2010年年次報告書
はしがき―今年度のまとめ―
本書は、人間文化研究機構連携研究「『人間文化資源』の総合的研究」研究班「9-19世紀文書(ぶんしょ)資料の多元的複眼的比較研究(The Multilateral Comparative Study on documents from the 9th to the 19th centuries)」(2010-2015年度)の初年度の年次報告書である。冒頭に今年度のまとめと来年度への展望を記すこととする。詳しくは本書本文をご参照いただきたい。
研究テーマにある「多元的」比較研究とは、世界の諸地域における人間文化資源、とりわけ文書それ自体について、中世と近世に時期を限定して比較研究を行おうとするものである。
次の「複眼的」は、いくつかの人文諸科学―本研究では歴史学・アーカイブズ学・文化人類学・文学―が文書という共通の素材を分析するようになった研究動向を踏まえて、学際的に文書資料研究を行おうとするものである。前者のテーマに関しては、先行する研究プロジェクトがある。それは、科学研究費・基盤(A)「中近世アーカイブズの多国間比較」2004-2007年度、および国文学研究資料館「東アジアを中心としたアーカイブズ資源研究」プロジェクトであり、そこではアーカイブズ学と歴史学の学際的研究として、各国・地域の記録史料群出所別の概略比較を行った。その成果は、日本語では国文学研究資料館アーカイブズ研究系編『中近世アーカイブズの多国間比較』(岩田書院、2009年)、英語ではMultilateral Comparative Study on Archives of Medieval and Early Modern Times(NIJL, 2010)として刊行された。これを受けて、記録史料群の概略比較からより個別のテーマのもとに文書の比較研究を行うこととした。
本研究は、①学際研究会、②招聘研究会、③海外国際シンポジウム、の3本立ての活動を行うことを計画している。①が「複眼的」研究、②③が「多元的」研究に該当する。以下のこの3つの柱に即して、今年度の成果を紹介したい。
①学際研究会「官僚制文書主義の比較研究」
文化人類学研究者による近代インド植民地を事例とした報告と、日本近世史研究者による江戸幕府に関する報告を比較した。その結果、例えば、文書実践の担い手が、英領インドでは高等文官試験によって選抜されたエリート官僚であるのに対し、近世日本では擬制的な主家の一部でありつつ自家の継承も重視する当主によって担われた幕府官僚であるというように、国制から来る相違は大きいことが認識された。しかし、業務効率性の追求という特質が双方の報告で指摘されていたことは重要であった。この点は時間・空間を超えて存在する多種多様な官僚制文書主義を比較していくキーワードになるものと思われた。
②招聘研究会「契約文書の比較-オスマンと日本近世-」
アンカラ大学からヒュルヤ・タシュ氏(オスマン史)とエルキン・ジャン氏(日本近世史)を招聘して行った。オスマン社会における契約行為によって近代的所有権が準備されていたことを明らかにしたタシュ報告は、日本近世城下町の武家地における交換に偽装した実質売買の進展を指摘した渡辺報告と共鳴していたと思われる。また、契約行為を公証する仕組み、契約をめぐる紛争解決の仕組み、という二つの論点の確認は、この翌々日に行われた下記の韓国での国際シンポジウムにつながるものであった。
なお、①②の研究会においては、国文学研究資料館所蔵歴史資料(旧史料館所蔵史料)のなかから日本側報告内容に関する文書も共同で閲覧し、現物を前にして専門を超えた質疑を実現した。
③国際シンポジウム「東アジア契約文書の諸相」
韓国古文書学会(会長:金炫栄氏、韓国国史編纂委員会)との共催で行った。日中韓の近世における契約文書を比較するため各2本ずつ、合計6本の報告を用意し、それに6つのコメントを加えた。さらに韓国学中央研究院所蔵の朝鮮時代契約文書も共同閲覧した。その結果は以下のようにまとめられる。
