国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

コレクション展示「世界の民族服と日本の洋装100年 ─ 田中千代コレクション」


木村裕樹(きむら ひろき)
総合研究大学院大学文化科学研究科博士後期課程
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木地屋(きじや)と呼ばれる轆轤木地細工(ろくろきじさいく)職人を題材に、日本のモノづくりとそれに関わる人々の生活誌について調査研究している。本館の2001年度企画展「大正・昭和くらしの博物誌ー民族学の父・渋沢敬三とアチック・ミューゼアムー」では、アチック同人で、山の民俗を研究した高橋文太郎について紹介(同企画展図録参照)。主な著作:「滋賀県志賀町における石材加工業にかかわる村落空間と運搬具」(『近畿民具』第21輯、1997)、「アチック・ミューゼアム・コレクションにおける高橋文太郎の収集民具とその視点-マタギ関係資料を中心にー」(『民具マンスリー』33-12,2001)、「会津漆器産地における木地屋の集団的性格と木地屋集落の変容」(『歴史地理学』43-4、2001)など。

歩く人・田中薫

木村裕樹
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経済地理学者として知られる田中薫の著作には、『工業地理』(1934)、『台湾の山と蕃人』(1937)や『氷河の山旅』(1943)などがある。薫は神戸商業大学(のちに神戸大学)で教鞭をとるかたわら、山岳部長や顧問もつとめていた。地理学者としての薫の活動を理解するためには、どうしても、彼と山との関わりを無視できない[田中薫編:1958]。

  「私は大正元年に、東京高等師範学校附属中学校に入学したが、そこの地理の先生は、その数年後、氷河学者として有名になった故大関久五郎先生であった。私は「山」よりも先に「氷河」について学んだと思ふ。大学時代に故山崎直方博士や、辻村太郎先生の如き優れた氷河学者の教へを受けたが、氷河に対する不思議な憧れの心持ちは、やはり子供の頃、大関先生から植ゑ付けられたものだと思っている。そんな訳で、私に於ける「山」と氷河との関連は、学問的でなく、素人的であるが、寧(むし)ろ、主観的に深いものがあると思ふ」[田中 1943](ルビは木村による)

薫は、東京帝国大学理学部の地理学科に所属した。そのためか、薫の初期の著作には自然地理学的な論考が多くみられる。昭和8(1933)年の台湾調査の際には、民族学者の鹿野忠雄(かのうただお)も同行しており、その成果は翌年、共著「台湾南湖大山山麓に於ける氷蝕地形に就いて」と題して雑誌『地理学評論』に発表された[鹿野・田中 1934]。

こうした地理学者としての活動とは別に、郷土玩具(きょうどがんぐ)のコレクションからスタートしたアチック・ミューゼアムの活動のなかでも、薫はとりわけ興味深い一面も見せている。当時の日誌には、「馬の玩具(がんぐ)は佐藤弘と宮本璋、猿は鈴木醇と渋沢、独楽(こま)は小林正美と渡部尚一、牛は江木盛雄、蛇(へび)が佐藤富治、履物(はきもの)が田中薫」との記述があり、どういうわけか、薫は履物の分担なのである。この履物研究はやがて、「足半(あしなか)の研究」へと展開していく、民具研究の萌芽となる[近藤:2001]。 「風俗人形」に地方固有の衣服を見出した薫が、同じく身体に装着する履物に目を向けたことは想像に難くない。しかし、薫が登山を愛好したことを考えあわせれば、履物へのこだわりも、ごく自然の成り行きであったのかもしれない。

「草鞋(わらじ)で行かうと、山靴で行かうと、軍靴で行かうと、又、獨り旅であらうと、仲間旅であろうと、はたまた大部隊の行軍であらうと、人間が山から與(あた)へられるものは唯一つ…永遠にして静寂なる意志…これに他ならないと私は信ずる。私は氷河に於てこの意味を最も端的に見るのである」[田中 1943](ルビは木村による)

薫の山に対する強烈な想いが伝わってくる一文である。アチック同人で、山の民俗を研究した高橋文太郎が「わかんじき」の研究を推し進めたように、「山男」・薫もどうやら足元が気になって仕方がなかったらしい。とはいえ、薫が履物を収集したのか否かという事実は、いまだ謎につつまれたままなのである。

【参考文献】
田中薫『工業地理』岩波書店,1934年
鹿野忠雄・田中薫「台湾南湖大山山麓に於ける氷蝕地形に就いて」『地理学評論』10-3,1934年
田中薫『台湾の山と蕃人』古今書院,1937年
田中薫『氷河の山旅』朋文堂,1943年
田中薫編『大氷河を行くー南米チリ・パタゴニア探検』毎日新聞社,1958年
近藤雅樹編『大正・昭和くらしの博物誌―渋沢敬三とアチック・ミューゼアム』河出書房新社,2001年。