巻頭コラム
- World Watching from Italy 2006年12月15日刊行
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宇田川妙子
● 「社会的」な領域の勃興:イタリアの市民社会
ここ数年、イタリアでよく聞くようになった言葉の一つに、sociale(ソチァーレ)がある。これは、英語でsocial、すなわち「社会的」という意味であり、それほど特殊な言葉ではない。しかし、「これからは「社会的」な側面に目を向けていく必要がある」とか、「今度の政府は「社会的」な問題に敏感だ」とか、最近やたらと耳にするのである。
ベルリンの壁が崩壊した1989年以降、ヨーロッパでは、ヨーロッパ統合が進むなか、いわゆる市民運動が再活性化しつつある。特にイタリアでは、80年代は労働運動が形骸化し、市民社会の力が低下したといわれていたものの、92年、政治腐敗に大規模なメスが入り、政治への不信が強まって政治構造が激変したこともあって、急激な盛り上がりを見せるようになった。
たとえば、その一つは、頻繁なデモ行進である。近いところでは、イラクへの武力行使が開始される直前の2003年3月には、ローマでの反戦デモに300万もの人が集まり、日本でもその映像が流された。現在でも、土・日曜日ともなれば、年金制度や労働問題などの内政問題や、反戦や環境問題を掲げたデモが大都市のあちこちで行なわれている。ローマなどでは、外国人観光客が、数時間にもわたる交通規制によってバスの思わぬ路線変更に戸惑っている様子をよく見かける。平日でも、小規模なデモが、交通量の少なくなる昼過ぎの時間に行なわれ、今年の10月私がローマに滞在していたときには、大学制度改革に抗議する学生・教員たちのデモとシット・インを何度か目撃した。また、デモは決して都市だけの現象ではない。私が調査しているローマ近郊の小さな町でも、20年ほど前は約2年の滞在期間1度もデモがなかったのに、最近は1・2ヶ月に1回は組織されている。しかも、ことは、こうした市民の抗議行動だけではない。実は、ある民間調査機関によると、現在イタリア人の3分の2が何らかのボランティア活動に従事しているといわれ、ここ10年ほど、様々なNPOの組織化が進み、活動が活発化しつつあるのである。
これらのNPOは、障害者、(元)薬物中毒者、(元)受刑者、長期失業者、高齢者、子供、移民、女性など、社会的に不利な立場に陥りやすい人々を支援したり、それら当事者自身が自らの自立を目指して組織しているものである。ゆえに、その活動内容はきわめて多様だが、基本的には、これら様々な社会的弱者も含めて、社会全体が連帯し、共に生活をしていこうという共通の考え方にもとづいている。制度的にも、1980年代後半から、こうした社会的な目的をもつNPO組織を制度化し、税制上などの優遇措置をみとめる法律が次々と成立してきた。なかでも1991年の法律による「社会的協同組合」という協同組合の取り組みは、現在、大きな注目を集め、その組織化は全国に広がりつつある。そして今年の3月には、これらNPOの活動と機能を拡大し発展させていくために「社会的企業」法も成立した。
この動きは、いわゆる「小さな政府」化の裏面に過ぎないという見方もできる。たしかにイタリアでも、福祉等の予算は国および地方レベルでも削られはじめ、これらのNPOがその尻拭いに使われているという懸念がないわけではない。
しかし、実際にこの領域に従事している人々は、たとえ政治家や評論家がそういう見方をしているとしても、確実に自分たちの力は強くなってきており、周囲の人たちの関心も高まっていると力強く語る。実際、メディアでも最近、社会的協同組合やNPO活動などに注目する報道が多くなっている。イタリア経済全体でも、生産・消費両面にわたって、これら「社会セクター」が占める割合が確実に伸びているという報告もあり、「倫理経済」という言葉もメディアに登場するようになってきた。冒頭に述べた「社会的」という言葉は、以上のような関心の高まりの総体、領域を示すものである。それは、「市民」とか、「第三セクター」とか、他の言葉に代えることも可能かもしれない。しかし、いずれにせよ、ここ数年イタリアを訪れるたびに、彼らが自分たちで助け合いながら共に社会を作り直していこうとする熱気(とそれゆえの混乱)を強く感ずる。そして我々が考えるべきは、こうしたイタリアの状況を通して、日本の現状を見るとき、何が見えてくるのか、ということかもしれない。
宇田川妙子(先端人類科学研究部)
◆参考サイト
2006年11月11日、ローマおよびミラノでの中東平和をもとめる デモ行進の様子(Corriere della Sera紙)
社会的協同組合の発展に関する統計調査2003年 (ISTAT イタリア国立統計研究所)
CGM 社会的協同組合の全国組織
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