民族学者の仕事場:Vol.3 立川武蔵―世界が神の姿であるというインド的世界観
[6/13]
立川 先ほどのヴァイシェーシカもインド人の特徴をよくあらわしてます。ただ、インド的世界といった場合、ヒンドゥー教がふまえている世界観の一番の特徴というのは、リグ・ヴェーダはべつにして、多神教ということですね。しかもその神が、世界の現象とかけ離れたところにいるとか、あるいは旧約の世界のように、被造物と創造者というふうに、きちっとわかれない。むしろ、われわれがみる世界が神であり、神の姿なんだというところが、ヒンドゥー教の基本線だとおもうんです。そういう意味では、先ほどお話しした実在論というのは、ヒンドゥー思想が本来もっているものの「極端」ですよね。いわゆるヒンドゥー教の宗教理論としては、神と世界の関係は、唯名論的な世界に近いとおもうんです。一般に、シヴァが世界を壊して、男神ブラフマーがそれをつくって、ヴィシュヌがそれを維持するといわれます。一方では、世界というのは男神ブラフマーであり、シヴァそのものだと、あるいはシヴァ神が踊っている姿だと、あるいはヴィシュヌが牧童たちと戯れている姿だというふうにいうわけです。そして、そのシヴァは存在するんです。ヴィシュヌも実在と考えられている。
※写真:リンガ・ヨーニ、カトマンドゥ。
ブラフマー神、
エローラ。 |
ヴィシュヌ、
ニューデリー博物館。 |
踊るシヴァ神、
ニューデリー博物館。 |
ヒンドゥー教寺院 ムクテーシュヴァリー。オリッサ、インド。
|
立川 男神ブラフマーがつくったというふうに一応いわれるんです。でも、男神ブラフマーはこの世界でもあるんですね。さきほども申しましたように、キリスト教やユダヤ教のように、創造者と被造物にわかれるというわけではないんです。それから、旧約の世界では、被造物のなかに神の姿をみたり神そのものをみたりすることはきつく戒められてますよね。ところが、インドでは、たとえばイチジクの実のかけらのなかにも梵は宿るというんです。あるウパニシャッドは、中性原理ブラフマン(梵)とは何かという質問に、それは食物であり、息であり、目であり、耳であり、ことばであるというふうに答えているんです。これは非常に有名な箇所なんです。そこからこの世界が生まれ、それによってこの世界、生類が生きつづけ、亡くなったとき、つまり死んだときにそこに帰っていく、それがブラフマンだと。それが宇宙の根本であるというんです。ですから、そこからでて、またそこに帰っていくという意味で、宇宙原理そのものがブラフマンであるということ、この点でアブラハムの宗教とは世界の考え方が違っているんです。
インド的な世界では、被造物は神ですから、そして人間は一人一人神を宿すわけですから、人間がそういった神的な力をもっているんですね。それは、生きた神としてあがめられこそすれ、危険なものとして抹消されるといったことはなかった。だからまた、魔術の園というようにもヨーロッパ人には見えたのでしょう。今日、ヒンドゥーの世界を考えますと、世界そのものが神であるとか、世界そのものに聖なる価値を認めるという考え方は、悪い考え方ではないんではないかというふうにおもいます。仏教の密教でも、この世界は大日如来の姿であるといいますから、この世界が仏の姿だという考え方は、仏教のなかにもあるんですね。このように、われわれのみるこの世界のそれぞれのもののなかに、命なり、神や仏の姿なりをみるということは、現代においては評価できるんではないかとおもいますね。
※写真:(左)弁積菩薩。クワーバハール仏塔、パタン。
(右)密教の仏大日如来。カトマンドゥ。
(右)密教の仏大日如来。カトマンドゥ。
- 【目次】
- マンダラとはなにか|マンダラを観想する|武蔵少年、学に志す|「中論」研究 ─ 空と色|インド思想 ─ 実在論と唯名論の闘い|世界が神の姿であるというインド的世界観|ヒンドゥー教と図像|実践としての宗教|近代と日本仏教|私有財産をどう考えるか|「癒し」の共同研究|癒しと救いの違い|浄土とマンダラの統合|