巻頭コラム
- World Watching from Hiroshima 2014年2月21日刊行
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丹羽典生
● 忘れられた日本人移民
先日、広島県立図書館に所蔵されているフィジーへの日本人移民関係の文書を見に行った。あまり知られていないことであるが、1894年(明治27年)、広島、山口、和歌山から日本人が彼の地へ出稼ぎに出ていたのである。歴史的資料も乏しく、ましてや移民への聞き取り調査もなされていない。
しかし間接的とはいえ、移民当事者の語りは意外なところに残されている。近年人気のある宮本常一の数ある著作の中でも特に名高い『忘れられた日本人』や編著『日本残酷物語』を読まれた方も多いかと思う。そこには、彼の父親である宮本善十郎のフィジー移民の経験が記録されているのである。そう、宮本善十郎こそが、1894年のフィジー移民の一員であったのだ。
宮本常一の手によるおそらく一番古い文章によると、「この移民は、日本移民失敗の頁を綴るものであって、渡航二五〇名中、わずかに一年にして一〇〇余名の死亡を見た。/これ風土病たる脚気におそわれたるためで、ついに一同断念して、引き上ぐるの止むなきに至った。/父もまた病んだ。途中暴風雨にあい、病める多くが逝き、神戸についたときはわずか一〇五名にすぎなかった」(「我が半生の記録」『宮本常一著作集42』2002年出版、1935年に擱筆(かくひつ)された原稿)と父親の移民経験について記されている。
私は広島県立図書館内の古文書館でこの移民に関する数少ない残された文書を閲覧する機会に恵まれた。そこでは移民がどのように募集され、検査されたのかからはじまり、彼らの年齢、出身地、長男であるかどうか、徴兵との関係まで記されていた。資料を読むにつれて、先の宮本常一の文章の情報の粗さが目に付く。さらに海外を含めた記録と比較すると、渡航者、死亡者、帰還者数をはじめ、死亡原因といった事実関係の点にまでずれがみられる。彼の文章は、フィジー移民に関する数少ない移民からの直接の聞き取りをもとにした文章であるだけに、記録と記憶の関係をめぐって、あらためて考えさせられた。
丹羽典生(研究戦略センター准教授)
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