国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

企画展「ラテンアメリカを踏査する-写真で辿る黎明期の考古学・民族学調査」

ラテンアメリカを踏査する
 この企画展では、19世紀末から20世紀初めにかけてラテンアメリカ各地を踏査した4人の欧米の考古学者・民族学者とその協力者の写真を紹介します。この時期、考古学と民族学は綿密な実地調査と正確なデータ収集を重視する実証科学の体裁を整えつつありました。その過程で写真は、調査対象をありのまま記録する最先端の技術として、重要な役割を果たすことを期待されました。
 写真技術の発達がこうした期待をあと押しします。湿板から乾板へ、ガラス板からフィルムへの移行は、撮影作業を簡略化し、発掘現場やフィールドへのカメラの進出を促しました。また、写真印刷技術の向上は、研究成果の刊行に写真を活用する道を開きました。その結果、ユカタン半島やアマゾン川の熱帯林で、アンデス高地やフエゴ諸島の寒冷な平原で、調査者のカメラはツタに覆われたピラミッドや卓状地のふもとの共同家屋、色鮮やかな羽根で飾った踊り手やラクダ科動物の毛皮をはおった狩人をとらえるようになりました。
 展示で紹介する写真は、当時のラテンアメリカの古代遺跡や先住民の生活の記録として第一級の資料的価値を持っています。発掘時点の遺跡の状態や近代化の波にもまれる以前の先住民の暮らしが、そこには鮮明に記録されています。写真が語るのはそれだけではありません。わたしたちはそれらを通して調査者の関心のありかや方法の特色を知ることができます。また、表現者としての価値観や美意識も見てとることができます。さらには、写真に写った人びとの視線や表情、身振りのなかに、写す側と写される側の関係を読みとることもできるでしょう。ここに紹介する写真は、考古学・民族学と写真技術が取り結んだ多様な関係の証人なのです。
 なお、写真の一部には裸体表現が含まれていますが、資料の歴史的意義と学術的価値を重んじる観点から、そのまま展示しております。
先端人類科学研究部
                                                  齋藤 晃

第1コーナー
1850年、ロンドン南のノーウッドに生まれる。 1881年にグアテマラのキリグア遺跡を訪れて以来、13年間にわたり、数多くのマヤの遺跡の発掘調査をおこなう。遺跡の正確な測量と精密な図版制作、石膏や張子による碑文の型どり、大量の写真撮影と刊行により、古代マヤ研究が実証科学として発展するのに大きく寄与する。 1931年、イングランド中西部のヘレフォードで死去する。

第2コーナー
1875年、ホノルルに生まれる。 16世紀のスペイン軍の侵攻により遷都したインカの都を見つけるため、アンデス高地を踏査し、1911年7月24日、地元の人の案内でマチュ・ピチュ遺跡を訪れる。翌1912年、遺跡の大規模な清掃発掘作業を実施し、1915年にも近隣の遺跡を調査する。その後、精力的な著述活動により、マチュ・ピチュ遺跡を世界的に有名にする。1956年、ワシントンで死去する。

第3コーナー
1872年、ドイツ中央西部のグリュンベルクに生まれる。 1903年から1905年まで、アマゾン川流域北西部の調査をおこない、ネグロ川とジャプラ川の上流域の地理、民族、言語に関する膨大なデータを収集する。また、1911年から1913年まで、ブラジルとベネズエラの国境に近いブランコ川とオリノコ川の上流域を踏査し、先住民族の言語、宗教、神話を詳細に調査する。 1924年、マラリアによりブラジルのブランコ川中流で死去する。

第4コーナー
1886年、現ポーランドのヴロツワフ(当時はドイツ領)に生まれる。カトリック系修道会の神言会の学院で学び、1911年、司祭に叙任される。 1918年から1924年まで、フエゴ諸島の先住民族セルクナム、ハウシュ、ヤマナ、カウェスカルの民族学調査を実施する。 1924年以降、民族学の専門雑誌『アントロポス』の編集に携わりながら、著作の執筆と刊行に努める。 1969年、オーストリアのメードリングで死去する。

ラテンアメリカの地図