国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

小山修三教授・森田恒之教授 退官記念講演会

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2002年3月27日開催

森田恒之教授 退官記念講演会

ある博物館屋の半生 森田恒之

講演風景  森田でございます。きょうは「ある博物館屋の半生」という題で、私が今まで何をやってきたかというようなことを少しお話をさせていただこうと思います。

 今、ご紹介にもありましたように、私はいろんなものに手を出してきたおかげで「おまえは一体なにをやっているんだ」と言われるのが一番困ります。私以上に困るのは家内でして、「おたくの旦那さんなにやってるの」ときかれても、「さあ、よくわかりません」としか言いようがないそうです。かなり手広いことをやってきたのは確かですが、軸は博物館ということにこだわり続けました。その中で何がどこまでできるのかを試みつづけてきたというのが本音かもしれません。やってみたけどできなかったということもかなりあります。それはそれで、不可能を証明できたということに一つの実験としての価値があったのかなと自己満足をしている部分もあるのですが。

高校時代に将来をきめる
 きょうはなるべく自分を離してしゃべろうと思います。私が博物館屋になろうということを考え始めたのは割合と早い話でして、高等学校2年生でした。あとのことも考えないでともかく決めちゃったんです。きっかけは学校の帰りにいつものように本屋で立ち読みをしながら、適当に雑誌をぱらぱらとやっていたらば、どこかの雑誌に博物館の学芸員になるにはどうしたらいいかという小さい記事を見つけました。これはあとになって気がついたことですが、この時期に博物館法の一部改正があり、さらに学芸員制度が整備されて大学での必要科目履修で資格取得が実際に可能になったときでした。それまでは文部省の講習と国家試験だけだったんですが、そういう改正を含めた解説記事だったと思います。

 この記事を見てはじめて、学芸員という博物館の専門職があり、しかも国家資格を伴うものだということを知って、それだったらおれもなろうという気になったわけです。それ以前から博物館というものに興味は大ありでしたし、下地がないわけではありませんでした。中学校2年生のときにたまたま赴任してきた美術の先生が土曜日の午後にしばしば絵の好きな生徒を美術館とか展覧会を連れ歩いてくれました。今どきこんなことやっていたらば先生は首になるかもしれませんね。場所が東京の23区内だったという地の利もありますが、ほんとうによく連れていってくれました。

 これにやみつきになって、秋の運動会が終わるころからは、土曜日の午後はときには1人になってでも展覧会歩きをやるというのがくせになりました。この時期は完全に美術館に興味が向いていました。私の祖父が絵描きだったので、博物館とか美術館の方がときどき家に多少出入りしていたことも無縁ではないのですが、やはりこの先生の影響で火がついてしまったというのが本当だったと思います。

 大学を選ぶ段階で、博物館屋になるにはどうしたらいいかを、高等学校の先生に相談したら、そんなことだったら大学で美術史で専攻するんだねと言われました。受験雑誌などを見ていましたらば、中に美術の理論と実技を一緒に教えるのが東京芸大の芸術学科だという。これはいい、博物館屋になるにはものをつくれる人間の友だちが大勢近くにいる方が絶対に得だ、というのが私の判断でした。文学部へ行くよりはこの方がいいと信じて、入学試験を受けたら、入れてもらえました。

芸大の保存修復専攻一期生
 入った途端に先生たちからどえらくばかにされました。新入生の面接で、なぜこの学科へ入ったかを改めて質問され、「僕は博物館で働きたいんです」と言ったらば、居並ぶ教授たちから「博物館屋なんていうのは大学教授になり損ねたやつがなる商売で、最初から博物館屋になりたいなんていうやつは初めてだ」。(笑)多分当時はそういう風潮だったんだと思います。そういう風潮の中で、ともかく私は前代未聞の学生としてスタートしました。

