民族学者の仕事場:Vol.3 立川武蔵―浄土とマンダラの統合
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立川 わたしが仏教と現代思想ということを考える場合には、日本のなかで日本人として考えます。日本の土壌のなかでしか考えられないとおもうのです。世界的に考えるといっても、自分が育った土壌というものを知らないとできません。それで、7,8年くらい前から、日本のことにも、だんだん関心をもつようにしてきたんです。
わたしはできれば、これは夢ですけれども、来世になるかもしれませんけれど(笑)、マンダラ理論と、法然的な浄土教とを、ふたつを統合することができればとおもうんです。ふたつとも要るとおもうんです。つまり、浄土教が主眼をおくのは死という問題です。浄土教では、この世界は娑婆で、汚れた世界だとしたわけですから、これは捨ててゆく世界なんですね。この世界にはあまりこだわらないわけです。死という問題に、法然はこだわったわけです。浄土教というのはそういうものです。浄土とは死後ということですから。
ところが、密教、マンダラというのは、死後の世界ではない。いまの、現実の、生きている世界なんです。これに関わるということは重要だとおもうんです。ふたつとも要るのではないかという欲深なことを考えています。もちろんそう考えた人は、じっさい仏教思想史にいました。真言宗の中興の祖とされる覚鑁という人が、そういうことを打ちだしてきました。ただかれはあまり理論を展開できずに、50歳になる前に亡くなったんです。その系譜が、真言宗の中の豊山派、智山派です。そういう動きはあったんですが、近代においては、浄土とマンダラというものを積極的に統合しようとはしていないようにおもうんです。
わたしはできれば、これは夢ですけれども、来世になるかもしれませんけれど(笑)、マンダラ理論と、法然的な浄土教とを、ふたつを統合することができればとおもうんです。ふたつとも要るとおもうんです。つまり、浄土教が主眼をおくのは死という問題です。浄土教では、この世界は娑婆で、汚れた世界だとしたわけですから、これは捨ててゆく世界なんですね。この世界にはあまりこだわらないわけです。死という問題に、法然はこだわったわけです。浄土教というのはそういうものです。浄土とは死後ということですから。
ところが、密教、マンダラというのは、死後の世界ではない。いまの、現実の、生きている世界なんです。これに関わるということは重要だとおもうんです。ふたつとも要るのではないかという欲深なことを考えています。もちろんそう考えた人は、じっさい仏教思想史にいました。真言宗の中興の祖とされる覚鑁という人が、そういうことを打ちだしてきました。ただかれはあまり理論を展開できずに、50歳になる前に亡くなったんです。その系譜が、真言宗の中の豊山派、智山派です。そういう動きはあったんですが、近代においては、浄土とマンダラというものを積極的に統合しようとはしていないようにおもうんです。
立川 仏教のどこがでしょうか。
立川 この質問はむつかしいですね。わたし自身はそういうことをいう立場にありません。わたしはどの宗派にも属してはいないわけですから。ただ、客観的にというか、あえていえば、既成教団が、そういう力を近い将来にもつということは非常にむずかしいんじゃないかとおもうんです。もうひとつは、日本の仏教研究なり仏教界についてです。日本には仏教関係の団体がたくさんあります。また、仏教学なりインド学の講座をもっている大学がかなりあります。日本印度学仏教学会も3000人弱の会員を擁しています。ただ、その研究が、仏教はいかにあるべきかというような研究ではなくて、千数百年から二千年前の文献を解読して正しいテキストをつくるという、そういう研究がいい研究だとされているんです。仏教と現代思想という問題を、正面切っていいだしている大学を私は知りません。
立川 日本では、律というものがなくなってきているんです(「律」は仏教徒がまもるべき生活上のきまり、掟。自発的ないましめとしての「戒」に対比される)。 なくした張本人が最澄なんですけれど。それで、非常に骨抜きの宗教になっている。律が、倫理という面をもっていたわけですが。
立川 あったんです。それこそ坊さんは、二百五十いくつの戒をまもってきたわけでしょう。ああしちゃいけない、こうしちゃいけないと。今でも、いくつかわかりませんけど、タイの坊さんたちは戒をまもっている。男子は、一生に何ヶ月かは、僧院に入るわけでしょう。男子はみんな、律をまもり戒をまもる坊さんに一度はなっているんです。規律を知った人たち。そういった人たちの社会というのは、また違うんではないでしょうか。ただ、まあ、日本で全員が出家しろといっても、これはなかなか(笑)。
(完)