国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

民族学者の仕事場:Vol.3 立川武蔵―マンダラとはなにか

[1/13]
2003年春の民博の特別展「マンダラ展 ─ チベット・ネパールの仏たち」(3月13日―6月17日)をごらんになりましたでしょうか。大好評だった展覧会を企画構成したのは立川武蔵さんです。ここでは、展示の背後にある立川さんの短からぬ研究歴と業績を本人からきいています。展覧会をごらんになれなかった方もご安心ください。マンダラとはなんなのかについても、ここで立川さんが詳しく説明してくれます。
 
立川武蔵近影
─ 今日は立川さんにこれまでのご研究をわかりやすくお話ししていただこうというわけですが、その前に、立川さんのお名前の武蔵、これは、ムサシとよむんですよね。
立川 はい。
─ 今年やっているテレビの大河ドラマが「武蔵」でしょう。宮本武蔵。それと関係ないでしょうけど、本名ですよね。自分でつけてるわけじゃない(笑)。
立川 まさか、まさか(笑)。父親が、吉川英治を読みすぎて。
─ なるほど(笑)。
立川 はっきりきいた覚えはありませんけど、吉川英治か、立川文庫を読んで、つけたと。わたし本人は、名前をきかれるたびにね、萎縮というか・・・(笑)、ちょっと困るんですけど。ムサシが本名なんです。
─ そのたまたま付けられた名前がのちのちまで効いているということはあるんでしょうか(笑)。
立川 いやいや、それは・・・。変えようとおもったことはないですけど、ちょっと面映ゆいというか。みんなが、これはペン・ネームでしょうっていうんですよね。いや本名ですというと、なんかしらけてしまって、ちょっと困るんです。
─ 時宜を得てる(笑)。それはともかく、日本人のあいだで、今、仏教への関心が静かにたかまっているといわれますが、今年(2003年)は民博で「マンダラ展」がひらかれます。「マンダラ展」は立川さんが企画し構成してこられました。
まずはじめに、マンダラというものがどういうものなのかおききしたいんです。マンダラということばは日本人の日常語のなかにも入っている。「なんとかマンダラ」というふうにいいますよね。そういう使われ方にも、多少根拠があるのだろうけれども・・・。
 
金剛界マンダラ(ガウタマ・R・ヴァジュラーチャーリヤ作、個人蔵)
立川 そうですね、「人間マンダラ」とか、「恋マンダラ」とか、最近では「テレビ・マンダラ」とかまで、マンダラということばが日常的に使われてきているとおもうんです。日本の場合は、マンダラということばは、いろいろなファクター(要因)がひとまとまりになっているというときに使われます。ただ、それぞれのファクターが全体のなかでどういう関係にあるか、また、どういう方向に向かっているかはわからない状態。いろんなものがゴチャゴチャとある摩訶不思議。そういう状態を日本人はマンダラと呼んでいるとおもうんです。ですから、「人間マンダラ」とか「恋マンダラ」というのは、人が多様に寄り集まっているということだとおもうんですね。
ただ、「マンダラ」ということばが生まれたインドですとか、それがもちいられたネパールとかチベットでは、「マンダラ」はそういう意味には使われない。マンダラというのは、サンスクリットでは、もともとは、丸いものを意味したようなんです。しかし、ただ丸いものという意味だけではないんですね。たとえば、リグ・ヴェーダという聖典は、10巻くらいあるんですが、その各々の巻、英語でいうbookのことですね、それをマンダラと呼んでいるんです。そこでは、まとまりという意味はあったとしても、丸いものという意味はないんです。ただ、マンダラということばは、サーカスなんかで象を調教したりする丸い円形状の場に対しても使われていました。ですから、マンダラということばには、やはり丸いものという意味があったようにおもわれるんです。ところが、じっさいにマンダラというものが宗教の小道具なり装置としてつくられるのは、紀元後の4~5世紀頃からではないかとおもわれるのですが、そのころは、マンダラというのはかならずしも丸いものとは限らないんです。お盆のような形のもので、そこに仏さんが乗っていたものをマンダラといっていたようなんです。7世紀の大日経では、大地、つまり地面のうえに畳2畳分ほどの四角い区画を墨打ちしまして、四角いマンダラをつくるわけです。ですから、マンダラはかならずしも丸いものということにはならないんです。
では、マンダラとはいったいなにかといいますと、500~600年頃から、密教、タントリズムと呼ぶ宗教形態が台頭してくる。インドでははじめに仏教の方ででてきます。わたしは密教とタントリズムを同じ意味に使うんですが、人によっては異論があります。今のところはタントリズムということばを使っておきましょう。タントリズムというのは、仏教だけではなく、ヒンドゥー教にも、ジャイナ教にもあらわれたものなんですが、この3つの宗教のなかでは、仏教がもっともはやく力を得てきたとおもわれます。はっきりしたマンダラの形があらわれるのは、およそ紀元500年くらいからなんですが、先ほどお話ししました7世紀の大日経ではマンダラというのはもう確立してきているわけですね。そこで、もともとマンダラは、弟子を入門させるときの儀礼の場だったんです。
 