第一テーマの個人間の契約文書については、まず共時的比較として、①公証機能を果たすのは誰・どこか、②契約を証明するのは当事者が持つ証書かそれとも公的組織にある台帳かという二つの論点があった。①については日本の公権力への依存性が際だち、②については中韓が証書であり、日本は両方という対比となった。次に通時的変化に関しては、契約文書の実践によって近代の私法的世界が実質的に準備された(用益権の所有権化)という大まかな趨勢は三つの地域共に共通していると把握できた。
第二テーマの集団の契約文書については、類似点として村や地域(村連合)という単位での契約が顕著に展開し、それが規約や構成員名簿のように文書化されている点が挙げられる。相違点としては契約(文書)の内容が日本は実務的、中国・朝鮮は精神的であると同時に、構成員相互の関係が日本は対等関係、朝中は支配従属関係を内包するというように対比されると把握できた。
以上のように今年度は官僚制文書主義の比較に関して端緒をつかみ、コメントも含めれば契約文書のグローバルな普遍的存在が確認できた。後者に関しては、契約をめぐる紛争処理に関する文書についての比較が次の課題として認識された。
(文責:渡辺浩一)
2011年年次報告書
はしがき
今年度も昨年度に引き続き、①学際研究会、②海外招聘研究会、③国際シンポジウム、という三つの研究活動を行った。
①学際研究会「官僚制文書主義の比較2」
この研究会では、ボリビアに関する報告が、西欧からの公証人制度の導入とボリビアでの実態について分析し、日本近世では村役人の諸機能の一つとして公証機能が紹介された。これにより、少なくともボリビアでは、公証人が公証するのは私的契約のなかの限られた階層と限られたケースとなるのに対し、日本近世では、名主の公証機能が、年貢負担者の確定と連関しているために全ての土地移動が対象となる、という違いが認識された。
ただ、ボリビアの(西欧も)公証人が都市や王権の文書作成・管理を担い、公証機能を担う日本の村役人も村を単位とする多様な文書行政機能を発揮しているということは、公証機能という社会的行為が基盤となって文書行政が実現しているのではないかという解釈も可能ではないかとも思われた。
したがって、公証機能を誰がどのような文書を用いて行っていたのか、公証機能の担い手は他にどのような機能を持っているのか、という観点で、世界各地の事例を並べてみるという比較も有効なのではないかと思われた。これは、契約、紛争解決と進んできている国際シンポジウムのテーマともつながるものである。
②海外招聘研究会「契約文書の近代化」
今年は、韓国国史編纂委員会の金炫栄氏を招聘した。金氏は、韓半島東南部の島嶼部における、島の所有権の証拠文書の「創造」について話をされた。17世紀の年号を持つ証拠文書が偽文書であることを使用文言から導き出し、偽文書作成は19世紀末に証拠文書が社会的に必要とされたときに起こったということであった。偽文書論としても、文書認識論としても大変示唆に富む報告であった。
③ 国際シンポジウム「前近代社会における秩序維持の手段:紛争処理の文書」
トルコと日本から二つずつの報告を立て、双方の裁判システム全体の仕組みと具体的事例提示によって、そのなかで作成・機能する文書が浮かび上がるように意図した。これにより、トルコ側は地域行政組織レベルの裁判に関する報告と、国家レベルの裁判に関する報告という役割分担になり、日本側は、近世の裁判システムのモデルを提示する報告と、江戸町方における紛争の一事例を分析する報告が行われた。さらに、トルコ側からはオスマン朝支配下で独自に裁判を行ったキリスト教会の事例紹介と、全体を適切にまとめた優れたコメントが示された。
その結果判明したことは以下の通りである。①双方とも文書が裁判システムのなかで重要なツールとして機能している。②しかし、オスマンの法廷では口頭の証言が決定的な役割を果たすことがある一方、日本近世でも口頭は裁判進行に不可欠の役割を果たしていることが確認できた。これにより、日本の歴史学界でイメージされていた、イスラーム世界は口頭主義、日本は文書主義という単純な理解は克服された。この点が本シンポジウムの大きな成果であろう。
