゴル国」は、彼と同じ民族であるモンゴル人がもつ唯一の独立国であり、彼にとっては憧れの地であった。ところが、モンゴル国の人々は、ボラグ氏を同じ民族の人として歓迎するどころか、「中国人とのあいのこ(erliiz )」として遇した。モンゴル国に居住するモンゴル人、とくにそのマジョリティであるハルハ人にとって、中国内モンゴル自治区のモンゴル人は「モンゴル人」ではなかったのである。

の研究は、モンゴル国において使われる「モンゴル人」という概念をいかに相対化するか、という方向に向かっていった。本来、モンゴル世界においてハルハ人とその居住地域である外モンゴル(現在のモンゴル国)は、周縁の一集団であった。ボラグ氏の研究は、モンゴル国が独立国家を形成する過程において、ハルハの言語や文化によって「モンゴル性」というものを構築し、多様なモンゴル文化を排除してきたことを明らかにした。この成果であるNationalism and Hybridity inMongolia (Oxford 、1998 )こそは、モンゴル研究における、ナショナリズムや民族アイデンティティの形成に関する研究の嚆矢といえよう。

ハイブリッドの役割

やがてボラグ氏の批判の矛先は、自身の出身地たる内モンゴル自治区の成立の過程へと向かう。彼の2 冊目の著作、The Mongolsat China 's Edge (Roman &Littlefield ,2002 )において、彼は中華人民共和国という国家が建設されていく過程で、国家としての「モンゴル」から排除された内モンゴルが、中国の「民族団結」というスローガンの下、中国へ呑み込まれていくメカニズムを論じている。

彼の研究の特徴は、ネイティヴ人類学者でありながら、自身の所属する国家(中国)や民族(モンゴル)に対して批判的に研究しているところにある。彼自身、まさに双方の「あいのこ」=ハイブリッド的な存在であるからこそ、できる芸当であるといえよう。

モンゴル語には、「腕が折れても袖の中に(gar khugarsan ch khanchundaan )」という言い回しがある。弱みや秘密を耐え隠すことの美徳を説いた慣用句である。彼はそれをあえて否定する。「腕が骨折したなら、医者に見せるべきでしょう。良薬苦口リャンヤオクーコウ。それが私の仕事です」凛としてそう語った。

オラディン・エルデン・ボラグ
  • オラディン・エルデン・ボラグ
  • Uradyn Erden Bulag
  • 1964 年生まれ。
  • ニューヨーク市立大学ハンター・カレッジ準教授。
  • 2004 年7 月から2005 年6 月まで国立民族学博物館外国人研究員(客員)助教授。
  • 研究テーマは、経済開発政策による民族社会の変容。
『民博通信』第108号(p.28)より転載