 でも目的があっただけ少しはまじめな学生だったんです。1年か1年半勉強しているうちに、美学とか美術史という勉強がいやになってきました。なぜかというと、この世界は感性を扱うだけに、想像が入り過ぎる。憶測でものを言っていてなにが客観的な学問なんだという疑問が生じてきました。博物館屋になろうと決める前に、自然科学をやろうかどうしようかとちょっと迷った時期があったこともあり、あいまいさが気になってしょうがなかったんです。もうちょっと客観的にできることはないかって。

 ちょうど学部の3年生になった春休み明け早々に学校へいって、学科の研究室で遊んでいたら、たまたま新しい学内の電話帳が置いてありました。ぱらぱらと見ていると、修復技術研究室というのがある。助手に、この研究室はどこにあってなにをやってるんですかって聞いたら、そんなもの知らないと言う。無理もないんです。この研究室は半年前にできたばかりでした。その2年ほど前にフランス・イギリスでの在外研修から帰国した油絵の助教授が、日本でもヨーロッパ並みの絵画の修復工房を作ってみたいということでとりあえずご自分の研究室の隅で助手と2人で細々と仕事を始めていました。 ところがその助手が留学して先生1人になったもんだから、油絵の院生級で話のわかる学生を何人か入れて、ともかく新しい研究室を作ったんです。それを機会に電話のある部屋も獲得できたという次第だったんです。油絵科ではまだほとんど知られていない研究室でした。これはなにかおもしろそうだというので、その場所を守衛さんに聞いて、部屋へ押しかけて、先生に話をしてみたらば、それだけやってみたいんだったら来てもいいけれども、学籍のある芸術学科の主任教授の了解もらってこいというとになりました。さっそく主任教授のところへ行ったら、「ここも理論と実技を一緒にやることを看板にしているのだから、そういう学生が出てくることもいいだろうし、君は最初から博物館屋やりたいと言ってたんだからそれも悪くあるまい」と言って、紹介状を書いてくださいました。そのときから実質的に私は学内で試験なしに専攻を変えてしまいました。学籍はもとのままですが、実質的には転籍です。ともかく変な形の学生でした。

 学部を卒業すると同時ぐらいです。先ほどご紹介に私は大学院の修士課程ということになっていましたが、私が卒業した当時の文部省は、旧制大学にしか大学院の設置を認めておりませんでした。旧専門学校を母体とする藝術大学には大学院がなかったんです。新制大学にも大学院をつくろうかという話が起こって、その移行過程として、くせの強い7つの新制大学だけに2年制専攻科というのが出来ました。東京芸大、秋田大学鉱山学部、富山大学薬学部、神戸商船大学など旧制帝大がカバーできないようなところばかりです。それまで大学の専攻科というのは全部1年制だったのです。2年制の方はあとから修士相当ということになりました。

 大学院試行の近い制度ができるのなら新しい専攻もいくつかつくろうかという話がちょうど学内でも起こっていたようです。これはずっと後に聞いたんですが、当時の文化財保護委員会、今の文化庁の意向も働いて文化財保護の技術者をこれからの時代に向けてつくっていかなければいけないけれども、芸大に候補となる学生がいるんだったら試験的に専攻をおいてもいいんじゃないという話があったそうです。それでこの2年生専攻科に保存修復技術専攻というのができて、第1号学生になったんです。修了した途端にこの課程は廃止になり、大学院修士課程に改組されました。だから私が最初で最後の1号学生で、保存専攻のゼロ号学生です。

 日本のこの領域は歴史が浅い話でして、私の先生もたまたま在外研修での知見をもとに始めたばかりですし、本当に日本で保存科学研究が本格化したのは法隆寺が焼けてからです。それ以前、昭和14年に法隆寺金堂壁画の模写が始まる少し前から東京大学の柴田雄次先生や瀧精一先生が中心になって文化財の自然科学的な研究が始まりますが、まだ副業的な研究の時代で、東京国立文化財研究所の保存科学部が設置されたのは1952年です。最初の専任スタッフは4,5人でした。学界としては少し遅れて私の先生が参入したわけです。彼が学生になった頃、研究所におられたのは化学が3人、物理が2人、生物1人。いずれの先生方も実力はあっても、物理とか化学という領域から転向してきた方ですから、保存という問題に対しては、まだ手探り状態が続いていたわけです。

