石毛直道館長・栗田靖之教授・杉田繁治教授 退官記念講演会
2002年3月19日開催
栗田靖之教授 退官記念講演会
ブータン研究を振り返って 栗田靖之
ただいまは押川センター長、中牧部長から過分のお褒めの言葉をいただきまして、有り難うございました。
私は先輩からこんなことを聞かされておりました。それは、どんな男でも一生のうちに2回は褒めてもらえる。1回目は結婚式の披露宴で、2回目はお通夜だということでした。私はもうお通夜の晩まで褒めてもらえることはないとあきらめていましたが、今日このような過分なお褒めの言葉をいただきまして、たいへん感激している次第です。
今日は最終講演ということですので、今までの私とブータンとのかかわりをお話させていただきたいと思います。
ブータンという国と私が縁を持ちましたのは、1970年、この万博公園で行われました万国博覧会のとき以来です。その時ブータンは、青いケシの花や人物の写真を4枚出展しましたので、万博参加国ということになりました。それで、ブータン政府は万博協会から招待されて、万博に代表団を送ってきました。万博協会は、その接待役を京都大学山岳部に依頼してきました。そのとき私は、京都大学の大学院生でしたが、費用をもらってブータンの要人を接待しました。
そのことを評価していただき、その年、ブータンへ来るようにという招待状をもらいました。ブータンは、1959年中尾佐助先生が行かれて以来、普通の人にはなかなか行けない国だということを知っていましたし、京都大学はそれまでに2度ほど学術調査隊を送っていたこともあり、美しいヒマラヤの山やまが見えるならと喜んでブータンに行くことにしました。まずインドに行き、ブータン政府から招待状をもらったのでブータンに行かせてほしいとインド外務省に申請しました。当時インドの北方国境には、インナーラインというものがありました。それは国境から50キロぐらいの地域は、特別の許可のある者しか入域できないというものです。とくに外国人がその地域に入ることは大変困難でした。そのインナーライン通過の許可を得るために、妻と私はカルカッタとニューデリーで、1カ月半ぐらいウロウロしていました。
ある日、カルカッタのホテルにおりますと、突然ブータンの政府要人がやってきて、「明日ブータンへ行こう」と言い出しました。どういうことでインナーライン通過許可が出たのか、私には未だに分かりません。カルカッタにとめ置かれた間に、ブータン政府がインド外務省にかけ合ってくれたのかも知れません。とにかくブータンに行くことができました。
1970年当時のブータンには、ホテルはありませんし外国人を泊める満足な施設もありませんでした。当時のブータン陸軍は、将校は全部インド人だったのですが、妻と私には、そのインド人将校用のバンガローが用意されていて、そこに泊まっていました。こういう例えがよいかどうかわかりませんが、当時のブータンでの体験は、幕末の日本に来た外国人のようでした。それとともに、これはいまでも不思議なのですが、到着してすぐに私のインナーライン許可書をブータン政府が紛失してしまいました。インド政府にインナーライン許可書の再発行を申請する間、二人はブータンに滞在するようにと言われました。私は、あれはどうも政治的に失ってくれたのではないかと思っています。インド政府が発行したオリジナルのインナーライン許可書には、ブータンでの滞在は2週間と書いてあったのですが、再発行されるまでの1カ月ぐらいをブータンで滞在できるように取り計らってくれたのだと思います。それで私たちは、ブータンに滞在していろいろなところを旅行しました。
困ったのは、当時のブータンにはレストランもホテルもありませんから、思うように食事ができないことです。友人が招待してくれるときにはまともな夕食が食べられるのですが、それ以外のときには食事に困りました。京大山岳部が用意してくれた非常食の袋がありました。その中にはインスタントラーメンとサラミソーセージが入っていましたので、毎日そればかり食べていました。私はその1カ月の間に多分一生分のサラミソーセージを食べたのではないかと思います。
