民族学者の仕事場:Vol.3 立川武蔵― 私有財産をどう考えるか
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立川 はい。仏教というのはそもそも出家者を相手にしたものです。お金に執着するなとかいうんですね。古代インドでは坊さんは労働してはいけなかった。仏教のもっているそういった規制そのものというのは、たとえばイスラムなんかとは反対なんですね。働いて、みんなが平等で、富を分配して、といった考え方が仏教には欠けているんではないでしょうか。マックス・ウェーバーのいった「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のようなものは仏教のなかに育たなかったんですね。そちらでは、労働というものは神の栄えをあらわすことだったわけでしょう。ところが、仏教のなかでは、たとえば雑巾がけは禅の修行だということばがありますね。わずかながら、商売も仏の道だという人もいたんです。でもそれはほんとに例外的であって、仏教がもっている念仏の理論、あるいは座禅の理論は、なりわい、生産、産業そのものを活性化させるようなものにはならなかったんですね。それがまた、ある意味では、現在において仏教がもっているひとつの重要な点でもあるとぼくはおもうんです。ただ単にものに執着するなといったのでは、これは時代においていかれます。事実、仏教が力を失って転んできた理由には、近代のなかで労働というものや蓄財ということをきちっと受け止めてこなかったということがあります。創価学会の人たちはそれをやってるんです。天理教だって、「国直し」とか「建国」ということを考えようとしているわけですね。近代のなかでそういう局面がないとおいていかれるのではないかとおもいます。それを、仏教のなかでどういうふうに思想として打ちだすかということなんですけれども、わたしには、答えはまだ遠くてみえませんね。(笑)。
立川 その一番典型的な例がチベットです。チベットには、1959年の動乱まで僧院制度があって、僧院が警察であり大学であり銀行であり、すべてだったんです。そのチベットは、19世紀にイギリスがその門を叩いたときにはまだ鎖国をつづけていられたとしても、そのあとの共産主義に対してはひとたまりもなかった。20世紀の中頃までああいったかたちで神権政治がつづいていたことが、それが仏教のせいだとはいいませんけど、近代というものをチベット人がみていなかったということだろうとおもうんです。そしてそれは、仏教理論がもともともっていた性質が作用したともいえるんじゃないかとおもうんです。ヒンドゥー的なりイスラム的なものというのは、変わりゆく社会に対応したわけですから。
立川 あったとおもいます。