ベルギーで多くの外国人学生と一緒に学ぶ
 専攻科2年課程を修了したところで、身分は大学の副手になったのですが、大学院級の専攻学生を含めて3年目くらいでもう先生たちのやっていることの限界が、ある程度見えてきてしまうわけです。これぐらいで先が見えるのは大変残念ですけれども、歴史の浅さというのはそういうことなのかもしれません。これはもうちょっと先進的なところで勉強しないと必ず行き詰まるものと確信して、留学生試験を受けることにしました。ベルギーの王立文化財研究所を志望して受けました。所長のポール・コールマン先生は、その当時では一番の気鋭でした。もともとは化学者ですが、かなり手広い領域をカバーできる方でした。いろんな文献にあたっている中でこの先生につきたいなということを考えていました。

その当時としては、ベルギーとイタリアが先進国だったんですが、私はイタリア語ができないので、ともかくコールマン先生の指導を希望しましたら、たまたまうまいぐあいに試験に通り、ベルギー政府の給費をいただいて、それから3年ちょっとブラッセルの王立文化財研究所へ研究生という形で受け入れていただけました。

 身分は研究生ですが、これはコールマン先生独特のやり方でした。色々な国から若手を集めて、研究所のスタッフとして使いながら専門家の教育をやるという学生とインターンの中間のような組織でした。ここで3年ちょっと在籍したのですが、恐らくこの期間が私にとって人生最大の転機だったと思います。それから後のすべてがここから始まっているという感じです。

 当時のコールマン先生はユネスコの文化財保護の専門委員兼副委員長をやっておられたのですが、ユネスコとかベルギー政府の奨学金を使って、毎年何人かの若い外国人を受け入れて人材養成をしておられました。大学というかたちでの養成体制がまだ不備だった時代です。研究生は1年単位で受け入れ、何人かは期間を更新します。私が入ったときは、スペインとドイツから各2人とスエーデン、フランスとオーストリアとユーゴスラビア(今のクロアチア)から1人ずつ、それからメキシコ、ペルー、キューバ、ブラジルと、さらにイラクとタイとそれに私という、13カ国、15人という構成でした。それに文化財研究所の保存修復部長になられた岩崎友吉先生が加わりました。岩崎先生は学生のときから、ずっと非常勤講師の化学の先生でしたが、在外研修で同じ研究所に客員研究員で入られ、6カ月間ご一緒しました。先生は、自分は研究員じゃなくて学生並みだと言って、研究生の仲間に入ってしまいました。岩崎先生からは「保存科学の全体像をつかんだのはこのときが初めてだった。 それまでにやってはきたことは誤りではないと思うけれど、やっぱり断片的で、全体を踏まえた仕事というのはこのとき初めてつかんだ」ということをかなり後になって伺いました。

 2年目に何人かが入れかわりました。ノルウェーとイギリス、ガーナ、ナイジェリア、インド(2名)が加わり、ペルー、ユーゴスラビアの人数が増えました。この年は11カ国、16人でした。

 2年目の途中でコールマン先生が亡くなったために、3年目は新人の受け入れをやめ、私だけが残りました。お陰で3年目は、奨学金をいただくときは学生扱い、研究所の中では無給の非常勤職員扱いという待遇を受けました。

 多国籍の研究生集団の中で、実にいろんなことを学びました。この博物館(みんぱく)へ来て、おおきな抵抗感なく、いろんな問題にすっと入っていけたのは、このときの経験が大きいとつくづく思います。いまも途上国が抱えているいろいろな問題をアフリカや中南米の人たちから肌で教わりました。ユーゴスラビアの人たちからは、国の中で持っている民族問題というものを学びました。初めは私も民族学の知識がまったくありませんでしたから、「あの人はスロベニア人だから私たちとは全然違う」という話が理解できなかったんです。同じ国なのになぜ違うかということが、だんだんわかってきました。いま民族学者である同僚たちの話が理解できるのは、この集団の中でもまれたおかげです。

