民族学者の仕事場:Vol.3 立川武蔵―インド思想―実在論と唯名論の闘い
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立川 1967年に、アメリカに留学する機会が得られたんです。北川というわたしの先生と、ハーバードの永富先生とが友だちだったんです。それで、ハーバードへ行くことができたんです。ハーバードにはインゴーズという先生がおられまして、その先生は、仏教のことはもちろんおわかりになったんですけれども、わたしが仏教のことをやるのはあまり好まれないようだったんですね。それで、仏教とは反対の方の、ヒンドゥー教の実在論のヴァイシェーシカという学派がありますけれど、その学派に属するウダヤナという人の哲学を研究することにしたんです。ハーバード大に行ってはじめの3年は授業にでなくてはいけませんから、叙事詩を読んだり、リグ・ヴェーダを読んだり、プラーナを読んだり、哲学を読んだりしてたんですが、自分の研究としては、自然哲学を選びました。
自然哲学を中心とするヴァイシェーシカ学派は仏教とは理論的に正反対になるんです。どういう意味で正反対かと申しますと、たとえば、ここに青いチョークがあります。この青いチョークから、もし青い色というのを抜き取る。そして、形を抜き取る。重さを抜き取る。チョークに香りはありませんけれど、香りも抜き取ったとしましょう。そうして考えられるかぎりの属性を全部取り除いたときに、いったいなにが残るか、という問題を提起されたときに、ある人たちは、なにかが残るというんです。
自然哲学を中心とするヴァイシェーシカ学派は仏教とは理論的に正反対になるんです。どういう意味で正反対かと申しますと、たとえば、ここに青いチョークがあります。この青いチョークから、もし青い色というのを抜き取る。そして、形を抜き取る。重さを抜き取る。チョークに香りはありませんけれど、香りも抜き取ったとしましょう。そうして考えられるかぎりの属性を全部取り除いたときに、いったいなにが残るか、という問題を提起されたときに、ある人たちは、なにかが残るというんです。
※写真:ハーバード大学
またほかのある人たちは、残らないというんですね。残るという人たちは、それは無色透明なんだけれども、青とかの色や形とか重さとかいうそういう性質がそこにあることができるような「場」というものがあるだろうと、そういうふうにいうんです。コンピューターでは、いろいろなものをハンダ付けしていくボードのようなものがありますね。そういうように、無色透明なんだけど、「場」というものがなければ、こういった色形なんかはそこにないではないかというんです。これは実在論的な考え方です。
もう一方は、そういった色なんかを抜いてしまったときには、あとにはなにも残らないというんです。ものというものは、そういった色などの性質の集まりにすぎないんだというのが、いわば「インド型唯名論」とぼくは名づけています。インドの哲学は、実在論と唯名論の闘いとして、ぼくはみたいんですね。ヒンドゥーのオーソドックス、バラモンの正統派哲学のなかには、この実在論的な考え方と唯名論的な考え方とふたつあるんです。ところが、仏教はどちらかといえば唯名論的なんです。仏教の人たちは、ものはそういった性質の集積だと考えるんです。ヒンドゥー教と仏教との考え方の違いとはこうなのです。
もう一方は、そういった色なんかを抜いてしまったときには、あとにはなにも残らないというんです。ものというものは、そういった色などの性質の集まりにすぎないんだというのが、いわば「インド型唯名論」とぼくは名づけています。インドの哲学は、実在論と唯名論の闘いとして、ぼくはみたいんですね。ヒンドゥーのオーソドックス、バラモンの正統派哲学のなかには、この実在論的な考え方と唯名論的な考え方とふたつあるんです。ところが、仏教はどちらかといえば唯名論的なんです。仏教の人たちは、ものはそういった性質の集積だと考えるんです。ヒンドゥー教と仏教との考え方の違いとはこうなのです。
※写真:アメリカ留学の頃
ヒンドゥー教の方はこちら(下図2a)ですが、まず、実在論の場合、属性と実体、qualityとsubstanceですね、これがはっきりとわかれており、両者ともに実在です。これが、ヴァイシェーシカ学派なんですね。しかし、ヒンドゥーの方の唯名論であるヴェーダーンタ学派、これはインドで一番大きいのですけれど、こちらでは、属性と実体とのあいだの明確な区別は認めませんが、属性が存する場としての存在を認める。ヴェーダーンタ学派では属性などは、「場」のなかにみんな吸い込まれてしまうんですね(図2b)。
ところが、仏教の方では、属性のなかに「場」が吸い上げられてしまうんですね。仏教の方では、「場」の存在を認めないんです。属性がハイライトされており、「場」の方を認めないんです(図2c)。
ヒンドゥー教と仏教の違いはなにかというと、ヒンドゥー教の方では世界の根本としての、属性を吸い込むような「場」を認める。そして、これが神になるわけです。仏教ではそういった神は認めず、属性のあらわれだけを認めるのです。
ところが空思想では、この属性もなくなってしまう。属性もなくなって、空だというわけです。じゃあ、虚無になるかというと、そうではなくて、蘇るんです。ただし、ことばによって、すなわち名づけられるものとして蘇るだけで、実在として蘇るわけではないんです。ことばの世界としてあるというだけなんです。アメリカに行って、わたしはこの実在論の方の哲学を研究したんです。前に勉強した「中論」はいわばこの対極にあったわけです。こうして対極にあるものをみながら、インドの哲学を実体と属性という観点からみようと考えたんです。
アメリカでの論文では、インドの哲学のウダヤナの著作の一部を研究しました。ただ、インドの哲学史を、インド型の実在論とインド型の唯名論という観点からみるというのはもちろんわたしの独創ではないんです。でも、こういうふうにみていこうと決めてこの30年進んできました。
- 【目次】
- マンダラとはなにか|マンダラを観想する|武蔵少年、学に志す|「中論」研究 ─ 空と色|インド思想 ─ 実在論と唯名論の闘い|世界が神の姿であるというインド的世界観|ヒンドゥー教と図像|実践としての宗教|近代と日本仏教|私有財産をどう考えるか|「癒し」の共同研究|癒しと救いの違い|浄土とマンダラの統合|