開館40周年記念特別展「よみがえれ! シーボルトの日本博物館」|展示概要
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、1796年2月17日、ドイツの地方都市、ヴュルツブルクで生まれました。大学では医学を専攻しますが、カリキュラムの一部であった化学や植物学のほか、動物学、地理学、民族学にも関心を寄せるようになりました。大学卒業後、陸軍軍医となってバタヴィア(現インドネシア・ジャカルタ)へ旅立ち、そこから、出島のオランダ商館付の医師として、日本へ派遣されました。
本章では、シーボルトの生い立ちや、来日後の暮らしなどを紹介します。
シーボルトは、オランダ人の居留が義務付けられていた出島の外に位置する鳴滝に私塾を設けることを許され、西洋医学や自然科学を教授しつつ、日本人の研究者と交流をもちました。門弟たちは標本や資料の収集のみならず、シーボルトから与えられた課題についての論文を提出することによって、シーボルトの日本研究に貢献しました。
本章では、その研究成果を、シーボルトが持ち帰った資料や、刊行物などをとおして紹介します。
ヨーロッパに帰ってからのシーボルトは、日本を紹介するために精力的に活動しました。出版物の刊行のほかにシーボルトが熱心だったのが日本展示です。オランダとドイツで日本展覧会を開催し、また民族学博物館の設立意志をもっていたバイエルン国王に、日本コレクションの有用性を説き、購入するように働きかけています。
本章では、ヨーロッパに戻ったシーボルトが、日本を紹介するための展示をおこないつつ、彼の博物館構想を完成させていった経緯を明らかにします。
ミュンヘンにおいて開催されたシーボルト最後の日本展示の実際については、彼の死後に長男アレクサンダーによって作成されたコレクションの売却リストと、新たに発見されたシーボルト直筆のコレクション解説によって、展示の順序や、ケースごとの分類、その意図を知ることができます。
本章では、現在ミュンヘン五大陸博物館に収蔵されるシーボルトの来日二度目のコレクションについて、シーボルトの展示構想をもとに配置し、150年前のシーボルトの日本博物館の復元を試みます。これにより、シーボルトの日本展示が,近代的な博物館の歴史、そして民族学研究という観点において、きわめて先見的で、現代につながるものであったことが理解できます。
1823年、27歳で長崎の地に立ったシーボルトは、以後、亡くなるまでの43年間、日本研究とそのヨーロッパへの紹介に心血を注ぎ続けました。彼の日本博物館設立構想は個人の力の限界を超える壮大なものでしたが、民族の博物館展示という新しい手法で日本文化を多面的に紹介しようというものでした。
1866年10月18日、シーボルトはミュンヘンで70年の生涯を閉じました。
※画像提供 ミュンヘン五大陸博物館蔵 ©Museum Fünf Kontinente, Munich(MFK)