国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

シンポジウム『昔話と現代』定年退職記念基調講演

「昔話と現代」へ

問題提起「いまなぜ昔話か」 江口一久

はじめに
わたしは1967年にはじめて西アフリカにいってから、フルベ族のあいだで、30年以上にわたって昔話のかたられる場に身をおいて、昔話をめぐる諸事情を観察してきた。わたしなりに、わたしの昔話へのおもい、現代にたいする見方をまとめるとつぎのようになる。

メッセージの伝達
昔話は、まとまった筋をもつストーリー、かたまった内容のことをはなす。昔話は、表面的には遊び、娯楽だけれども、さらに深いところには、いきていくためのメッセージがこめられている。メッセージは語ることで、上の世代から下の世代へ伝達されていく。

そのメッセージには宇宙観、人生観、処世訓、信仰、習慣などといわれるものまでがふくまれている。それは、きわめて漠然としていて、その焦点がわからない。メッセージをなぜつたえるのかといえば、コミュニティーの全体の生存をたしかにするものとかんがえておくことにしょう。

コミュニティーは結局のこと個から構成されている。けれども、どうも、個よりも全体が大切にされているようにみえる。しかしながら、昔話のなかでは、コミュニティーが主人公になるということはほとんどないだろう。やはり、個というものが主人公なのだ。個にはさまざまな場合がある。でも、ある集団の代表的な場面に対応するような昔話が存在するといっていいだろう。

リラックスした場でかたる
語りの場は親密なリラックスした空間である。原初的には、家族ないし、隣近所の人たちがあつまってできるといえる。そこには、おたがいへの信頼、親近感がある。

語り手と聞き手のあいだには、一世代のへだたりがおかれることがおおい。人間関係のうちで、いちばん直接的なかかわりをもっているのが、親子の関係である。昔話のなかで、親子のかかわりについてのべたものがおおいので、直接のやりとりをさけるため、この一世代のへだたりがあるといえる。

家族といっても、血縁だけでむすばれた関係だけでないものも、ふくまれている。家族は、きわめて、あいまいなものといえる。

語り手と聞き手
語り手は聞き手より、年長者で、豊かな人生経験をもっている。無論、年長者がかたったものをくりかえしはなす若者もいる。

聞き手は年若い人がおもだけれども、おなじ場に、年長者がいる場合もありうる。語り手は、昔話をかたりたいという衝動をもってかたる。聞き手も、聞きたいという衝動があってきく。それは、娯楽をもとめているためと、いきていくためのエネルギーをえるためだといえる。

語り手は、かたったあとすっきりした気分になる。聞き手も、自分の信頼している相手から、ききたい話をきくと、気持ちがすっきりする。この気分がすっきりするというところに、昔話の機能がかくされているといえる。

おもいをのせる単純な語法
フルベ族の昔話と吟遊詩人のうたう歌を比較してみると、そこには、ジャンルの差のためだろうが、その語彙、表現力には、おおきな差があることがわかる。昔話と日常会話とをくらべてみても、昔話の話法、語法の簡単さ、単純さには、目をみはらせるものがある。話の進め方でも、筋がたいそう単純で、結論がはじめから予測できるようになっている。

この単純さ、単調さというところが、昔話の一大特徴といえる。

昔話のなかでは、わたしたちの心の奥底にもっている気持ちもまた、単純にかつ、明快にあらわされている。ふかいところにある欲望や願望も、率直にあらわされている。

この欲望や願望のなかには、親しい人のあいだのあいだでしか、あるいは、目にみえない存在に祈願するときくらいにしかいいだせないようなこともあらわれている。その最たるものは、殺人といえる。その他、ねたみ、嫉妬、競争心、盗み、物欲、うそなど、世のなかで、マイナスとかんがえられているようなものがある。また、性のことについても、さりげなくのべられている。

昔話の主人公が敵やライバルとはりあうとき、その結末もすっきりしている。どちらかが、殺し、どちらかが、死んでしまう。これは、話法、語法の問題だが、昔話の本質と密接にむすびついているといえる。

欠損から充足へ
昔話の主人公には、継子、継母、捨て子、親のない子、孤児など、ややドラマティックな人たちがえらばれる。現実に問題をおこしやすい家族のなかの関係、すなわち、父親と娘、母親と息子、男と女の兄弟などがこのんでかたられる。家族の再生産のできない、子のない夫婦などもえがかれる。老人がえがかれる場合、世代交代への嫉妬などもぬけめなくとらえられる。