そのときにお世話になったのが、ブータン農業の大恩人である西岡京治さんです。パロの西岡さんの家に行くと、ちゃんとしたごはんを食べさせて頂きました。私は西岡さんに一宿一飯の恩義があり、いまだに西岡夫人には頭が上がらないのです。
それから33年がたちましたが、それ以来二十数回はブータンへ行っていると思います。「ブータンは変わりましたか」ということをよく聞かれますが、変わった部分もあるし変わっていない部分もあります。
これは現在のウォンデポダンにあるゾンと呼ばれる城です。前に植え込みがありまして、ブータンの国旗も掲げられています。祈祷旗も写っています。大変きれいに整備されています。
これが33年前のワォンディポダンです。右側にいるのが私です。ゾンそのものは基本的に変わっていません。33年前の私は髪の毛が黒々しており、かなり痩せていました。もう一人の人物は、私たちをガイドしてくれたツェリン・ドルジさんです。このようにして、1970年から私はブータンに行っていたわけですが、今日は、私のブータン旅行の中でもとくに印象に残った旅をご紹介したいと思います。
これは、1981年10月に参りました日本ブータン友好協会の親善旅行の写真です。1981年、今までブータンと関係を持った人たちが日本とブータンの友好関係を促進する目的で「日本ブータン友好協会」をつくりました。会長は京都大学の桑原武夫先生です。その第1回の親善旅行が行われました。そのときのメンバーは、初代会長の桑原武夫先生、南極越冬隊の隊長であった西堀栄三郎先生、1959年、日本人として初めてブータンを訪問され、そのときの観察結果から照葉樹林文化論を提唱された中尾佐助先生、前民博館長の佐々木高明先生、1970年に京都大学から派遣されましたブータン学術調査隊の隊長で現在名古屋大学学長の松尾稔先生、東京大学経済学部を退官された玉野井先生などでした。この旅は今から考えますと、大変なVIPの旅でした。
このときの一番の収穫は、中尾佐助先生と佐々木高明先生から照葉樹林文化論の話を直接聞かせていただいたことです。そのときに私が感じましたのは、あの照葉樹林文化論の後継者になるには、大変な植物学および栽培植物の知識がいる。私にはとても務まらないというのがそのときの率直な印象でした。そこで私としては、照葉樹林文化論から離れブータン研究の分野を開拓しようと考えました。
この旅は、ブータンに着いた翌日から国賓待遇となりました。それは桑原先生とブータンのケサン・ワンチュク皇太后陛下は、古くからのお知り合いだったからです。翌日からはわれわれ一行には、親衛隊隊長が運転する先導車が付きました。桑原先生と奥様が一台の乗用車に乗られました。すると佐々木高明先生が、「偉い人の車にはお付きというのがいる。君が乗れ」といわれたので、私はずっと助手席に乗っていました。ほかの人たちは、そのうしろをマイクロバスに乗って続くわけです。
もう一つ私にとって忘れられない旅は、1985年の京都大学山岳部が組織したマサゴン学術調査登山隊です。私はその隊の副隊長を勤めました。登はんそのものは若い人たちがやりましたが、私は4,900メートルをちょっと超えたベースキャンプで、指揮をとっていました。しかし登山行動に関しては、私が下から細かい指揮など出来ません。
マサゴン峰は 7,200メートルの山です。どうしてこの山に決まったかといいますと、首都ティンプーの近くにドチュラという3,000メートルを超える峠があります。1980年そのドチュラのベンチに桑原先生と西堀先生が座って、「目の前に見える山は何というのや」と聞かれました。「マサゴンです」と答えますと、「えらい鼻が高いな」といわれました。鼻が高いというのは山の姿がいいという意味です。「あれは未踏峰か」と聞かれたので、「そうです」と答えますと、「京都大学山岳部があの山に登ったらどうか」と言われました。お二人とも京大山岳部の大先輩ですので、「考えておきます」と答えました。その後、紆余曲折があったのですが、1985年にこの山に挑戦をしました。
