国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

客員研究員の紹介

ジョン・マンディンさん
Djon Mundine

紹介者:松山利夫(民族社会研究部)
アボリジナル美術はアボリジナルが論評を

ジョン・マンディンさんは、オーストラリアの東海岸、ニューサウスウェールズ州北部に暮らすアボリジナルの一言語グループ、バンジャランの人です。現在はクイーンズランド美術館先住民部門の主席学芸員であると同時に、シドニーにある「現代美術館」の先住民アドバイザーもつとめています。彼が生まれた頃、オーストラリアはアボリジナルに対して、厳しい同化政策をとっていました。そのためジョンさんは、社会的なハンディのなかで勉学をつづけねばならなかったのです。

アボリジナル美術との出会い

ジョンさんがアボリジナル美術と直接かかわるようになったのは、1970 年代の末からでした。政府系の会社、アボリジナル・アート・クラフト社から「アボリジナル・アート・アドヴァイザー」として、大陸北部のアーネムランドにあるアボリジナル・コミュニティ、ラマンギニングに赴任してからです。いま民族学博物館が収蔵するアボリジナル・アートの初期のものは、本館名誉教授の小山修三さんがジョンと相談のうえ収集したものです。彼と民博とのおつきあいは、もう30 年をこえたことになります。

その間に彼は、オーストラリアはもちろんドイツ、アメリカ、ブラジル、キューバ、台湾など、海外でのアボリジナル美術展を数多く企画してきました。1992 年に東京と京都の国立近代美術館で開催された「アボリジニの美術ー伝承と創造 オーストラリア大地の夢」展には、ゲストスピーカーとして来日しました。アボリジナル・アートを世界規模で認知させようとするそうした彼の一連の努力によって、ジョンさんは1995 年オーストラリア勲章を授与されました。しかし、当時のアボリジナル美術のすべては、オーストラリア国内においても、まだヨーロッパ人の手にゆだねられていました。彼らはヨーロッパ美術界がもつ視点によりかかってアボリジナル美術展を企画し、アボリジナル美術を論評していたのです。

アートを自分たちの手に取りもどす

それが大きく展開するのは、多数のアボリジナル・キュレーターが美術館、博物館に進出しはじめた1990 年代末から2000 年にかけてのことでした。いま、ブリスベンを活動の本拠とするジョンさんは、この都市につくられたアボリジナル芸術家グループ「ブーマリ」の大切なアドバイザーでもあります。そのメンバーは多くが美術学校で訓練を受けた作家からなり、写真や版画だけでなくコンピューターなど多様な媒体を駆使しつつ、被植民地の歴史を告発する政治的メッセージの強い作品を制作しています。そうした作家にとって、ジョンさんがアボリジナルとして彼らの作品を論評することは、仮にそれが否定的な要素を含んだとしても、必要なこととなっています。

民博では、ジョンさんが長年あたためてきたアボリジナル美術の歴史的展開とその意味について論文を執筆するとともに、その一部を共同研究会で報告してもらい、討議を重ねています。さらにいくつかの大学からのアボリジナル美術に関するさまざまな要請にも応じ、講演会などをこなしてくれています。

抑圧の記憶

最後に、ジョンさんを紹介するにあたっては、欠かせないことを述べておきましょう。1988 年オーストラリアは植民200 周年を国家規模で祝いました。日本では「建国200 年祭」として紹介されたものです。しかし、その200年はアボリジナルにとって悲惨な歴史を意味するだけでした。彼らはこれに抵抗し、強く反対しました。ジョンさんはそのひとりとして、アーネムランドのアボリジナルによびかけ、「200本の棺」というオブジェを制作しました。植民地支配のもとにあって不当な死を遂げた多数のアボリジナルがいた事実を、それは告発したのです。このオブジェは、いま、キャンベラの国立美術館のエントランスを飾っています。

ジョン・マンディン
  • ジョン・マンディン
  • Djon Mundine
  • 1951年生まれ。
  • クイーンズランド美術館先住民部門主席学芸員。
  • 2005年7月から国立民族学博物館外国人研究員(客員)教授。
  • 研究テーマは、「アボリジナル美術の史的展開」。
『民博通信』第112号(p.28)より転載