これは、昔話がうごいていくために、問題のある関係をもつ主人公を登場させる必要があるからだ。昔話における欠損はストーリーで充足にむかうわけだから、完全な主人公が登場するわけにはいかないので、当然そうなるのだ。このような欠損から充足へと筋がうごいていく話はハッピーエンドの話とよばれる。昔話のおおくは、ハッピーエンドでおわる。ハッピーエンドは昔話の語り手も、聞き手も幸せなきもちにさせる。

発端句と結末句でくくられるターロル
フルベ族は、昔話をかたることは、タールゴといい、昔話はターロルという。ターロルは、発端句ではじめられ、おしまいもまた、不思議なターロルだけにつかわれる結末句でしめくくられる。このある発話の性質を限定することは、昔話の本質とかかわっている。ある話がターロルの発端句と結末句でしめくくられていると、その話が、昔話であるとことわっているのだ。このことわりは重要だ。いわば、但し書きのようなものだ。

昔話は夜にする
くらい夜のさびしさからのがれる
西アフリカの奥地にいると、昼の太陽のまぶしさからみると、かぎりないほどくらい夜を経験することができる。この暗い夜は、じっとしているとたいへんさびしいので、人恋しくなる。フルベ族は、さびしくしている人に、声をかけて、その人をさびしさから解放することをイェーウトゥゴという。昔話の語りなども、このイェーウトゥゴの一種だといえる。人は、さびしさをまぎらわすために話をしていると、さびしくなくなるだけでなく、楽しくなっていく。

昔話は夜の活動
フルベ族のあいだでも、昔話は暗い夜にかたられる。昼にはかたらない。いいかえると、昔話は夜に属する活動だ。

わたしのカメルーンのマルアの家は、金曜日の礼拝堂のすぐちかくにある。毎朝、夜明けまえに、その礼拝堂から、「アッラーフ・アクバル」(アッラーは偉大なり)という声がきこえてくる。そのお祈りのあと十分もすると、空があかるくなる。薄明というものがないからだ。おなじように、夜のお祈りがおわると、まっくらな夜がおとずれる。

アフリカでは、この昼と夜の差が生活に反映されている。あらっぽくいえば、昼間は労働、仕事をするときだ。すなわち、たべていくための活動をするときだ。夜は、動きをとめて休む。むろん、薪の火で、綿から糸をつむいだりする、いわば、夜なべ仕事をする人もいるけれども、大部分の人たちは、夜には、仕事をしない。

昔話を昼にかたってはならないというタブー
北部カメルーンの諸民族のあいだでは、昔話を昼にかたることは、タブーとされている。フルベ族、マンダラ族は、「昼に昔話をかたると、食事をせずに夜をすごさなければならない」という。マタカム族は、「昼に昔話をかたると、母親の乳房がおちてしまう」という。ムヤン族は、「昼に昔話をかたると、かたった人は死んでしまう」という。大なり小なり、昼に昔話をかたると、たいへんなことがおこるといっているのだ。

タブーをやぶればどうなるか
このタブーの意味をすこしかんがえてみよう。そこには、昔話の本質がかくされている。さきにのべたように、昼は、活動をするとき、夜は、休息をとるときだ。昔話は、休息中におこなうものだ。昼間から昔話をかる、つまり、昼間から休息をとっていると、当然仕事をしないので、食べ物がたべられなくなる。だから、くっていけなくなるのは、自明のことだ。

「母親の乳房」のことは、もっとかんがえなくてはならないことだが、乳をすっている子どもにとって、母親の乳房がなければ死んでしまう。これも、食べ物がたべられなくなるという表現によくにているといえる。

西アフリカでは、人びとは、コマネズミのように、朝から晩まで水汲みをしたり、薪をあつめたり、モロコシをついたり、家畜の世話をしたりガタガタ、ガタガタ食べるための活動をしなければならない。もっとも、昼間からおおくの男たちが、木陰にすわって、話をしているけれども、これは、仕事がないのであって、昔話をしているわけではない。

ついでながら、西アフリカの昔話のなかには、タブーをやぶれば破滅がおとずれるとする話がおおいことを指摘しておきたい。

語りで癒される
昔話が夜かたられるということは、むろん、昔話の機能の本質とふかくかかわっている。夜になると、体はうごきをゆるめて、リラックスして横になったりして、疲れをとる。心も、昔話の語りをすることによって、休憩、休息をとっているといえるだろう。体は、休息をとり癒される。心も、不思議な話をきいて、癒されなければならないのだ。