ヒマラヤの樹林の中をキャラバンしてベースキャンプに行くのですが、私にとって大変貴重な経験でした。ヒルがいっぱいおり、それには泣かされました。森の中を通っていく旅は、高地のブータン人の生活を知る大変よい機会でした。
マサゴンの頂上へは、若い人たちが大変苦労して登りました。このあたりのブータンとチベットの国境には、奇妙な形をした岩峰があります。当然だれも登ったことはないでしょう。こういう形をした岩峰を見て、ブータンの人々は、「実はあそこに偉い坊さんが住んでいて・・・」という話をします。冬にはマイナス40度にもなるこの地方に、お坊さんが住めるはずはないのです。しかしブータン人の信仰心としは、こんなところには偉い僧侶がきっといるに違いないと思うのです。ブータン人の宗教心からすると、こういうところには偉い坊さんが住んでいてほしいという願望があるということがつくづく分かりました。
この旅で私が知ったのは、高地のブータン人の生活です。それまで私が知っていたのは、パロとかティンプーの 2,400から 2,700メートルぐらいのところにある稲作を中心とした生活でした。稲作は 2,700メートルぐらいで終ります。多分それが世界で一番標高の高いところで栽培されている稲だと思います。それよりも高い標高での生活は、その時までは知りませんでした。そこで見たのが、ウシの牧畜生活です。
あるところで、かなりの数のウシを飼育している光景を見ました。牧畜生活では、多くの家畜を持つほど豊かな生活になると思われがちですが、1家族や1グループでもつウシの数を増やすと、手間ばかりかかり、決して効率のよいことではありません。これだけのウシをみて私は驚きました。よく聞いてみると、さすがにこれは個人のウシではなく、王家のウシだということでした。
ブータンの牧畜生活では、夏になるとウシやヤクを標高の高い所に追い上げます。そのような場所を夏営地といいます。その夏営地の牧畜民の小屋に泊まりました。そこでは朝からヤクの乳を絞って、ミルクからバターとチーズをつくります。ブータンのチーズはヨーロッパのチーズと違っています。ヨーロッパのチーズは子ウシの第二胃から取り出したレンネットを加えて発酵させています。しかしブータンのチーズは、バターを取ったあとのホエーを煮詰め、それを乾燥させます。できあがったチーズは、固くて、ちょうど甘味のないキャラメルのようなものです。そういうものを夏の間につくって、町で売るのです。
夏小屋での寝心地は、よいものではありませんでした。というのは、ヤクの群れをコントロールするために、子供のヤクをこの夏小屋の近くの囲いの中に入れておきます。そうすると、母親のヤクは乳が張ってきて子供のヤクのところへ来るため、うまく群れをコントロールできるのです。しかし子供は囲いに入れてありますから出てきません。そこで母親のヤクが子供に出ておいでと鳴くのです。しかし囲いからでられないので、夜中に母と子供が鳴き続けるわけです。
この夏営地には、ラヤ村の女性が来てバターづくりをしていました。ラヤ村のとくに女性は、低地のブータン人と違って非常にチベット色の濃い服装をしています。
われわれの調査登山隊は、肉用にヤクを1頭買いました。その屠畜のやり方は、引き倒したヤクの胃の上の部分の皮を切り、そこに手を入れて心臓を握りつぶすというものです。民博に帰ってこの写真をモンゴルを専門にしている小長谷有紀教授に見せました。彼女はモンゴルでの儀式用でない通常のヒツジの殺し方と同じことをヤクでやっていると教えてくれました。そういうことを考えますと、民博というところは、1枚の写真を持って帰りますと、いろんな地域の人たちの点検を受けられる、非常にすばらしい情報の宝庫だということに気つきました。
ブータンには、ターキンという動物もいます。顔がシカで体がウシというブータンでも1,500頭ぐらいしかいない大変な珍獣です。ターキンは冬の間は低地でバラバラに暮らしていますが、夏になるといっせいに標高の高い所まで登って行きます。そしてある温泉のようなところに集まります。そこには地面に塩が吹き出ていて、それをなめ、そこで交尾し、また谷を下ってくるという習性があります。NHKがこのターキンを番組で紹介したので、ちょっとした人気になっています。