 2年目を一緒に過ごしたガーナの同級生は、失脚したかつての大統領の身内だったものですから、一種の政治亡命をやっており、研究所を去った後も20年近く国へ帰れないでいました。なぜそういうことが起こるかということも、彼らと一緒に過ごすうちにだんだん分かってきました。様々な民族問題を抱えた人たちと2年以上も生活をともにしたことは、ある意味で民族学のフィールドワークを経験するいい機会だったと思っています。

化学で文化財を考える
 それからもう一つ、ここでもって覚えたのは、共同研究のおもしろさでした。研究所には、物理、化学という自然科学系の研究者と美術史や考古学の研究者、それから修理の技術者と写真の技師がいます。コールマン先生のやり方で隔週の月曜日の午前中はディスカッション時間でした。新しい物件が入ってくると、この修理をだれが担当し、どうやって処理するかということを決めたり、作業がある程度進んでくると中間報告をする、いう時間だったんです。

 そのときに、新しいものが入ったときは、それぞれの立場で意見を出します。年代の同定、過去の修理歴などの美術史的な話題から、材質分析の結果、修理用薬剤の検討など様々な話題が出ます。そうした研究会を何回か重ねて最後に修理の担当責任者を決めるのです。ものがボーンと大きい部屋に置かれて、だれがそこへ寄ってもいい。一定の期間内にレポートを用意すれば誰でも提案権があるのです。畑違いの人たちが集まって議論するのですから、お互いに分かるようにしゃべらなければいけない、あるいは説得できないといけない。畑が違った人がどういう見方をしているかということを知る共同研究のおもしろさと大切さをこのとき大変に勉強しました。私みたいな新米には、先生から少し前に「15世紀の染料のことを少し調べておくとおもしろいぞ」って耳打ちがあり、初めは何かわからないのですが、そのうちに古い染織品が研究会の場に出てくるとといったこともありました。

 それからもう一つ、いまの私にとっての大きな財産になったのですが、自然科学と人文科学というものの接点がどこにあるかということを覚える機会を得ました。最初に入ったときに、私は美術史系の出身のくせに希望どおり微量化学の研究室に配属になりました。同期に化学科の出身が4人いました。私はバックグラウンドが違うので、先生が少し様子を見ていて、配属はほかの人より3月ほど遅れるのですが、その間は過去の修理報告などを徹底的に読み込んだ上で、処置に問題はなかったか、今後の処置にどうしたらいいかということのレポートを次々に与えられながら、私が化学で文化財を考える教育を受けていました。

国際的な研究仲間
 遅ればせに化学の部屋に行く許可が出て、化学屋さんと並んで実験台の前に座る日々になりました。そのとき同級生がイラクとペルーとタイと3国から来ていた女性の化学者でした。私みたいな脱線組ではなくて、3人ともそれぞれの国の大学の化学科を優等生として出てきた人たちばかりです。でも、3人とも同じような苦情を言ってました。女だから博物館へ配属されたと。中には「自分よりも成績が悪かったくせに男性だと軍の化学研究所へ行けたのに、私は博物館だった」というのもいました。女性差別でしょうが、女だから文系の博物館という配属があったみたいでして、本人たちの不満もかなりあったようです。しかし文化的なものを扱うという経験をほとんど持たずに博物館に配属されて、戸惑った事も確かなようです。国立大学の卒業成績順に政府が公務員として採用したので、海外留学の機会が早く回ってきたという点で自負はあったようですが、「博物館での化学はどうしたらいいの」って、戸惑っている部分がありました。 専門の化学的な知識や方法は研究所の先生たちが指導してくれますけれども、文化的な部分の基礎が乏しいと、かなり困っていたようです。