奥底からふきあげてくる気持ち、おもいを代弁する昔話
昔話の内容は「うそ」だという人もいるほど、「昼間的」にかんがえると、不思議なもので、「うそ」にちかいかもしれない。でも、夜、リラックスしているとききく昔話は、心の奥底からふきあげてくる気持ち、おもいを代弁してくれる。その意味で、昔話は、心の真実をあらわしているといえる。

「おもいをのせる単純な語法」のところですでにのべたが、昔話には、「昼間的」には、一般にマイナス的なかんがえとされていて、考えるだけで罪深いものがとりあつかわれている。たとえば、王さまのうつくしいよめさんをぬすみだす話がそれだ。

若者が、知恵をしぼって、権力者がもっている年齢不相応な年若いよめさんを、ぬすみだす。

「ロバの皮をきた娘」の話では、王子は試練をとおりこして、この娘から皮をとりさり、娘を本当の意味での妻にする。ところが、これをみた父親である王さまは、この娘の美しさにほれて、横取りする。王子は、妻の協力をえて、父親をころすと、妻をとりかえし、自分も王さまになる。

この「ロバの皮をきた娘」の話には、うつくしい息子の娘をみるとすぐによこどりしたくなる父親、妻をとりかえすために、父親をころしてしまう王子がでてくる。

この横取りしたいとおもう感情も、ころしてしまいたいという感情も、これは万人がもつ感情だ。昔話は、そのような感情を代弁している。そして、昔話のなかでは、その感情を成就させてしまう。しかし、それは、昔話のなかでの出来事にしかすぎない。それは、昔話のなかだけでゆるされている。そんなことが、昼間の世界で実行されたら、たいへんなことになる。昼間は昔話を口にすることすらゆるされていないのだ。このような感情は、昼間だって心の奥底にはある。でも、昼間、それをかたるのを禁じているのだ。

心のおもいの解決
昔話は、その筋のなかで、いきていくうえで解決を必要とする問題への示唆をあたえているといわれてきた。その問題のうちもっともおおきなものは、心でおもっていても、実現できない深いところにあるおもい、情念をどのようにして、満足させるかということである。これが、空想的満足のおかげで、心が納得するので、人は、それを解決のかわりにうけいれているのではないかとおもうようになってきた。それは、昔話のなかでの、情念の消化といってもよいものかもしれない。

むろん、昔話のなかでの問題解決は、単純で、楽観主義のところがある。昔話はねるまえにきくストーリーだ。時間的にみても、昔話と夢とは確実につながっているといえよう。現実は、当然のことながら、現実的で、おおくの場合、悲観的でもある。

おわりに
わたしは、昼は写真にたとえたらポジで、夜はネガだといっている。ポジとネガの世界はちがうのだ。ポジとネガとは、混同してはならないのだ。

ポジとネガを混同しないことが西アフリカの人たちの節操なのだ。けれども、西アフリカでも、日本とおなじように、学校教育、テレビ、ビデオなどの導入のおかげで、昼と夜の混同すなわち「現代化」がおこってきている。日本とおなじように、ゆっくりではあっても、西アフリカでも、昔話の語りが衰退していっている。同時に、昔話をめぐる節操もなくなっていっている。

昔話の節操の存在していたときには、心の奥底だけにかくしておくべきことは、昔話のなかで語り、昔話のなかの主人公に実行させていた。

現代というのは、かたるだけでも、いやらしい人殺しなども、ニュースの材料になる。これが、わたしのいっている「現代」なのだ。昔話こそ、現代人の救済とふかくかかわっているといえないだろうか。

現代は複雑で、昔話とは無関係の時代とかんがえている人がたくさんいる。事実、昔話が隆盛をきわめた過去とはちがって、家族の規模も、社会のあり方も、変化してきている。それにもかかわらず、おおくの出版物や、映画、テレビなどに昔話を題材としたものがかずおおく登場する。それは、昔話のあつかってきたテーマに今日性があるだけでなく、直接昔話の効用がわかっていなくても、無意識のうちに古来の伝統に回帰しているのではないだろうか。

わたしは、語られる場にいたこと、また、語ってきた経験から、昔話の語り手にも、語られる側にも、語りにセラピーとしての効用があるのではないかと信じている。しかしながら、昔話が夜にかたられるもので、昼にはかたらなかったという意味をいまもう一度よくかんがえないと、このセラピーの効用はすくないだろう。やはり、ポジとネガの世界の混同をさけなければならないからだ。

昔話の語りは、語りの場、語りのとき、語り手、聞き手、筋などの条件がみたされ、昔話がうみだされた意味をよくかみしめたとき、はじめてその本来の効果がでてくるものといえるだろう。