一方、私は低地にも旅をしました。ブータンの低地は、1980年ごろからネパール系の人たちが非常に多くなりました。あまりにもネパール系の人びとが多くなり、ネパールの人々もブータンの文化を守るべきだと言われるようになりました。そのために国王は、1989年に「ブータンの官僚は、民族衣裳を着ること」すなわち男性は民族衣装のゴーを、女性はキラを着るようにという命令を出したわけです。
インドとブータンとの国境について見ると、私は国境というのは、いかめしいものと思っていましたが、大きな石が1キロメートルごとに並べてあるだけでした。その石には、真ん中に線があってBhutanとIndiaと書いてあります。ブータンの官僚に聞くと、インドとブータンの間の国境は 800キロメートルもあるそうです。このような長い国境はとても警備できないと言っていました。実際かなりの人が、国境を越えて行ったり来たりしていました。
私はゲレフーという、中央南部へ行きましたが、そのあたりの標高は 236メートルです。ヒンドスタン平原がずっと北に延びてきて、それが山となってせり上がるすそ野にあるのがゲレフーです。この236メートルのゲレフーから北のヒマラヤは標高が7,200メートルですから、約 150キロの間に 7,000メートルの勾配があるということになります。
この町を歩く人たちは、ほとんどがネパール系の人たちです。1989年の国王の民族衣装を着用せよという命令以来、このネパール系の人たちとブータン政府との間にある種の紛争状態が起こっています。
私がブータンでフィールドワークをしていて大変興味をもったのは、トランスヒューマンス(transhumance)という問題です。トランスヒューマンスというのは、ヨーロッパでは夏には標高の高いところにウシなどの家畜を追い上げ、冬になると低地におりてくるという生業の形態です。
ブータンの農民は、標高の高い高地に夏畑をつくっており、低地では冬畑をつくっています。最初私はブータンでは農民が夏畑、冬畑のためにトランスヒューマンスするのかと驚きました。すなわち農業の目的だけでトランスヒューマンスを行っているのではないかと思ったわけです。しかしよく観察すると、ブータンでトランスヒューマンスを行っている一番大きな要因は、やはりウシだと思います。ガンティゲンバというところでは、秋になるとそこにいたウシをもっと暖かい所へ下げます。そのあとにヤクがおりて来るのです。結局、ブータンではウシを利用した有畜農業を基本的な生業形態としてもっており、夏畑、冬畑を耕作しながら農業に利用するウシのためにトランスヒューマンスを行っていると考えられます。すなわち農業と牧畜が重ね合わされた形で存在しているという大変興味のある問題だと思っていますが、まだ私は十分調べていませんので、これからも機会をつくって、この問題を考えていきたいと思います。
ブータンでは、なぜかミタン牛に大変人気があります。ミタン牛は、謎のウシと言われています。インドネシアからインドとミャンマーの国境地帯のパトカイ山脈、ヒマラヤ南山麓のアルナチャル・プラデーシュ、そしてブータンまでの山の中に飼育されています。ブータン人はこのウシはすばらしいと言います。道路でミタン牛を見かけると、ちょうどわれわれが、「あ、キャデラックが来た」というような感覚で、「あ、ミタン牛がいる」と言います。なにがよいのかと聞きますと、ヒルに大変強いので林間放牧に耐え、非常に脂肪分が多いミルクを出すからだというのです。ミルクをたくさん出すのかというと、あまり出さないと言います。これらの地方では、このミタン牛がこんなにまで珍重されていて、"Celemonial Ox"という単行本も刊行されています。 理由はよく分かりませんが、ブータンでは、ミタン牛に対して、本当に高い価値を与えて珍重しています。
