国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

立川武蔵教授・熊倉功夫教授・田邉繁治教授 退職記念講演会

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2004年2月18日開催

立川武蔵 退職記念講演会

マンダラとは何か 立川武蔵

講演風景 立川でございます。
いま長野さんにご紹介というか、お話していただいて、私も若い時を思い出したんですが、結局何十年かたちまして、今日は「マンダラとはよくわからない」ということを申し上げることになってしまうのではないかというふうに、初めにお断りしておきたいと思うのです。

インドで生まれたマンダラは、ネパール、チベット、中国、さらには日本などに伝えられまして、マンダラが伝えられたそれぞれの地域において、マンダラはさまざまな形態で描かれるとともに、地域ごとに異なった機能を果してまいりました。「マンダラとは何か、一口で言ってくれ」と私はいままで何度も言われました。私がわかっていないから答えられないということもありますけれども、ともかく簡単な、つまり一言で言えるものではないのではないかとも思っております。

マンダラの原初的な形態ができ上がったのは、はっきりいたしませんが、5世紀ごろであったと考えられます。当初は携帯用の祭壇のようなものでありまして、盆の上に簡単な仏像とかシンボルがのっていたものであったでしょう。そして、それに対して僧侶なり信者が供養を行う。供養というのは、物を捧げて祈るというような行為のものであったと考えられます。

当初は、後世のマンダラのようには、「世界の図」といった意味は持っていなかったであろうと思われます。また、後世は専門僧の瞑想の対象となりましたけれども、初期的なマンダラはそのような瞑想の対象というようなものでもなかったでありましょう。

7世紀ごろの編さんと考えられます密教経典「大日経」では、マンダラの描き方が述べられております。ここに述べられるマンダラは、先生が弟子を入門させる儀礼に用いたものでありまして、師と弟子の2人が、1週間をかけまして地面に描くものでありました。

人けのない場所を選定いたしまして、石とか骨のかけらを取り除き、土地の神へ供養、あるいは、あいさつをして、弟子が身を清めたりして、2人は1週間かけて準備をし、最後の夜に色の粉と言いますか、粒で簡単なマンダラを描きます。夜が明けますと先生は、弟子をその中に引き入れる、あるいはその前で弟子としての印可を与えた。こういったような使われ方というか、こんなような機能を果していたと思われます。

そこでは、明らかにマンダラは四角なんですね。今日のチベットのマンダラを見るように、丸い外枠はあらわれておりません。テキストから察するに、明らかに四角なのであります。

大日経に述べられた胎蔵曼陀羅を、空海が唐から請来いたしました。もっとも空海が持ち帰ったものは、中国的な解釈を加えたものでありまして、インドで生まれた経典、大日経に述べられたとおりのものではありませんけれども、空海が持ち帰ったマンダラが、インドの古いマンダラの形式を伝えていることは疑いがありません。

地面に描かれたマンダラは、もともと長期間持続するものではありません。その上に描かれた仏像の上に、花とか水とかミルクとかをのせますので、儀礼が終わるころには、もうマンダラはグジャグジャになっているわけですね。そして、テキストの中にマンダラをも壊すと、つまり、砂で描いたものを壊してしまうというところも、儀礼の一部として規定されていますので、マンダラは後に残るようなものとしては考えられていなかったのです。

さて、大日経の少し後にできたと推定されています金剛頂経というお経の中では、また別の形のマンダラが述べられております。ここでは、仏たちはそれぞれのシンボルを持っています。たとえばペンをシンボルとする仏を対象にする場合には、行者が座りますね。そして、世界中のペンを集めると考えます。実際には何もないんですよ。でも、世界中のペンを集めて、その一本に心をこらせる、凝固させて、本当に自分の右手にペンがあるような気になったときに、目の前に置きます。そうすると、このペンを持った菩薩が立ち上がります。

これで、一人の精神的な産出が終わりまして、それを何十回繰り返します。そして、出てきた仏さん、あるいは菩薩は、自分の場所に行って待っているのですね。それを数十回繰り返しますと、まわりに仏さんたちがいる。そういったようなマンダラの観想法が書かれております。これは、先ほどお話しました大日経のマンダラとは少し異なっているわけであります。これは大体7世紀ぐらいのことなんですが、この金剛頂経に書かれたマンダラを金剛界曼陀羅と呼んでおります。

金剛界曼陀羅の観想と言いますか、瞑想において注意すべきことは、行者がその中に入って修行するものと考えられることです。曼陀羅観想が終わったときには、自分はマンダラの真ん中にいるということになるわけですね。要するに、マンダラとは行者が中に入って修行する。これがマンダラの重要な点でありまして、マンダラの中に入ることができるということが、金剛頂経の中でははっきりしているかと思います。