 しばらくするうちに私が文系の出であることがばれまして、みんなで自主ゼミをやろうよということになりました。歴史とか美術史をおまえやれと。そのかわり自然科学のわからないところは教えるということで、時間外に4人で下宿をもちまわりで半年くらい続けました。これは私には新鮮な経験だったうえに、その後のものの考え方を完全に変える契機になりました。今でもよく覚えているんですけれども、最初にぶつけられた質問は、「印象派の絵はどうしてあんなに不透明になのか」。その次に来たのは、「17世紀の絵に出てくる亀裂はなぜ特殊な形をしているのか」。こんなことはそれまでに一遍も習ったことありません。日本では今でもこんなことはまともに教えているところはないだろうと思います。ショックでした。

 私たちが大学で習ったような、感覚的な話をしている限り、自然科学で育った人たちは絶対に納得してくれない。科学の人たちの頭でわかるような説明がつくかどうかが勝負でした。学部の中途で実質的に転向してしまいましたが、卒業論文は保存と美術史の接点を探す意味で、近代の絵画にあらわれた顔料の歴史を扱いました。そのとき多少は科学技術史も勉強したので、その辺の知恵を動員しながら答えを考えました。19世紀の絵がなぜ不透明になるんだというのが、屈折率が極端に高い絵具がこの時期に出てきたためだとひらめいて、確認してみると確かにそのとおりです。「ついでにちょっとこの屈折率を調べてよ」っていう話をぶつけると、意外な事に気づくのです。そんなことを繰り返しながら、19世紀の科学技術が近代絵画の成立にどんな役割を果たしたかといった話題が、4人の自主ゼミの中で1つの結論に達するんです。 思っても見なかった結論に何度か自分でも興奮しました。17世紀の亀裂がなぜ特殊かというと、絵具に含まれる乾燥剤の質が変わっていたためだということも分かってきました。一回だけではわからなくても、次回までにみんなでいろんな可能性を考え、4人で寄ってたかって検討するのです。どこかでやっぱりそれしか考えられないというところへ落ち着くわけです。

 これは、文化的な現象を自然科学のレベルで考えるうえで、とてもいい経験でした。以来、私のものの考え方は、 180度とまではいきませんが、大きく変化しました。絵描きとペンキ屋は同業です。どちらも色塗る商売で、原図もかけるのが絵描きで、他人の原図に色を塗るのがペンキ屋だって。自然科学者を納得させるためにはこれ以外に答えがないんです。科学者は、どういう材質の面にどのような色材で色を塗るかが大切なので、どんなスタイルかはあまり関心がない。とすればそこに話をどうもって行くかだということも覚えました。それはこの4人の勉強会の大きな成果だったと思います。

 ついでですけど、私を含めてこの4人は4人とも、古巣の領域からほとんど脱線してしまい、自然科学と人文科学のちょうど真ん中のところへ落ち着いてしまいました。1人は後にタイで国立博物館の館長になりましたが、「人文系の人たちと十分に意思の疎通ができたのは、あのときの結果だった」と先にあったとき話してくれました。同じ経験をしていたんだと、境界領域に入ってしまった過程を再確認しました。

 2年目のときに、もう1人ペルー人でとても腕がよく模写が得意な絵描きが仲間入りしました。彼は、我々がつくり上げた仮説にしたがって、実際に描いてみて、うまくいったとか、これは絶対にできない、ここの部分がおかしいというようなことを言って来ます。この宿題も自主ゼミ4人組で共同して、仮説を出しました。そのうち仲間がだんだん帰国してしまって、最後は結局私と彼とでゼミを続けました。ともかくこれも、ある部分では当たり、ある部分では外れましたけども、これも非常におもしろい勉強でした。