トランスヒューマンスのときには、イヌも連れて行きます。先ほども言いましたように、牧畜生活では1家族が飼育できる家畜の数は限られていて、あまりたくさんの家畜を飼育しますと投下労働力と収益性のバランスが合わなくなり、経済性が大変悪くなります。とくにヒツジの場合、イヌを使うかどうかによって牧畜の経済性が変わってきますが、しかしブータンでは、ウシやヤクの牧畜にイヌを使うことはありません。ブータンのイヌは牧畜のために飼われているのではなくて、ほとんど番犬です。そのため随分獰猛な顔をしています。
1990年に石毛直道館長とブータンに行きました。そのときは、ブータンのソバに関する調査でした。ブータンにソバがあると聞いて、日本人の旅行者でブータンまでそばつゆを持っていった人がいます。しかしブータンのソバは大変苦いのです。ソバにはアマソバとダッタンソバという2種あります。ブータンのソバは基本的に苦いダッタンソバです。
そのときに、石毛館長はあるコックにブータン料理を全部つくってほしいと頼みました。コックはそのとき手に入る材料を用いていろいろな料理を作ってくれました。その中には、いろいろなご飯がありました。客人を歓迎するときに出すサフランの入った黄色いご飯、通常に食する赤米のご飯、白米のご飯などです。ソバは麺にするだけではなく、クレープのように焼いたものもあります。これをクレといいます。またモモという餃子もあります。代表的なおかずは、ブタの脂身をトウガラシと煮込んだものです。キュウリとトウガラシのサラダもあります。
ブータンではソバを食べますが、この文化には箸がありません。このことは石毛館長に言われて初めて気がついたのですが、めん類を食べながら箸がないというのは大変珍しいと思います。彼らは指を使って器用にめん類を食べます。ソバの作り方は、ソバ粉を練り上げて、プタシンという押し出し麺をつくる器具で麺を作ります。麺を軽く茹で、それにあつく熱したカラシナの油とスクランブルした卵をいれます。それにトウガラシを加えます。あっさりした日本のソバからは、想像もつかないようなソバになります。
私は1993年からは、ブータン国立博物館の改修計画に携わりました。これは私の古くからの友人が内務大臣を勤めていて、その大臣から手紙がきました。ブータン国立博物館はどうも魅力がない。一度ブータンに来て、国立博物館を魅力あるものにする手伝いをしてほしいと言われました。そこで私はブータンに出かけて行きました。
ブータンの博物館は、パロという町にあります。パロはブータンの第2の町で、飛行機がバンコックあるいはニューデリーから到着するのがこの町です。そのパロの中心にパロゾンという城があります。このパロゾンを見下ろす場所にタゾンというパロゾンの見張りのための出城があります。この見張りの砦が1986年から博物館に改造されました。
入り口の橋を渡ると、博物館の4階部分に入ります。展示を改修するということなので、博物館の関係者といろいろな話をしました。博物館創設当時は、博物館が観客にどのようなストーリーを与えるとかをほとんど議論することなく展示場をつくったようです。すなわち王様のコレクションを博物館が受け取って、それを展示したようです。インドやパキスタンでは、マハラジャや王様は小銃のコレクションをしています。ブータンでも国王の小銃のコレクションが博物館に引き渡されました。その結果、膨大な数の小銃が展示されていました。中には日本の三八銃もありました。外国から来た人は、なぜブータンの博物館に外国製の小銃のコレクションがあるのかと大変いぶかりました。 私は、博物館にはストーリーが必要で、そのストーリーに従って展示をしないと見ている方は大混乱すると助言しました。まずはじめにブータンの博物館にストーリーを与える作業をしました。このプロジェクトは93年から始まりましたが、このために7回ほどブータンに行きました。
最近は、ブータンでも外国で勉強をした若者が育ってきていますので、そのような人たちも交えて博物館関係者とブータンの何を見せたいのかということを相談しました。その結果、外国人や若い世代に対して、ブータンとはどんな国なのかを見せたいという結論が出ました。私は最近見つかった考古学的な遺物を展示して「ブータンの夜明け」展を行い、その後に「ブータンの古代」展を、それから「ブータンの中世」展を特別展として行い、その成果を常設展に取り入れて行こうと提案しました。皆がそれはよいアイデアだと賛成してくれました。