ちなみに、空海が持ち帰りました、9つの井形になったマンダラのちょうど真ん中のものが、インドやチベットで金剛界と言っているものに相当いたします。

さて、八、九世紀になりますと、インドのマンダラの形態は大きく変化いたします。それまでは、大日如来がマンダラの中心にいたのですが、マンダラ展で少し展示いたしましたように、中尊がおそろしい姿をしたり、頭蓋骨杯を持ったり、蛇を巻いたり、毛皮をまとったりした、非常におどろおどろしい形の仏、これは尊格は仏なんですが、これがマンダラの中心に登場するようになります。これは、それまで初期・中期大乗仏教が避けて通ってきました血や骨の儀礼、呪術的な要素の強い土着的崇拝を、積極的に後期大乗仏教の一部としての密教が摂取したことを示していると、私は考えております。

さて、9世紀ごろには、須弥山を中心とした世界像とマンダラとがドッキングいたします。それまではそういうことはないんですが、9世紀ごろには須弥山を中心とする世界の構造がマンダラの構造と統一視されます。そうしますと須弥山がありまして、須弥山の頂上に館があって、その館の中に仏たちが整然と並んでいる。そして、この須弥山の下には地、水、火、風の物質的な基礎がある。こういった立体的な構造というものが、9世紀以降だんだんはっきりしてまいります。これを上から見ますと、四角のまわりに丸があるようなマンダラ図になってまいります。

さて、十一、二世紀と考えられますマンダラ集成が、サンスクリットで残っております。「完成せるヨーガの環」というものなんですが、この中では明らかに、マンダラが平面ではなくて、地水火風が積み上がり、その上に須弥山があり、須弥山の上に宮殿があり、宮殿の中に仏たちが並び、これを覆うようにして無色透明な金剛が、ちょうどバリアのように守っている。そういった構造を持っているということを、この十一、二世紀のテキストははっきり伝えております。

いま私は、ともかくいろいろな形にマンダラがつくられてきたし、表象されてきたということを申し上げているわけなんですが、おそらく十一、二世紀になりますと、仏塔の四面に仏像が彫られまして、これも一つの立体的なマンダラというふうに考えられるようになったというふうに思います。たとえば、カルカッタのインド博物館にはそういった仏塔がありますし、近世以降のものでは、カトマンズなんかでは何百基、何千基というふうに、そういう仏塔が建っております。

記録によりますと、1755年なんだそうですが、北京の紫禁城の中では、私は見たことありませんが、写真で見ると、天井ぐらいある立体マンダラがつくられて、今日も残っております。このように、マンダラは、平面に描かれる場合、あるいは掛け軸に描かれる場合、立体的なものになる場合があります。また、儀礼で土の上に、今日もカトマンズでは20㎝ぐらいの輪を描きまして、その上に花をのせたりミルクをのせたりしますから、20分もすればもうそれはグジャグジャなんですけれども、それがマンダラなんですね。そういったいろいろな形態があります。

日本におけるマンダラについて、一言申し上げておきたいと思います。もちろんご承知のように日本に、最澄が一番初めに簡単なものを請来されたのですが、空海、あと円珍、円仁が請来されてきまして、今日に致るわけですけれども、ああいった密教のマンダラ以外に、浄土における阿弥陀仏及び、彼を取り巻く菩薩や供養女、供養している女性たちの姿を描いた浄土変相図、浄土変もマンダラの一種と考えられまして、日本では浄土曼陀羅というふうに呼ばれております。

さらには、春日曼陀羅とか、熊野曼陀羅とか言いまして、山があり、神社があり、鹿がありとか、あるいは仏と一体になった神たちが起き上がっているといったような、こういった寺社曼陀羅もマンダラの一種として日本では考えられてまいりました。日蓮宗では板曼陀羅という言葉も用いられております。

さらに、日本の場合非常にややこしいんですが、別尊曼陀羅と言いまして、たとえば観音さんとか、不動明王とか、それが宮殿の中に入っているとか、須弥山の上の宮殿の中に並んでいるとか、そういうことでなくて、一尊だけ描かれている場合も、これも別尊曼陀羅と呼ばれてきました。

そうしますと、日本の場合はいわゆる密教のマンダラ、それから浄土曼陀羅、寺社曼陀羅、参詣曼陀羅というのもあるし、別尊曼陀羅、こういったものがありまして、実はこれは二、三百年のことではなくて、もう千年近い歴史があるのですね。日本ではそういうふうにずっと、そういう意味でマンダラという語が用いられてきました。