フィレンツェの大水害に出動
 3年目に入った、1966年の11月3日に有名なフィレンツェの大水害が起こります。フィレンツェの町がアルノ川の氾濫でほとんど全部冠水したのです。冠水した文化財を救済するために、ユネスコが中心になって、年の暮れ近くに世界中に救済の協力要請を出しました。ベルギーの研究所にも要請が来たのですが、所長が亡くなった後で、いろんなことが滞っていて、ゆとりがないので、おまえさん行ってみないないかという話になりました。翌年2月からほかの研究所にインターンに出ることにもなっていたので、その間の3週間をあてるという形で協力することになりました。

 行ってみたらば、世界じゅうからいろんな学生のボランティアが集まっていました。法学部もいれば、数学科もいる、文化財に何も関係ないが、善意と体力だけで集まったような人たちが数百人町の中にいました。これを、国と町がつくった一種の手配事務所があってあちこちに適当に配属をしていくわけです。私のように、多少保存学の基礎ができているということになっている人は、助監督級で配属をされました。有無を言わせずに配属を一方的に決めらます。ただ、ルネサンス時代の板絵だけは貴重なものが多く、これはヨーロッパから集まったベテランの修復家たちが扱いました。

 私は一番人手が欲しい図書館へ行けという話になりました。ここは古い写本あり、印刷本あり、手書き本もありというところです。冠水した本が山になっていました。入ったのは3月、そろそろ暖かくなるころで、ほうっておくとかびが生える。汚水と重油をかぶっています。これをともかく除去しなきゃならない。ほとんどの印刷本は腐らないように水の中。1日に数百冊をともかく応急処理していかなきゃいけないんで、1チーム30人から50人の学生チームに助監督1人つけられるわけです。

 総監督はイギリス人で、今イクロム(ICCROM)といっているユネスコの文化財保存センター、ローマにある国際的な総本山の当時の所長で、定年まであと半年ぐらいのところだったんですが、仕事を副所長に任せて僕はこっちにいるって、ほとんどずっと常駐されていました。結局1日の作業が大体5時に終わって、それからちょっと一休みして、そこで助監督が集められて晩飯を食いながら明日はどうするかって検討が始まりました。短期間でしたが、ここでもかなりいろいろな勉強をさせていただきました。今まで経験してきたようにただ古いというだけでなく、緊急性を争うものにはどうしたらいいかという、まさしく野戦病院の思想でした。時間がちょっと遅れたらなにが起こるかわからないというものがあるということを身をもって体験させていただいたおかげで、ある意味ではここで怖いものがなくなりました。いいことか悪いかわかりませんが、じっくり考えるより、ともかく即決、正解ではなくても間違いでなければいいという手を分刻みで打てないといけないということをこのときに覚えました。

 ある瞬間に大量にものが入ったときにどうしたらいいか。民博に着任したときに、既に7万点をこえる資料がたまっていました。これをどうしようと言われて、思い出したのはフィレンツェの体験でした。あれよりは楽だなと。あのときはともかく1日遅れたらなにが起こるか分からないという状態だった。ここのものは半年ぐらいはなんとかなるだろうという気になりました。先ほどのご紹介にあったように、ここへ呼んでいただいたときから専門領域をもう一度方向転換したわけですけれども、そういう意味でのきっかけはフィレンツェでできたような気がいたします。

博物館屋デビュー
 日本へ帰ってまいりまして、待っていたのはここ万博公園で開かれた日本万国博の仕事でした。世界中から 500点ほど美術品の名作を集めて美術展をやるというのです。建物はいまの国際美術館のあの建物です。出品交渉をいろんな国とやっている間に、きちんとものが保存管理できる人間が常駐しない施設には貸さないという国がたくさん出てきました。もっとも貸せといって要求したのが日本でいうと重文級のものですから、こう言われても当然だと思います。60年代はじめほどではないにしろ、当時の日本の文化財保存の研究所はまだ小規模で、余力も持っていない。日本の重要文化財と国宝を管理するだけで精いっぱいで、困ったなといってるときに、頃合いの人間が帰ってきたので、「君、行ってくれない?」という話になりました。

