国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

客員研究員の紹介

劉明基さん
ユ・ミョンギ

紹介者:朝倉敏夫(民族社会研究部)
文化人類学は文化を体得する学問

劉明基さんは、文化人類学者は人間文化を理解するため文化を「研究」するのではなく、文化を「体得」するのだと考えている。その劉さんの文化人類学において、ふたつの出会いがあったという。ひとつは兵役中におけるある兵士との出会いであり、もうひとつが嶋陸奥彦教授との出会いだ。。

はじめの出会いは、ソウル大学校文理大学で専攻を考古学から文化人類学に変える契機となった1972~74年の軍隊生活であった。部隊長が日課の後に3名の文盲兵士に文字を教えるよう劉さんに指示した。3名すべて農村出身。そのうちの1 人は文字を読めないだけで、物を作ることや、スポーツにも秀でており、世事についての知識も多かった。彼はすぐに劉さんを助け、他の2 人に文字を教える助手の役目をするようになった。この文盲兵士を見守りながら、人間は環境によって多様な姿で成長し形成されることを知り、人間の暮らしに莫大な影響を与える社会制度や文化の力についての興味をもちはじめた。そして、その経験は、劉さんの文化人類学研究の関心が社会的少数者に向けられる契機のひとつにもなったという。

除隊し、学校に戻って、文化人類学を勉強したいと文化人類学の教授に申し出ると、ちょうど韓国に現地調査にきていた日本人の学生を紹介してくれた。それが嶋教授だった。嶋さんは当時カナダのトロント大学の博士課程の学生として博士論文資料収集のため韓国に来て現地調査を一緒にする助手を捜していた。それがふたつめの出会いだった。

それからソウル大の大学院に入学するまで1年半の間、劉さんは嶋さんといっしょに韓国湖南地域の一農村で現地調査をした。それまで、文化人類学についての理論的知識をほとんどもっていなかったため、現地調査をとおしてはじめて文化人類学がなにかを習いはじめた。あわせて、日本人研究者と湖南社会という文化人類学的「他者」を認識し理解する経験を初めてもった。植民地支配者としての日本人のイメージが相変わらず色こく残っている70年代の韓国社会の雰囲気で日本人研究者の助手として現地に入っていくのは容易ならざる決断だった。また、湖南社会は嶺南地域出身である劉さんにとって、またひとつの他者であった。湖南(全羅道)と嶺南(慶尚道)は互いが「伝統的」な地域感情を土台とするライバルであった。今も地域感情が相当に残っているが、当時の朴正熙政権下では政治的目的で助長されより強化されている状況だった。この長期フィールドワークを通して、劉さんは、日本人であれ湖南人であれ、社会的・文化的に形成された「他者」がどのようにその実像を歪曲・定型化し伝達されるかを知るようになり、自身の体験を通して「他者」を理解する文化人類学的作業の重要性を覚るようになったという。

その後、1984年から88年にかけてアメリカのミシガン州立大学博士課程で学び、その後、慶北大学校に復職してからは、韓国社会の少数者、特に90年代以後、新たに登場した外国人労働者に関心をもった。大邱地域のスリランカ、フィリピン、中国朝鮮族労働者が仕事場で適応していく過程を現地調査し、彼らの適応過程と問題点についての比較研究を行ない、その延長線で外国人労働者の問題を韓国社会の民族主義、少数者問題と関連して見るようになった。さらに、韓国に滞留中の中国朝鮮族労働者に対する調査から始まった研究は、中国の朝鮮族の研究に展開した。最近の関心事は中国朝鮮族の都市化現象である。1990年初半から吹き始めた「韓国パラム(風)」に触発され、北京、上海、青島など都市地域への移住人口が急増し、朝鮮族社会の再構造化が進行している。この研究のため2005年から北京の朝鮮族・韓国人密集地域である朝陽区望京地域において現地調査を進めている。

今回、民博では、この北京地域で調査した中国朝鮮族の都市化現象に関する資料整理・分析と、日本に滞留中の朝鮮族移住者についての現地調査が主な目的である。在日朝鮮族の移住と生活現象を朝鮮族社会の都市化過程の中で眺望する一方、都市化と海外進出の経験の中で新たに生成される彼らのアイデンティティが東北アジア地域の人口移動と地域統合にもつ意味を明らかにしようというのが研究のテーマだ。

劉明基
  • 劉明基 ユ・ミョンギ
  • 慶北大学校人文大学考古人類学科教授。
  • 2006年10月から国立民族学博物館外国人研究員(客員)教授。
  • 研究テーマは、日本における朝鮮族の人類学的研究。
『民博通信』第117号(p.28)より転載