国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

巻頭コラム

World Watching from Arizona  2013年8月16日刊行
伊藤敦規

● 戦争と米国先住民

2013年6月28日、米国アリゾナ州のフラッグスタッフにて一睡もできぬまま朝を迎えた。不眠の理由は米国到着から間もないことによる時差ぼけではなかった。この日は90マイル(約145キロメートル)ほど北東に位置するホピ保留地に移動する予定で、筆者にとって特別な日となっていたためだ。ちょうど10年前、初めてホピ保留地を目指してこの町で左ハンドルの車のエンジンをかけたことを鮮明に覚えている。同じ日に同じルートで第2の故郷を再訪することができることに興奮していたのである。

10年という歳月の間に様々なことを経験してきたが、振り返ってみるとあっという間である。もちろん、保留地に暮らす人々にとっても時の流れへの認識は同様であろう。10年前のフラッグスタッフはイラク戦争の影響もあり、市内を横断する線路には100輌ほどの戦車を運搬する貨物車が轟音を立てて何度も通過していた。911の時のような米国本土を対象とした攻撃は無かったものの、田舎町であるフラッグスタッフにも戦時国としての緊張感がある程度存在していた。当時は米軍への支援を表明するリボンのステッカーを貼る自家用車もたくさん目にした。

ホピの人々にとって2003年は特別な年だった。同年3月23日、武器弾薬および輸送を除く補給と各種支援を担当する、米国陸軍の戦闘後方支援部隊の軍需品科(Quartermaster Corps)の特技兵ロリ・パイエステワが、イラクで銃撃され死亡したのである。彼女は2003年のイラク侵攻時に初めて亡くなった米軍女性兵士であったばかりでなく、歴史上初めて戦闘時に殺害された米国先住民女性の米軍武装兵でもあった。パイエステワ特技兵の母親はメキシコ系だが、父親はホピだったのだ。

彼女が亡くなって今年はちょうど10年。殉死した3月には州都フェニックスで10周年の追悼式典が開かれ、彼女の親族や父親のクランの成員をはじめ、政治家や軍の関係者が数多く列席した。その式典はフェニックス市内にそびえる標高800メートルほどの岩山の改名式も兼ねていた。それまでスクウォー連峰という名称だった連峰が、パイエステワ連峰へと改名されたのだった。「スクウォー」とは米国先住民女性一般を指す蔑称で、これまで何度も先住民によって名称変更が試みられてきたが失敗してきた。そのためパイエステワ特技兵が自らの生命と引き替えに先住民の権利回復に貢献した、という見解を述べる人もいる。

初めてのホピ保留地訪問から10年目、当時仲良くしてくれた子どもたちも二十歳を過ぎ、家族を持つようになっていた。彼らの中には高校卒業後に米軍に入隊し、海兵として佐世保や沖縄に配属された経験を持つ者もいる。第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などで日本の米軍基地での駐留経験を持つ年長者にしばしば出会うこともある。米国先住民による軍事面での国家への貢献としては、第二次世界大戦時のナバホのコードトーカー(暗号部隊)がよく知られている。しかしながら、一般兵として従軍する米国先住民も数多くいる。来年高校を卒業する予定のズニの友人は、ニートになるぐらいだったら入隊した方がましだ、といって海兵隊員を進路に選んだ。パイエステワ特技兵のように彼の名が冠された新たな地名を報道で知るのではなく、本人との友情を深められることを心から願いつつ、続く10年を過ごしていきたい。

伊藤敦規(研究戦略センター助教)

◆関連ウェブサイト
『Indian Country Today』紙、ロリ・パイエステワの10周年追悼式
ナバホ・コードトーカー公式サイト

アメリカ合衆国(日本国外務省ホームページ)