 これが私の博物館屋としての本当のデビューでしたが、一般には、外国帰りのなんかよく知らないやつが出てきたなという受け入れられ方でした。たまたま、外国から借りる品物について随行してきた先方の研究者、いわゆるクーリエの中に、私のヨーロッパ時代の先生と親しかった方が何人かおられました。そのとき初めて知ったんですが、先生が何か私のことを多少買ってくださったらしいんですが、「今度入ってきた日本人でもしかしたら使い物になるかもしれないのがいる」って話をどこかでなさっていたようで、「ああ、コールマンが言ってたのはおまえかい」という話を何人かがしてくださったものですから、終わるころには国内でも何人かの方に存在を知っていただくことができるようになりました。

 万博が終わってから、埼玉県立博物館に入りました。このときも公立博物館が雇った保存担当の学芸員第1号という、なにか私は第1号がつきまといます。たった1人のために1つの課をつくるなんてことはなく、企画普及課という教育普及担当の方と一緒のところに机を置くことになりました。同僚は教育担当の人ですが、忙しいときは互いに手伝いあいます。自分の本務の合間に、博物館の教育問題を少し考えるというきっかけがここでできました。

 博物館教育に手を出す素地は学生時代にすこしありました。博物館屋になろうと思ってそれなりの本をある程度は見ていたのですが、たまたま1960年にフランスのクセジュ文庫本の中に博物館学の本が出版されました。読んでいくうちに、日本の博物館で完全に欠けているのは保存と教育だということを強く意識させられました。だから、ヨーロッパにいた間も、保存学の勉強をするかたわら、折を見てはユネスコのセンターなどへ通って、本を見たり、時々はちょっと手伝いなどをしながら話を聞いていた中で、やっぱり教育の問題というのは日本で完全に欠落しているということをさらに意識していました。だから、機会があれば何かの紹介する程度はあるかもしれないという感じですこし資料を集めたりもしていましたから、教育部門を手伝うのも結構楽しめました。

 この経験も後でまた役に立つ話になります。2年半ほどしますと、ひょんなことから、私は埼玉県立博物館をやめて東京都美術館へ移る話になりました。あまり美術の世界へは戻りたくなかったのですが、後輩の1人が美術館へ入ったんです。この後輩がいろんなことを私のところへ相談に来て、相談に乗っているうちに、あなたが動かないことにはこの計画がだめになるんじゃないかという羽目になり、結局美術館へ移ることになりました。このときには私はもう美術の畑を専門にやりたくなかったもので、全体の計画を考える役でいいのなら動きましょうという条件を飲んでいただきました。東京都美術館というのはそれまでほとんど貸し会場業務でやっていたのですが、新館建設を機に、自主事業主体に切りかえることになっていました。移った最初の仕事は、今までの貸会場としての美術館のイメージを徹底的に壊して新しいものをつくるということでした。 古いものを壊してつくり直すことは、ただ新しいものをつくる以上に大変でした。そのためには科学博物館でやっていた手法を美術館にとりこんでみるとか、あるいはオペレーションリサーチの方法を応用して集客方法を開発するとか、かなりそれまでにない試みをやってみました。その一部はそれから後に出てきた美術館に取り入れられたので、それなりの評価はいただけたんだろうと自己満足しているのですが、やっぱりこんなことばかりやっていますと、次第にくたびれ、アイデアも枯渇してきます。そんなところで初代館長の梅棹先生から声をかけていただきました。そろそろ本来の保存屋の世界へ戻りたいなという気持ちと、声をかけていただいたのを幸いに、民博へ移らせていただいたわけです。

