コレクション展示「世界の民族服と日本の洋装100年 ─ 田中千代コレクション」
東京大学東洋文化研究所非常勤講師 民博外来研究員
インドネシアのスンバ島で織られている布を取り上げ、産地社会の現状を複眼的に捉えるため、生産、布の利用、布の売買や海外への流通・消費と、幅広くフィールドワークを行ってきた。スンバ島、インドネシアから、日本、そしてアジアと視野を広げつつ、モノづくりを担う人々の暮らしについて考えていきたい。文化人類学専攻。博士(学術)。風響社より『ものづく りの人類学-インドネシア・スンバ島の布織る村の生活誌』を刊行予定。こうご期待!
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民俗衣装蒐集のはじまり:インドネシア旅行
田口理恵
1938年7月20日、南洋海運ジョホール丸は、田中薫、千代夫妻をのせて神戸港を出航し、8月3日にスラバヤ港に到着する。田中夫妻による民俗衣装蒐集の旅は、このインドネシア(当時の蘭領東インド)旅行をきっかけにして始まる。千代の方は、商工省からの嘱託で、日本からの輸出繊維が輸出先でどんな衣服に仕立てられているのかについての視察調査を目的としていた。神戸大学で教鞭をとっていた薫の方は、外務省から16ミリ映画をとる仕事を委託されていた。
さて、スラバヤで下船した2人は、約1ヶ月をかけてジャワ島各地を旅行する。スラバヤ-スマラン-バタヴィア(現ジャカルタ)-バンドン-スマランと、主要都市間を汽車で移動しつつ、周辺の町々を自動車で回るような旅行だった。ジャワでは遺跡や各地のバティック工場、煙草工場、製茶工場などを足早に見学している。9月1日にはバリ島に移動し、3泊4日を バリで過ごした後にセレベス(現スラウェシ)島に向かった。マカッサル港には6日に到着し、18日0時に同港を出港し、マニラ、台湾高雄に立ち寄りながら日本への帰路についた。セレベスでは、夫妻は島の西海岸部と内陸のトラジャの地を探索している。この約7週間ほどの旅の間に薫は1千枚近くの写真を撮ったという。そして、薫は旅の記録として『東印度-じゃ わ・ばりい・ろんぼっく・せれべす』をまとめている。そこには、数百点におよぶ写真とあわせて、現地商工業の事情から人との出会いが記されている他、各地で目にした人々の服装が書きとめられている。 実は、薫にとっての東南アジアは、このインドネシア旅行が最初ではない。1934年、第10回極東オリンピック選手団の監督としてフィリピンに出かけている。そのとき、「ジャワの選手がずっと北のこのマニラに来て、暑い暑いと云ってゐるのを見るにつけ、私は南洋の風土が単純なものでないことに気づいて、南方の探求は面白いと思った」と書いている(1)。 私はこの何気ない薫の一文が、のちに民俗衣装コレクションとして結実する、2人の取り組みを理解する上で、重要なものではないかと考えている。1938年のインドネシア旅行は、千代にとって、田中千代洋裁研究所を開校させた1年後のことであり、1932年に洋裁塾から始めた洋裁技術の普及活動を、教育事業として軌道をのせた時期にあたる。一方の薫は、フィリピンに出かけ、東南アジアの「風土」が一様ではないこと、人によって「暑さ」の捉え方に違いがあることを発見した。気候、地質、植生などの諸条件と分布から捉えてきた地域性から、それをどう感じるのか、そこで生きるとはどういうことなのかへと、薫の関心が広がったのではないだろうか。薫にとってのインドネシア旅行は、地理的分布と生態の理解とをあわせて地域性を捉えるという、新たな課題に取り組める絶好の機会となっただろう。そして、妻が取り組んできた衣服こそが、そのための手段になることに気づき、衣服に関心を向けたと考えても何ら不思議はない。 とするならば、田中夫妻のインドネシア旅行は、たんに職務上の資料として、民俗衣装の実物の標本蒐集を始めたという意味だけでは決してすませることはできないことになる。地理学者として南方の環境に接して、その生態に関心を抱いた薫と、デザイナーとして活動し始めた千代と、夫婦それぞれの関心と活動が、衣服という点で交差した機会であったと考えられる。のちに衣服地誌、衣服の生態学(2)と表現される、コレクションを支える衣服へのまなざしと枠組みが、どのように形作られてきたのかを、さらに追求する必要があるだろう。 注 (1)田中薫 1944 『東印度-じゃわ・ばりい・ろんぼっく・せれべす』、目黒書店 (2)田中薫・田中千代 1961 『原色世界衣服大図鑑』、保育社 |