民族学者の仕事場:Vol.3 立川武蔵―マンダラを観想する
[2/13]
立川 もともとのマンダラ、つくられた当初の頃のマンダラは宇宙であるとはいえないものがあります。7世紀頃の大日経のマンダラでは、そのなかに惑星などの天体の図像が入ってますから宇宙が考えられていたといってよいのでしょうが、当初のマンダラが世界の構造をあらわしているというふうにはなっていないんです。世界の中心に須弥山があって、地水火風の四大元素があって、そこに宮殿が建てられていて、そこに仏たちがいる、という構造は9世紀以降なんです。ここではあきらかに世界なり宇宙を考えているといえます。しかし、7世紀くらいのマンダラ、あるいは日本にきた胎蔵界や金剛界のマンダラでは、マンダラ自身のなかに宇宙の構造が示されているといいきるにはすこし問題があります。
※写真:立体マンダラ、雍和宮、北京。
立川 もともとマンダラというのは、人が座ってですね、自分を中心として四方につくりだしていくものなんです。自分が真ん中にいて、自分の精神的な活動でマンダラをつくりだしていくんです。つくりだしたあとでまた、自分のなかに収めていくものなんですよ。小さくしていって、鼻先に収めたり、パクリと食べてしまったりする。
立川 そうですね、マンダラを観想するときには、全世界は空だということをまず観想する。ものはかならず滅んでいきますから、一度生まれたものを収縮させて小さくして、鼻先のけし粒のごとくにして、今度は観念のうちにですけれど、それをまた蘇らせる方法と、自分の体内のうちに収めてしまう方法と、両方あるんです。テキストに書かれている瞑想法によりますと、自分は真ん中にいるわけです。
立川 違います。
立川 いいえ、マンダラをもち込んだのは最澄がはじめです。最澄は密教を中国でそれほど勉強したわけではないんですけれども、金剛界マンダラの一種をもち帰っているんですね。そのあと、空海が有名な金剛界と胎蔵〔界〕マンダラをもちこんできた。それによって、マンダラというものが正式に日本に入ることになる。しかしですね、密教的な行法なり密教的な経典は、じつは空海や最澄以前にもずいぶん入っているんです。ですから、空海や最澄によってはじめて密教が入ったということではないんです。ただ、空海が、画期的な経典である大日経や金剛頂経(こんごうちょうきょう)をもちこんだことで、仏教のタントリズムが確立するといわれているんです。空海が唐へ渡る前に、大日経は日本にあったともいわれているんですね。でも、おそらくマンダラはなかったとおもいます。マンダラを使った灌頂儀礼を受けてきた、そのような許可を受けてきたという意味では、大日経や金剛頂経の儀礼は空海にはじまるといってもいいとおもいます。
※写真:中国から日本へもたらされた金剛界マンダラ。長谷寺竹蔵。
立川 そうです
立川 今日マンダラが残っているのは、まず日本ですね。それから西チベットつまりラダックの方ですね。そして、中央チベットすなわちチベット自治区です。それから、モンゴル。それに中国の青海省とか、四川省の一部には残っています。ところが、インドにはマンダラらしきものはほとんどない。ボロブドールはマンダラだという人もいますけど、マンダラ的ではありますけれど、はっきりしない。民博の「マンダラ展」では、チベット仏教およびネパール仏教に伝えられたマンダラを素材にしてるんです。展示物としては、ネパールのものがおおいですね。チベットのものも少しあります。ネパールにきたマンダラは、非常に古いんですよ。インドのサンスクリット・テキストに従ってネパール人の仏教徒が描いたものを中心にして展示をおこなっています。先ほどいいましたように、日本ではマンダラというのはいろんな意味に使われているじゃないですか。ですから、インドやネパールでは、マンダラというものは、まず、こういうものだったんですよ、ということをおみせするというのが今回の「マンダラ展」の主眼です。日本のマンダラに関しては、今回は割愛しています。
立川 インドやチベットでは、そういうものはマンダラとはいわないんですね。かならず、どういうものがどういう形で並べられているかということがきちっと決まっている。
立川 そうです。オーダーがかならずあるんです。
※写真:オーダーのある世界、マンダラ。カトマンドゥ。