※写真:金剛界マンダラ(ガウタマ・R・ヴァジュラーチャーリヤ作、個人蔵)
─ 掲げられていたわけですか。
マンダラ上での儀礼。カトマンドゥ。
立川 いえ、地面に書かれたのです。その上で、あるいはその前で、先生が弟子を入門させたのです。そのための儀礼の装置だと考えられるんです。
その前にタントリズムがどのようにしてできてきたかを申しあげておきましょう。仏教は紀元前500年くらいからでてきますね。そして、紀元後1世紀頃には大乗仏教の思想が生まれました。しかし、600年頃になると仏教の制度にかげりがみえはじめます。仏教を支えたのは商人階級だったんです。けれども、インドでグプタ朝が崩壊した頃には、それまでの商売相手だった西方世界を失うわけですね。ローマ帝国が滅びますので。そうしますと、仏教徒はこれまでの経済基盤を失って、没落していきました。仏教の勢いもなくなります。そこで、グプタ朝崩壊後は、これまでの都市を中心とした社会ではなくて、農村を中心とした社会になってゆく。そうしますと、それまではそれほど勢力の大きくなかったヒンドゥー教が勢力をもってきて、仏教の勢いを凌駕する。一方、仏教のほうは、古代の儀礼とかシンボリズムとか、図像といったものを自分のなかに積極的に取り込んで、起死回生をはかるわけですね。そういう儀礼や図像を積極的に取り込んだ結果がマンダラなんです。そして、そのような新しいあり方の仏教を仏教タントリズムとぼくらは呼んでいます。
 
※写真:マンダラ上での儀礼。カトマンドゥ。
カトマンドゥのマンダラ調査、1993年。 仏教は、じつはそのときまでは儀礼に対して冷淡でしたけれども、儀礼を積極的に取り込んでいく。そして、仏教の神々の世界、西洋でいうパンテオンですけれども、そこに、もっといろいろな神様を取りこむ。そのために、仏教徒たちはパンテオンの世界をもつようになる。それをマンダラのなかに描いていくことになるのです。
それと同時に、それまではあまり取りこまなかった血の儀礼とか骨や皮の儀礼とか、既成の仏教教団が避けてきた儀礼を、積極的に自分のなかに取りこんでゆきます。さらには、性、セックスの問題があります。小乗仏教の僧侶たちは、性に積極的にかかわることは避けてきました。性的なものを押さえる、あるいは滅却させることによって、悟りが得られる。すくなくとも、セックスは悟りにとっては障害だという常識があった。けれども、タントリズムの世界になると、だんだんセックスが表面にあがってまいります。性、あるいは性行為が、悟りを得るための障害とならない可能性もあるのではないかと考えはじめまして、自分たちの修行体系のなかに、性的なイメージなり行為を取りこんでいきました。やがて9、10世紀になりますと、仏教には、これまでの教団中心主義ではなくて、教団に属さない、女性と交わったり奥さんをもったりする修行者たちや、在野の人たちも増えてきます。それまでの性に対する厳しい抑圧が緩和されてゆきます。そうしましたときの、修行でのチャートがマンダラなんです。ですから、マンダラはタントリズムがもっている歴史的な要因を、ほとんどすべてなかに納めているのです。すこしおくれて、ヒンドゥー教は仏教とは違ったかたちでタントリズムを成立させてゆきます。ヒンドゥー教のタントリズムのなかにマンダラといったものがないわけではないんですけれども、仏教の方がはるかに念入りに、緻密に、マンダラに、非常なエネルギーを費やして精巧なものにつくりあげたんです。
 
※写真:カトマンドゥのマンダラ調査、1993年。

 
【目次】
マンダラとはなにかマンダラを観想する武蔵少年、学に志す「中論」研究 ─ 空と色インド思想 ─ 実在論と唯名論の闘い世界が神の姿であるというインド的世界観ヒンドゥー教と図像実践としての宗教近代と日本仏教私有財産をどう考えるか「癒し」の共同研究癒しと救いの違い浄土とマンダラの統合