さらに近年では、マンダラというのは日常語でも用いられておりまして「人間マンダラ」あるいは「花マンダラ」、最近は私が聞いたのでは「テレビマンダラ」とかいう語も用いられているのですね。このような場合には、さまざまな要素、あるいは項、ファクターが、ともかくも一まとまりにあればマンダラと呼ばれております。中にある要素、あるいは項がどのような関係にあるか。将来どのような関係になっていくのか、どのようなことになっていくのかということは不明なんですね。むしろそれが摩訶不思議、つまり、それの将来は摩訶不思議であり、関係もよくわからない。そういうことを、あるいはそういうことであるがゆえに、日本人はこれはマンダラだと呼んできました。

「恋マンダラ」というときに、だれとだれがどうなって、ここでうまくいくとか、うまくいかないということがはっきりしておれば、これを我々は「恋マンダラ」とは言わないでありましょう。もちろんこういった言い方は、チベットやネパールではないと思います。インドやチベットでは、女主人公、男主人公がどういうタイプで、どうなって、結末がどうなっているかということがピシッとわかっているときにマンダラと言われるのであって、何だかゴジャゴジャしているというときには、マンダラとは呼ばれない。ここに日本人の世界というものに対する考え方が、マンダラと言うときに反映されているのだろうと私は思うのです。

さて、マンダラが、カトマンドゥ盆地の仏教徒の間で今日用いられている場合には、すぐ目の前に小さく丸一つ描くだけです。これがマンダラです。儀礼の中では、それが根本的な役を果たしまして、そこに中心的な仏を呼んでくるし、自分もその中心的な仏と一体になる場がそのマンダラなんですね。でも、外から見ていますと、そこに無造作に、ちぎった花やら、ヨーグルトやら、水やら、お酒やらが次々とかけられますので、そこには決して芸術的な、あるいは美術的な意味は全くありません。でも、それは儀礼の中では、重要なマンダラなのであります。

マンダラは、さまざまに用いられておりまして、一般の信徒が来て、米をまいて、そこに額をつけてお参りしていくというのも、今日ではカトマンズなんか普通に見られることであります。たとえば死者が出るとしますね。そうしますと、輪廻して、次によい状態にいけるようにということを祈りまして、砂曼陀羅をつくって、その人のかつて生きていた家に何日間か置いておくといったことも、ネワールの人々、つまりカトマンズ盆地の中の大乗仏教徒の間では行われております。

チベット仏教徒の間では、荼毘に付すときには、マンダラを敷きまして、その上に遺体を置いて荼毘に付す。そうすると、これは仏に対する供養になる。そんなような形で、マンダラが用いられていることもあります。

さて、ともかくマンダラにはいろいろな形や機能があると申しました。では、一体マンダラって何だということになります。私なりにいま考えたことを述べさせていただくのですけれども、かなり理屈っぽくなるかと思うのです。我々が一般に見るマンダラには、世界の諸元素が意味する同心円に囲まれた、仏たちが住む四角い宮殿が描かれております。普通のチベットやネパールのマンダラですね。これは、マンダラが生成の過程、つまりマンダラは生まれてくるものですから、小さな核からだんだん成長して生まれてきて、あれが一番成長がピークに達したときの状態を示しているのですね。

密教僧の観想法、あるいは瞑想法の補助手段としてマンダラは使われるんですが、この場合マンダラは、初めはほんの小さな核でありまして、その核が次第に大きくなっていく。大きくなっていくというのは、初めは本当に文字ぐらいですね。それが小さな仏になり、そして仏がはっきりしてくる。その仏がまわりの仏たちを生んで、館も見えるようになるといったようなことで、やがて宮殿の中に整然と並ぶ仏たちがあらわれるわけですけれども、ここではマンダラの観想法が終わったということは、仏の世界が成立したということなんですね。

さて、仏や菩薩が宮殿の中に整然と並ぶ世界ができ上がりますと、次にはこの世界は小さくなってきます。どんどん、どんどん、縮小されていきます。そして、やがて鼻先のけし粒ぐらいのものになってしまいます。ここでまたいろいろな行法があるんですが、あるときには、このけし粒を自分の体の中にパクッと飲み込んでしまうようになる。つまり、仏が住んでいる世界を出しておいて、それを小さくして自分の中に入れてしまう。