博物館教育のための国際交流
 それから先は、先ほどご紹介にあったとおりです。博物館と保存と多少の民族的な技術の研究で研究三昧の日々が来てくれました。そこでなりたい、なりたいと思ってなった博物館屋ですけども、一時は博物館から足を洗おうかという気にもなっていました。それがちょうど10年ほど前に、これまたひょんなきっかけから完全に博物館の世界へ引き戻されました。きっかけは先ほどの東京都の美術館でやった仕事でした。美術館の古いイメージを壊したうえで再構築を図った結果のいくつかが、新しい美術館を考えるいくつかの提案として見なおしていただけたようです。例えば、美術館はできた作品だけを並べておくはずだけども、つくっている過程を見せてもいいじゃないかといって、画家を呼んで来てお客さんの前で、料理番組よろしく解説つきで制作風景を実際にみせるという企画を何回かやりました。 今ではあちこちで行われている企画ですが、いつの間にかだれが始めたかわからなくなっていました。私は気にしていなかったのですが、ていねいに調べ出した人がいて、10年ほど前に、横浜美術館で博物館教育の国際シンポジウムをやるので、コーディネーターをやってくれと、頼まれました。なんで民博の人間がそんなことやるの?と聞いたら、「むかし先生がやったことを調べました」って。そこまで調べられたら仕方ないので、そのかわり美術館じゃない人間も入れてもいいかということで、少し畑違いの人たちも交えた企画を組みました。美術館とは畑違いの人たちを入れて異分野との接点を見つけるという、むかし覚えたことをもう一度やってみようと思ったのです。この集会は博物館屋仲間に、ある程度の刺激を与える事が出来、アイデアを認めていただけたと思っています。

 これを機会に私は博物館の世界に深く引き戻される羽目になりました。
先ほどからお話に出ています国際協力事業団が、隣にあります大阪の国際センターというものを新しくつくり直すときに、きょう一番前にいらっしゃいます梅棹先生も計画委員のお1人だったそうですけれども、そのときに、せっかく関西につくるんだから文化的な領域をつくれ、つくれと盛んにおっしゃったそうで、事業団の課長さんがわたしにも何か文化的なプログラムができませんかという話を持ってこられました。先方の案は、文化財保護でなにか出来ないかということでした。私はそのときに「文化財保護は無理です。あれは職人さんの世界があまりに厳しいんで、半年とか1年で考えるということは、もう職人さんたちが怒り出して、とてもまとめられない。ちょっと考えてみますけど、博物館というもののいろんなテクニックぐらいだったら、考えて考えられないことはありません」というお話をいたしました。 少し時間がかかりましたけども、結局これが煮詰まって、1994年度から途上国の博物館関係者を対象とした博物館技術の研修コースがスタートすることになりました。今年で、ちょうど8年間これを続けてまいりました。

 おかげでもって、いろんな人たちとの交流ができましたし、途上国の博物館の問題というのも、随分いろんな形で勉強させていただきました。これからもこの関係というのはまだしばらくは続けたいと考えております。

 この仕事も、むかし途上国の仲間たちと机を並べた経験なしには実現できなかったと思います。1960年代の半ばの日本はまだ途上国として最後の時代でした。出国した時のパスポートは、黒皮手書きです。手書きでまにあう程度しか発給しない時代でした。この時期だったから途上国の人たちと、対等につきあえたのかもしれません。為替レートも弱い国の人が負う弱みもいやというほど分かるのです。彼らとの付き合い方を覚えたということはとても役に立ちました。

 そういう意味でも、機会をつくっていただいたコールマン先生とその時の仲間たちに、かなり長いこと私は精神的な負債を負ってきました。借金全部はとても返せないけれども、せめて利息ぐらいは、退職するまでに払いたいなと思い詰めていました。ここまで8年間やったところで、利息の何割を返せたかなと思っています。全額を踏み倒すということなしにすんだだけでも幸せでした。完済するまであと何年かかるかわかりませんけれども、本当に払いきれるかどうかも自信ありません。脱線に脱線を重ねて落ち着いた先に、こういう世界が待っていてくれたということになにか安らぎを感じている部分もあります。長い時間になりましたけれども、こんなところでもって、一人のヘンな博物館屋の半生をお話させていただきました。ありがとうございました。(拍手)