国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

シンポジウム「『夷酋列像を読み解く』定年退職記念基調講演」

「夷酋列像を読み解く」へ

 

開催趣旨と問題提起 大塚和義

[img] 1790年(寛政2)に松前藩の家老職にあった蠣崎波響によって描かれた『夷酋列像』についてさまざまな分野の専門家と描かれた側のアイヌの人たちが、現在的評価をまじえて総合的に検討し、『夷酋列像』に描きこまれた新たな研究課題を切り拓くことを目的として、表題のシンポジウムを開催することになった。このたび民博の所蔵となった新出の『夷酋列像』は、下記に述べるように、この画像が松前藩主の命によって描かれる契機となった1789年(寛政元)のクナシリ・メナシの戦いの記録でもある。これまで近世美術史を中心とした画像論が展開されてきた。しかしながら、今回のシンポジウムとフォーラムにおいては、近世史や日露交渉史、文化人類学などの専門家による多面的な視点から『夷酋列像』を検討するという初めての試みである。

蠣崎波響は1764年(明和元)松前に生まれ、1826年(文政9)に歿している。波響は松前藩の第12代藩主資廣の5男、名は廣年。生後まもなく家臣蠣崎廣武の養子となり、叔父松前廣長に学問を学ぶ。江戸の藩邸において南蘋派の画家建部凌岱に画の手ほどきを受け、次いで同じ南蘋派の宋紫石に学んだ。20歳の折に松前にもどって藩務につく。

1789年5月、東蝦夷地クナシリ島トマリと対岸の本島メナシにおいてアイヌが蜂起し、和人の死者71名を数える。松前藩は6月、ただちに新井田孫三郎らに命じて藩兵を派遣し、鎮圧と取り調べをする。その結果、蜂起の首謀者マメキリら37名を処刑。新井田ら松前藩兵は37名の首級を携え、仲裁にあたり松前藩に協力したアイヌの首長ら43名(途中から44名が加わる)を引き連れて9月初め松前に帰還。同行したアイヌに対し藩主道廣は大いに歓待して友好をはかり、また領主としての権威を誇示した。

同月、藩主は波響に対して『夷酋列像』の制作を命じる。波響、時に26歳。翌年10月『夷酋列像』12図を描き終える。この第1作目の図像と考えられているものは現在市立函館図書館に所蔵されている2枚である。松前廣長は「夷酋列像序」を記し、その直後に「夷酋列像附録」を著す。1791年(寛政3)、波響は『夷酋列像』を持参して京都に上り、高山彦九郎らに見せ評判を得る。このとき2作目の『夷酋列像』を作成したとみられており、これが天覧の栄に浴したとされる。この天覧本は現在フランスのブザンソン市立美術館所蔵との説が有力であるが、イコリカヤニ図が欠けている。1798年(寛政10)、廣長「夷酋列像附録に再附」を記す。翌1799年、平戸藩主松浦静山に国元より取り寄せた『夷酋列像』を見せ、静山、借用して模写(彩色は未完成)。同年「蝦夷人の画」を幕府に献上の記事が「和田郡司日記」にみえるという。これを永田富智は『夷酋列像』の波響自筆3作目であると説く。模写は平戸藩をはじめ、いくつかの藩によって作成されている。わけても広島藩支藩の絵師小島貞喜の模本が図像および附録など完全に揃ったもので、1843年(天保13)制作。原本の形態をもっともよく伝えているといわれる。現在、札幌市の北尾家が所蔵している。

[img] 民博所蔵本は平戸藩本と同様に、絵詞による2巻の巻子仕立てで紙本である。平戸藩本は上巻の冒頭に「序」が記されているが、民博本には欠けている。民博本は「附録」冒頭の一部から始まり、「附録」の人物に関する詞書を抜き出してそれぞれ12人の人物画に添えて書かれている。人物画の紙質と詞書のそれとは異なるばかりでなく、人物名の筆は原画に付された文字までも写し取っており、絵師の手になるものであろう。

詞書は右肩上がりの勢いのある筆致で、旧蔵者の一誠堂書店は松平定信自筆とみなしている。定信筆と断定する根拠は今後の研究にゆだねたいが、箱書は「夷酋列像図」となっており、その表蓋の右上端に貼紙があり松平定信自筆と書き添えられてある。貼紙は破れや剥離があり、誰の筆によるか明らかでない。

人物画の模写された時期と定信によるとされる詞書の記述時期は異なる可能性はあるが、いずれにしても、末尾にある「寛政10年10月6日」以降に画と詞が巻子仕立てされている。定信自筆とすれば、定信は1787年(天明7)老中となり、いわゆる寛政の改革を断行し、1793年(寛政5)職を辞していることから、この作業がなされたのは、幕閣の中枢から去った後である。

また、クナシリ・メナシのアイヌの蜂起時、定信は幕閣の中枢にあって松前藩に指示を出す立場にあった。また、松前藩からの報告はもとより、幕府の隠密である青島俊蔵らからの現地の状況の報告を知る立場にあった。蜂起以後、幕府は松前藩に対してアイヌとは交易以外の接触を避け、アイヌ自身に村落の運営を任せる「夷地の事は夷次第」の原則を守るように命じた。

さらに、蜂起直前の天明期前後には工藤平助、林子平、大原呑響らがロシアの南下にともなう北辺警備の重要性を説き、松前藩の対応では危惧されることを主張していた。この状況を松前藩も藩の存亡にかかわるものとして危機感をもっていたところに、もっとも恐れていたアイヌの蜂起をみたのであった。松前藩の蜂起への対応のひとつとして『夷酋列像』は描かれ、アイヌに対する懐柔策とともに幕府に対して中国やロシアと結ぶアイヌというイメージを強烈にアピールする目的をもっており、それによって藩の存命をはかったともみられる。

シンポジウムで討議すべき課題をあげてみると、およそ以下のようなものがあるとおもわれる。

  1. 『夷酋列像』が松前藩のなんらかの意図によって描かれたことは確かである。その動機と背景はどのようなものであったのか。
  2. 『夷酋列像』はなぜ最初に京都において貴族や知識人に積極的に閲覧されたか。まさに、政治性をもった画像であったといえる。最終的に、天覧に供することによって生じるインパクトを狙ったのか。
  3. 日本美術史のなかで『夷酋列像』はどのような位置にあるのか。これを肖像画というカテゴリーでとらえる傾向にあるが、通常の肖像画と比してサイズが小さいなど、どのように理解すべきなのか。12人という数はどこからきたのか。
  4. 第3作目が幕府に献上されたとすれば、なぜ第1作成立から10年近くの時間差があるのか。
  5. 松平定信がなぜ『夷酋列像』を所持していたのか。単に飽くことなき博物学的知識の吸収と資料収集の欲求によるものか。
  6. 『夷酋列像』に描かれた波響の「まなざし」をどのように読み取るか。
  7. 『夷酋列像』の12人はさまざまな場面を表現している。熊皮や段通の上に座る、宝器とされるクワガタをもつ、ロシアの赤い外套をはおる、子熊や犬をつれた人物、矢を射る、弓に弦をかける、獲物の鹿を背負い、射た鳥を抱える姿、正装した婦人など12人が演ずる状況はまさにアイヌの生活や風俗の多面性を描いた民族誌としての構成になっているとみることもできる。
  8. この『夷酋列像』以後、波響は全くアイヌを画題に描くことはなかったのはなぜか。
  9. アイヌの立場、視点からこの『夷酋列像』を見た印象、感想はどのようなものなのか。
  10. 民博本の評価をどうみるか。