そしてこの後は、行者はもっぱら自分の体の中でのヨーガにかかわるのでありまして、マンダラは登場してこないのですね。密教の瞑想の中では、大雑把に言えば、マンダラというのは前半にかかわるものでありまして、出現した後、体の中におさめてしまえば、あとはもうマンダラは出てこない。行者は自分の体の中で、もちろん体もマンダラなのでありますけれどもともかくも自分の身体の中でヨーガの実践をいたします。現前に出たマンダラというのは、一応役目を終えて、中におさまってしまうわけですね。

マンダラとは、要するに何なのか。いまのように実例を挙げていってもきりがありません。何百となるわけですね。1500年の歴史がありまして、いままで申し上げたように、本当に多様な形態、機能があり、地域差もありますし、一般信徒が用いる場合のマンダラと、専門僧が用いる場合のマンダラも、またそれは異なるわけであります。そうではあっても、マンダラと言われる限りは、種差を超えて、あるいは種差の中に何か普遍的な、あるいは「これらしい」というものがあるのではないかというふうには思うのです。

いま私が言えることは、ここで「聖なるもの」という言葉を使わしていただきたいんですけれども、聖なるものの顕現が、自分がその中に入る世界においてある、そのような世界。ちょっとややこしいですけれども、マンダラというのは世界という場なんですね。そこにおいては、聖なるものが顕現してなくてはいけない。

もう一つ、自分。自分というのは行者ですね。実践者が、その場の中に入ることができるようなものでなくてはいけない。要するに、一つの場であり、その場の中に聖なるものがあらわれており、そして行者は場の中に、世界の中に、自分がどういう形であれ、中に入るものでなくてはいけない。

少し抽象的ですから、もう少し考えてまいりますと、初期的なマンダラというのは携帯用仏壇、あるいは祭壇のようなものであったというのは先ほど申し上げましたが、この場合も、聖なるものとしての尊格の彫像あるいはシンボルが目の前にあります。そして、この彫像あるいはシンボルが置かれている場、たとえばお盆のようなものですと、これが彫像といたしますと、これが置かれている場があります。そして、聖なるものの顕現と、聖なるものが存在している、あらわれている場という、この2つの要素が、まずマンダラには必ずあるんですね。あと、自分がどう関係するかということが、説明されねばならないのであります。

そして、その場合、行者あるいは儀礼を行う者が、その場の中に、たとえば携帯用仏壇であっても、自分がその中に入ることができると考えられている。つまり、眼前の携帯用仏壇の祭壇ですけれども、自分のおるところも祭壇になるような場が設定されていることが、マンダラにとって必要なんですね。別の角度からいいますと、マンダラというのは、聖なるもののシンボルなり、彫像なり、顕現が一つ、それが存在する場。それだけでは足りません。これに対して行為を行う人間が、この場の中に、こういった世界の中に入り得るということが、マンダラの特徴だと思うのですね。

まず、行者がマンダラの中に入って、諸尊を一人一人めぐって歩く。たとえば、皆さんが仏であると、この室がマンダラだとしますね。私は、一人一人めぐって歩く。そういうふうにマンダラを用いる場合もあります。あるいはマンダラ図が掛けてありまして、諸尊に一人一人中へ入っていく場合、そのときには、自分はいわば修行者の一人でありまして、自分と諸尊、仏や菩薩たちとの違いというものは、きちっと意識されているわけです。これが一つの用い方であります。

もう一つは、行者が自分をマンダラの主尊である。マンダラの中尊であるというふうに思いとる方法もあるのですね。要するに、マンダラがありますね。自分がトボトボと一人一人めぐって歩くのではなくて、自分がマンダラの中尊である。そして、まわりにいる仏たちは、自分が生み出したものである。こういった瞑想の仕方もあります。

先ほどの世界中のペンを集めて実際に手の中にあるかのようにして生み出す場合には、自分は実は大日如来なのですね。このような場合は、結局はマンダラの主尊は自分なんですから、そしてまわりにいる仏たちは中尊が生み出したものなのですから、そしてマンダラは一つの世界を考えているということにすれば、結局は自己と世界というものは一体なんだ。宇宙と、世界と、個我(アートマン)とは、本質的には一体のものであるという、インド精神が古代から持ち続けてきたテーゼを、後期大乗仏教の一形態としてのマンダラもまた追求したのである。そのように言うことができると思います。

私はもともと哲学と言いますか、論理学で訓練を受けたものでありまして、こういうものを考えるときでも、どうしてもそういう哲学的、あるいは論理学的な概念というものを用いるようなくせがありますが、そしてまたこれは、口実のように聞えますけれども、インド人も実はそうなんですね。ですからマンダラというのは、日本人にはきわめてわかりにくいものだろうというふうに思います。

