田中千代コレクションには、約270点の人形が含まれる。田中薫・千代夫妻は、これらの人形を「風俗人形」と呼び、「その地方独特の風俗を精巧に」表した標本資料として収集してきた。この点について、二人は『世界のきもの』のなかで、こう述懐している。
「わたくしたちも最初のヨーロッパの旅で、しきりに風俗人形をあつめた。そうしているうちに、まもなく、風俗人形はその地方独特の風俗を精巧に写したものほど値うちがあるように思われ、結局いちばん写実的なものを買うこととなった。それはたいていの場合、そこで売っている人形の中でいちばん高い人形であった。それでも本物の衣裳を手に入れるのとは比べものにならないほど安いものであった」[田中薫・田中千代:1965]。
同書の巻末には、薫と千代のコレクションの年譜が付されている。これをみると、収集品は市場調査や親善使節、あるいは学会などの用務で外国に赴
(おもむ)いた合間に求められたことがわかる。当時の洋行は、客船による船旅だった。それらは寄港地での短い時間のうちに集められたのだろう。
コレクション展示の開催に伴い、約270点の「風俗人形」が民博に寄贈されるはるか以前から、薫の収集した標本は民博の収蔵庫のなかで眠っていた。それらは横浜人形2点(横浜市、昭和2年)、イースターエッグ1点(イギリス、昭和4年)、達磨
(だるま)1点(金沢市、年不詳)の4点である。横浜人形のひとつは、日本髪にキモノ姿の女性である
(写真:右)。両手を胸に押し当て、口を開いた表情から、何かを歌っている芸妓かもしれない。
もうひとつは、軍服(警官服か?)に羽織姿の男性である
(写真:左)。男は髷
(まげ)を結い、きゅっと唇をかみしめた表情で、何かをにらんでいるようだ。腰には白い帯で刀を留め、右手に銃、左手に巾着
(きんちゃく)を握りしめ、草鞋
(わらじ)を履いているのだが、妙に調和のとれた格好をしている。
達磨
(だるま)の木箱には、「松竹梅達磨・石川縣・田中薫」と手書きされた紙ラベルが付されているのだが、残念なことに、松竹梅のうち、梅の達磨のほかは行方不明である。イースターエッグは、昭和4(1929)年にイギリスで入手されている。
これら4点の標本は、アチック・ミューゼアム・コレクションのなかにあったものである。薫は渋沢敬三が主宰した、アチック・ミューゼアム同人の初期の一人であった
(写真:右)。この頃のアチックの関心は、郷土玩具
(がんぐ)の収集に向けられていた。大正10(1921)年2月2日、本郷のフランス料理店で持たれた「第一回会合」には、鈴木醇、宮本璋、清水正雄、中山正則、内山敏、渋沢敬三、そして薫を加えた7人がいた[近藤:2001]。渋沢敬三よりも2つ年下の薫はこのとき23歳である。また、薫は、大正13年に東京帝国大学を卒業したのだから、このとき、まだ学生だったことになる。
その6年後の昭和2(1928)年、薫は文部省より国費留学生として、英・仏への渡航を命じられた。もちろん、千代をともなってのことである[西村勝:1994]。ちょうどこの頃より、アチックでは、郷土玩具
(がんぐ)から衣食住に関連する生活用具へと関心が移行し、「民具」研究への模索がはかられた[渋沢史料館:1988]。
「風俗人形」から、やがて「民俗衣装」へと結実する田中千代コレクションの背景に、アチック同人として活動した薫の郷土玩具へのまなざしを見逃すことはできないだろう。なぜなら、「風俗人形」への着眼は、アチック初期につちかわれたものと連続しているように思われるからである。つまり、薫の地理学的研究の源泉のひとつがアチックにあり、アチックの考え方が薫を通じて千代の「民俗衣装」のコレクションにも反映されたとの可能性があるのである。そのような視点から、田中千代コレクションを研究したらおもしろいのではないかと、私は思っている。
【参考文献】
田中薫・田中千代『世界のきもの』保育社、1965年
渋沢史料館『特別展図録 屋根裏のはくぶつかん-渋沢敬三と民俗学-』渋沢史料館、1988年
西村勝『田中千代 日本最初のデザイナー物語』実業之日本社、1994年
宇野文男『みんぱくコレクション(みんぱく発見2)』千里文化財団、2000年
近藤雅樹編『大正・昭和くらしの博物誌-渋沢敬三とアチック・ミューゼアム-』河出書房新社,2001年