さらに、③双方ともに裁判を行う側に大量の法廷記録が作成・保存されたが、それに加え、日本の場合は江戸の事例報告が豪商の記録に拠っていることに端的に示されるように、当事者の側での裁判記録の大量保管が非常に特徴的である。この現象の違いをもたらす原理については以下のような指摘もあった。すなわち、オスマンの場合は公正という原理を統治組織が持っていたことに対し、日本近世の場合は、最新の研究で示されている当事者主義という原理がある、というものである。ただし日本近世の統治組織も公正であることを示そうとしていたことはオスマンと同じであり、この点に関してはなお検討を要すると思われた。
この課題に取り組むため、オスマンと近世日本の比較だけにとどまらず、多元的比較に進む必要があると判断された。そのため、次年度(2012年度)も引き続き紛争解決という同じテーマをとりあげ、明・清と朝鮮の事例も加えて、現象の比較から原理の比較へという考察を深めていく予定である。
昨年の3月11日は東日本大震災があった。1月27日現在で15,845人という大変多くの方々の死亡が確認され、今なお3,369人の方々の行方がわからない。さらに、1月12日現在で337,819人の方々がいつまでとはわからない仮の生活を強いられている。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、一日も早い被災地の復興を祈らずにはいられない。
日本の歴史資料の特徴は、民間に大量に存在することである。そのため震災により無数の歴史資料が消滅していった。こうしたなかでも被災地の歴史研究者たちは被災した歴史資料を少しでも消滅させない努力を続けた。それは、宮城歴史資料保全ネットワークのホームページhttp://www.miyagi-shiryounet.org/(英語版あり)に示されている。わたしたちはこうした貴い活動に少しでも手助けしたいと考えた。その簡単な記録を末尾に付けた。ご一覧をお願いしたい。
(文責:渡辺浩一)
2012年年次報告書
はしがき
人間文化研究機構連携研究「文化資源の総合的研究」研究班「9-19世紀文書資料の多元的複眼的比較研究」は、今年度も昨年度に引き続き、①学際研究会、②海外招聘研究会、③国際シンポジウム、という三つの研究活動に加え、次年度国際シンポジウムの準備研究会も行った。ここでは、本プロジェクトとして何が明らかになったかを端的に説明するため、報告者名や報告タイトルは省略している。目次も参照しつつ読まれることを望む。
①学際研究会「書籍のモノ情報と内容情報」
今年度の学際研究会は、文学との交流をめざし、アーカイブズ学および歴史学との学際を試みた。アーカイブズ学からの報告は、文書や典籍に用いられる紙質の調査方法の紹介とその意義について語った。文学からの報告は、漢籍を日本で出版する際の漢籍形式の規範性、および芭蕉の出版物における和歌形式の規範性について論じた。歴史学からの報告は都市法令の伝達様式(口頭・廻状・木版刷)の相互関係について分析した。三つの報告が分析した対象は、紙質、書籍のかたち、情報伝達媒体とそれぞれ異なるものの、いずれもディシプリンの違いを超えて、モノとしての形式の意味を探るという共通の関心が存在することが確認されたことは収穫であった。なお、この研究会は、「書物と社会変容」研究会との共催で行ったため、参加者70名という盛況ぶりであった。
②海外招聘研究会「<私的な書き物>へのアプローチ」
ここでは、最近の西欧歴史学界で注目されている「エゴ・ドキュメント」という研究方法の新潮流との交流を開始するため、フランスから研究者を招聘し、彼自身のプロジェクトが紹介された。そうした報告とともに、韓国の日本史研究者による韓日の日記を比較する報告を加えて、西欧と東アジアの歴史史料学の交流を試みた。フランスの報告からは、私的な文書や記述への注目は、近代的個人概念の相対化、家族の機能の重視といった研究関心のなかから生じていることが理解された。これは、共同体や家しか見てこなかった日本近世史研究が「人」に注目するようになった近年の研究動向と交錯するものと思われる。共通の土俵が築かれつつあることが判明した。
研究会全体の成果としては、日記などの私的な文書、あるいは私的な内容の記述は、それぞれの地域により多様な形態をとるものの、共通して存在すること、そしてそれらを分析することにより個人や家族の社会における位置づけや機能を比較することが可能であるという展望を得たことである。これに基づき最終年度の国際シンポジウムを現在構想中である。
③国際シンポジウム「近世東アジアにおける紛争解決と文書」