展示替えを行うために、博物館の設計図を出してほしいと頼みました。するとこの建物には設計図はないと言います。なぜかと尋ねると、ブータンの伝統的な建築物は大工の頭の中に設計図があって、それぞれの大工はその場その場で寸法合わせをして建物をつくる。だから、最初から仕上がりの形がわかるような建築ではないと言われて、大変驚きました。何回目かに、民博の田上映像音響係長と行きましたときに、やはり一番最初に図面が要るということで、二人で図面づくりを始めました。おもに田上さんがその作業をやってくれました。それで明らかになったのは、このタゾンの博物館は複雑な形をしていることです。橋をわたって4階に入り、5階を見て、6階へ行きます。 そして3階へ降りて、あとは2階、1階、そして地階から出ていくという構造でした。それぞれの階高は全部違っていました。このようにして出来上がった図面は、それ以降、ブータン国立博物館の基本図面として今でも使われているということです。ブータンでは田上さんは大変感謝されています。
古い展示の中には、東ブータンに居るブロックパという少数民族の人形が展示されていました。この人たちの帽子には、5本の垂れのようなものがあります。雨が降ってきたらここを伝って雨が落ちるというものです。それから、彼らは獣の皮で出来た首のところだけくり抜いた形の貫頭衣を着ています。しかしその人形は、なんの説明もなく展示されていたので、見た人は訳が分からずギョッとしてしまします。もしこの人形に、ブータンの少数民族であるという解説をつけると、来館者は大変興味を持って見てくれるだろうと助言しました。
かつて展示品の中には、「ウマが産んだ卵」というものがありました。ウマが産んだ卵であるという言い伝えがあり、大変珍しいから博物館に展示しているというのです。かなり長い間展示されていましたが、さすがに問題があると考えたのか、今では収蔵庫にしまわれています。先ほど言いましたように、チベットとの国境にある岩峰を見て、あそこにはきっと偉いお坊さんがいるのだと言い出す精神構造と、昔からウマが卵を産んだという言い伝えがあるのだから、それを博物館に飾ろうという考え方はつながったものだと思います。非常に素朴な優しい精神だと私は思っています。
また最近発見された石器が展示されています。展示される前に、石器が出たから一度見てほしいと言われ、私はそれを見に行きました。その石器と同じ時に出てきたのが、鉄製の輪と土器です。どういう状態で出てきたのかを聞きますと、サムチ県のある村には、地下宮殿と呼ばれる場所があるというのです。そこでは村人がお祭りのときに、こんな楽器がほしい、こんな道具が欲しいとお祈りしたら、その地下宮殿の中にそれがちゃんと置かれているというのです。村人は、それを持ち出して使い、あくる日に戻しておいくといいます。
私はこの話を聞いて、この村には非常に古い墓があって、それを盗掘したのだと思いました。盗掘したというのは恥ずかしいので、われわれが願いをかけると、地下宮殿の中にそういうものが現れたということになったのだと思いました。
これらの石器の写真を撮って日本に帰りました。ちょうど雲南省博物館の李昆声館長が客員教授として民博に来ておられました。また、これもまたちょうど文化無償援助のことで日本に来ておられたブータン国立博物館のミナ・チュック館長を引き合わせました。李館長は、石器の写真を見て、これは4000年前のチベットのロカ村で発見されたのと同じ形式の石器であるといわれました。二人はいろいろと情報交換をされました。このようにして4000年前からブータンにこういう石器があることが明らかになりました。
ブータンでは、本格的に考古学の発掘が行われていません。しかしこのような石器がいろいろなところから見つかっています。ブータンのバザールでは、いろんな古い道具と一緒に、これに類した石器を売っています。おもしろかったのは、こういう石器は、どうして見つかるのかとミナ・チュック館長に聞くと、雷が落ちたときに木が倒れて、その下から出てくるというのです。李昆声館長はチベットでも同じように言われているというのです。それを聞いて、石器を巡ってもチベットとブータンの間に強い結びつきがあることを感じました。
