民族学者の仕事場:Vol.3 立川武蔵―実践としての宗教
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立川 これからヒンドゥー教も変わっていくでしょうけれども、おおむねヒンドゥー教というのはカースト制度にのっかっている。ですから、19世紀の中頃から近代のヒンドゥイズムの復興運動がおこりまして、いまもその途上にあるんでしょうけれども、ヒンドゥー教の場合には、現実的にはインドが2000年以上にわたって抱えもってきたジャーティ(出自による職能集団)とかヴァルナという、いわゆるカースト制度の問題があるとおもうんです。仏教は、そこからは外にでてるんです。そこからでて教団に入った者たちの活動が仏教だった。仏教徒になるということは、ヒンドゥー社会のしがらみから一応抜けるということを意味した。そういう意味では自由だったわけですけれども、その自由さは、逆にいえば根無し草、社会に定着していないということをひき起こしてしまいます。仏教は、伝播した国でまったく違う形態をとったし、今もとっています。ですから仏教に関しては、現代の信仰といっても、何が仏教たらしめているのかということは一口でいえないとおもうんです。わたし自身にとっては、仏教と現代思想ということでいえば、日本のなかにある伝統というものをふまえざるをえない。わたし自身は僧侶ではありませんけれども、自分がこの日本社会に生まれ育ったというかぎりにおいては、あるいはこの日本において発言するというかぎりにおいては、日本の土壌というものを無視することはできない。日本の社会というのは、アジアのなかでも特殊なものでしょう。実際、日本の仏教は、タイの仏教ですとか台湾の仏教とはかなり違った状況にあります。
わたしにとっての問題は、日本の仏教の内部よりもむしろ、日本の仏教をとりまく状況とどう対峙するかです。わたしが学生の頃には、実存主義と仏教ですとか、マルキシズムと仏教ですとか、キリスト教と仏教とかいった対立があって、それが、ある程度具体的な意味があったんですね。ところが、今この時点では実存主義もマルキシズムも、それほど思想としてのインパクトをもっていませんでしょう。かつては遠心力のようなものがあって、まわせばそれを中心にしてまわったとおもうんですが、今はすべてが、犬とタオルで綱引きをしているようなものです。というのは、こちらがタオルを引けば犬はタオルを引きますけれど、犬のほうが引くということはほとんどない。おかしなたとえですけれども(笑)。わたしは、思想的に無風状態になってしまっているとおもうんです。思想とかイズムとかイデオロギーというのがほとんどないわけじゃないですか。ところが、世の中が希望に満ちたものに向かっているのかというと、むしろ逆ですよね。
※写真:台湾の仏教寺院。