紛争解決をテーマにしたシンポジウムの第二弾である。昨年はオスマン社会と近世日本を比較し、さらに比較の参照系を豊富にするために、中韓日の比較を行った。紛争解決のシステムの比較、システムのなかでの文書の比較を行ったことは昨年と同様であり、オスマン社会も含めて紛争調停の仕組みがいずれの地域でも存在すること、そのために特定の様式の文書や絵図が作成されることが明らかとなった。近世日本の美麗な判決絵図、朝鮮の風水をふまえた墳墓紛争の判決絵図もさることながら、清代蘇州における紛争解決結果を刻んだ碑文の重厚な存在感は特に印象的であった。また、紛争解決文書を当事者が編綴したり袋でひとまとまりにしたりというアーカイヴィング行為は東アジア三国には共通して見られることも確認できた。特に地域レベルの科挙合格者が紛争当事者として綴った一件史料には、当事者の高度な法的リテラシーが発揮されていた。
そうした前回からの論点に加え、今回は紛争解決をめぐって機能する民間業者も新たな論点とした。これについては、そうした民間業者が近世日本の支配には不可欠であったことに対し、中国では純粋な業者であるらしいこと、朝鮮時代後期にはそうした業者が禁止されていること、といった相違が存在するところまでは明らかとなった。そのような相違が生じる原理の比較までは本格的議論が及ばなかったものの、支配と民間社会の関係の相違がその背後には存在することが展望された。
(文責:渡辺浩一)
2013年年次報告書
はしがき
人間文化研究機構連携研究「文化資源の総合的研究」研究班「9-19世紀文書資料の多元的複眼的比較研究」は、今年度は、①国際シンポジウム、②次年度国際シンポジウムの準備、という二つの研究活動に加え、③研究班合同研究会も行った。ここでは、本プロジェクトとして何が明らかになったかを端的に説明するため、報告者名や報告タイトルは省略している。「研究活動」欄も参照しつつ読まれることを望む。
①ストラスブール国際シンポジウム「西欧および日本中世の都市空間における私文書の公証」
今回は2010年のソウルにおいて契約文書をテーマに、2011年のアンカラと2012年の上海では紛争解決の文書をテーマに研究会を持ったことを受けている。
このシンポジウムでは、前近代では公証制度を持たなかった日本と、そうではない西欧を比較することは一見困難であるように見えるが、都市と私文書を切り口とすることにより比較を可能とした。人間と人間の関係が社会的に認知される方法の一つとして、私文書の活用が都市において特に発展したことの意義を考えた。具体的には、文書形式、公証方法、保存方法、活用実態などを具体的に突き合わせることにより、共通点と相違点が明確となり、お互いの実態と分析方法をより深く認識することができた。参加者は約30名であった。
なお、本研究班の成果は、来年度内に『契約・紛争解決・公証と文書』(仮)という本を日本で公刊することになっている。そのため本書には日本語原稿を掲載することを避けた。この点はご了承いただき、出版の暁には是非ともご購読をお願いしたい。
②来年度東京国際シンポジウム準備
来年度は国文学研究資料館を会場に、9月27、28日(土・日)に「近世都市の記憶にみる個人と社会集団」(仮)をテーマとして国際シンポジウムを開催する予定である。
ロンドン大学で報告者による打ち合わせを行い、テーマについて大筋の合意を得たので、本書にプロポーザルを収録しておいた。このテーマは昨年度の招聘研究会「私的な書き物へのアプローチ」が一つの前提となっている。
③研究班合同研究会「前近代日本における官僚制的文書主義」
この研究会は、研究班「正倉院文書の高度情報化研究」(代表者仁藤敦史)との合同で行われた。官僚制文書主義については、本研究班においても2010年度、2011年度に学際研究会のテーマに掲げていた。正倉院文書は、律令政府の一部局である写経所の文書群であるのでまさにこのテーマにふさわしい研究対象である。期待に違わず、古代史の報告では、写経所のルーティン・ワークに関わる帳簿類も検討対象とされており、幕府や藩の行政帳簿類との共通性を感じた。反対に中世史ではそのような組織運営に関わる帳簿が寺院を除いては検討の素材を欠いているのではないかとの印象を持った。
(文責:渡辺浩一)