さて、後世、マンダラというのは基体、ローカス、つまり土台ですね。基体と、その上に存在しますもの、先ほどの構造ですね。このノートを基体として、この紙コップが基体の上にあるもの(*編集注:演壇上のもので説明している)、サンスクリットではアーダーラとアーデェイアと言うのですが、こういったものの合体として、マンダラが考えられます。この基体とは、土台は須弥山を中心とする世界、器世間を言います。

基体の上に存するもの、日本語がないのですけれども、要するに支えられているほうのものですね。これは、結局はマンダラに登場する仏や菩薩のことを言いまして、ひいては人間のことを言うわけですね。仏教で世間と言いましたら人間のことです。器世間と世間とが、こちら(ノート)が器としての世間、これ(ノートの上の紙コップ)が人としての世間、これがこのようにドッキングしていることをマンダラと(*編集注:前段で例えた演壇上のものを指している)。ですから、マンダラにはいつもこの2つの要素が要るわけです。

マンダラの一番縁には、悟ってない行者も登場することがありますけれども、原則としてマンダラに登場するメンバーは、仏とか、菩薩とか、明王とか、天とかいった、聖なるものとしての資質をすでに得たものなんですね。要するに、一般の人間がマンダラに描かれることはありません。この場合、行者がマンダラの尊格と言いますか、中尊、中心の仏と同一視されるということは、密教における行法のあり方を示しているのでありまして、マンダラの中尊に、これから修行しようとしている人間が肖像画のように描かれるということは、マンダラにおいては今論際ないのです。

いま述べました密教における行法と言いますのは、密教におきましては俗なるものとしての行者、要するに煩悩を持っている行者が、ともかくも聖なるものの資質を得たと仮定して修行を始める。そういうことを言うわけです。

たとえば、山登りをする際に、ふもとから一歩一歩登っていって頂上をきわめる方法もありますけれども、一気にヘリコプターで頂上まで飛んでいって、頂上にポンと降ろす。そして、そこから下りてくるといった方法もあるかと思うのですが、密教の方法というのは、いわば頂上までヘリコプターで一気に飛んでから下山をさせる。つまり、方法が違うのですね。自分が大日如来であると思いとることは、非常に恐れ多いことです。だれにとっても非常に恐れ多いことなんですが、こういうことをあえてするというのが、密教の方法なんです。

マンダラに入るというのは、私が言うのもおかしいですけれども、こんなに煩悩のかたまりであれば、やっぱり懼れ多いことで、マンダラ、マンダラと言っているのも懼れ多いことなんですけれども、そのようにマンダラの中にポンと入ってしまうときの、一つの懼れ多いという驚愕心なり恐れですね。これをバネにして修行していくというのが、密教の方法であるようであります。

このように、マンダラというのは、悟りを得た仏と、仏が住む世界との2つの要素が必要であります。要するに世界と仏ですね。そして、世界が宮殿、須弥山、宇宙的蓮華などによって構成されているのは、インド人たちが世界の構造をそのようなものとして理解していたことを示しています。仏たちが整然と並んでいるのは、修行の階梯が明確に言葉で表現できるほど整然とした修行のシステムを持っている。これを示しているわけですね。禅におけるような修行の仕方とは全く違う体系を、密教は持っているのであります。

さて、以上のように、マンダラは実践者の目標、つまり仏を現前に可視化し、つまり見えるものとして、さらにその目標が存在する場に実践者が入ることを許されていることを示すもの、地水火風の世界と、悟りを得た人間、つまり仏たちがいて、こういったところに修行者が仏であるという形で修行することも可能ですし、ここにおずおずと入って、この中の仏たちをめぐるというふうに観想することも可能なもの。ですから、マンダラの持っている形態はさまざまですけれども、もっと大事なのは、修行者がここに入って、つまり修行者が入ることを許すような聖なる世界であるということなんですね。

ここで多くの人が想う、と思います。マンダラは、一人の実践者と、仏と、世界との関係に終始しているのかと。実践者が属する社会はどこにあるのか。歴史はどこにあるのか。どこへいったのか。

マンダラには、歴史はないんです。社会はないんですね。そして、歴史があると言っても、実践者一人の修行の歴史でありまして、社会や民族の歴史ではないんです。ここにマンダラの問題点がありまして、またそれは仏教思想の問題点でもあるかと思います。

時間がまいりました。どうもありがとうございました。