ブータンのプナカでは、プナカドムチェという祭りがあります。16世紀にシャブドゥン・ガワンナムギェルがブータンの地方勢力を統一して、ブータンを一つにしたと言われています。シャブドゥン・ガワンナムギェルがブータン全土をを統一するときに、4人の将軍を各地に送りました。そのときの様子をお祭りとして毎年、再現しています。
この祭りの前半では、宗教儀礼があり、僧侶たちが戦争に勝つことを祈願します。宗教儀礼を行っている背後には、大きなトンドルという宗教画が掛かっていて、シャブドゥン・ガワンナムギェルが描かれています。
私は、このようにブータン国立博物館に対する日本からの文化無償援助を手伝いましたが、その過程で感じたことがあります。現在ブータンに対しては、日本が一番の援助国となっています。最初私はフィールドワーカーとしてブータンに入りましたが、このような援助を手伝っているうちに、私はブータン側から日本からの援助をもたらすサンタクロースと見られるようになりました。栗田に頼むといろんなものを援助してくれる、あるいは技術習得のための留学を紹介してくれると見られるようになったのです。これはやはりフィールドワーカーとしては、ある意味において失敗ではなかったかと反省しています。
それからもう一つ、私はブータンは貧しい国であって、豊かな日本が発展途上国に対して援助を与えることは、当然だと思っていました。私は「日本人の贈答」という贈答研究から民博での研究生活を開始しましたが、そのときに分かったことがあります。それはわれわれが無限に援助を与えると、与える側と受け取る側の間には、地位の勾配ができるということでした。やがてその勾配は、抜きがたいものとなります。お返しの出来ない贈答関係が続くと、そのことで逆に恨みを買うことになります。日本の国際援助においても、与え続けることによって地位の勾配が生じて、日本はブータン人から気前のいい国であるが、煙たい国として映らないかと心配しています。日本がそのような国にならないためにも、私たちはブータンからお返しを受け取る必要があるということを強く感じました。
それは親子関係でも起こることだと思います。親は子供に無限に与えるものと思われていますが、ときには親も子供からお返しを受け取らないと、子供は親を決して対等になれない相手として見ることとなり、親に対して無限の負い目を持って、愛と憎しみの対象として親を見ることになると思います。
そういう意味で、私はブータンという国から、あるいは発展途上国から、われわれはその国が差し出すものを受け取る必要があると考えるようになりました。それが日本の援助で相手国の息を詰まらせないための一つの代償行為ではないかと考えています。ブータンは非常に豊かな文化を持っています。日本はブータンから豊かな文化を受け取るという姿勢を示す必要があると思っています。
最後に、「ブータンは今後どうなって行くのか」とよく聞かれます。私もそのことには大変興味があります。昨年、ブータン人でケンツェ・ノルブというお坊さんが、『ザ・カップ』という映画をつくりました。その中におもしろい話が出てきました。ある男が夢を見ています。その夢の中に大変怖い魔物が出てきました。男はあまり怖くなったので、その魔物に「これから私は、どうなるんでしょう」と聞きました。すると、魔物は「そんなことは知るものか。お前の見た夢ではないか」と答えたという話です。
冷たい話だと思われるかもしれませんが、私はこの話には、仏教のもつ非常に深い知恵が潜んでいると思います。たしかに、教えて伝わることもあるのですが、最後の瞬間は自らが悟れということをさとした言葉だと思います。
私も民博で長い間勉強させていただきましたが、これからは知識だけではなく、だんだんと悟る人間に成長していきたいと思っております。
民博で27年間にわたりましてご指導を受けました先輩、同僚に深くお礼を申しあげまして、私の最終講演とさせていただきます。
ありがとうございました。