国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

研究スタッフ便り ニューヨーク! ニューヨッ! ニゥユィェ!

研究スタッフ便り『ニューヨーク! ニューヨッ! ニゥユィェ!』

太田心平

第02回 ニューヨーカーはおしゃべり好き?(1)――おしゃべりについて語りたおす

ニューヨーカーはおしゃべり好き?

 私はニューヨークに暮らしはじめたばかりだ。しかも、米国の他の場所には行ったことすら数えるほどだ。だから、米国国内でニューヨーカーがもつ特徴については、まったく語れる立場にない。

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他人どうしがすれ違う街角(2012年7月撮影)

 だが、私は実は、ニューヨークに来たことがなかったころから、「ニューヨーカーは気さくで、居合わせた人どうし気軽におしゃべりを楽しむ」というイメージをもってきた。ニューヨークに住んでいらっしゃる、ある日本人のエッセイスト・作家さんがお書きになるエッセイ集のなかで、その点がよくモチーフとされているからだ。とても心が温まるエッセイ集なので、参考までに御紹介しておくと、それは『ニューヨークのとけない魔法』をはじめとした、岡田光世さんの「ニューヨークの魔法」シリーズ(※)である。このシリーズのひとつのモチーフは、地下鉄、公園、レストランなど、ニューヨークに住んでいれば日常的に身を置く場で、見ず知らずの人どうしが気軽にくりひろげられるおしゃべりだ。私は、このシリーズのおかげで、来たこともなかったころからニューヨーカーに好印象をもつことが出来た。誤解を生んではいけないので、あらかじめいっておくと、このシリーズで述べられているのは、「ニューヨーカーは、みな一様におしゃべり好き」ということではない。岡田さんの御本がこうしたニューヨーカーのイメージを育んでくれるのだとしても、きっとそれは、長い滞留生活で知りえたニューヨークの諸側面のなかから、日本人にもっとも伝えるべき点を選び、その点にクローズアップなさって御本をお書きになったからなのだろう。

 ただ、そう冷淡に構えていられたのは、私がニューヨークを体験していなかったからだと思う。初めてニューヨークへ出張したとき、のっけから私は面を食らった。すぐさま「他人どうしのおしゃべり体験」をし、その強烈な印象に心を動かされたのである。カフェでパソコン作業をしていたときのことだった。画面にのめり込んでいた私は、ふと、となりの席に座っている60歳くらいの女性が気になった。その熱い視線。私の顔とパソコン画面を交互に凝視している。「え?」 こちらが気づいた態度をとったら、「失礼。読めない文字だから、よけいに気になるんですけれど……」というように前置きしたうえで、彼女は質問してきた。「あなた、そんなに深刻なお顔で、なにをタイプしていらっしゃるの?」 このとき私は、「おおっ! 来た、来た!」と思った。岡田さんの本のとおりだ、と。ちょうど気分転換したかったので、その女性と会話を楽しんだ。20分ほどたったとき、「そろそろ行かなきゃ」と彼女は席を立った。「お会いできて嬉しいです」 私がいうと、彼女はふと思いついたかのように、「ちょっといいかしら?」と身を乗り出してきた。そして、私のパソコンに自分のメール・アドレスを打ち込んで、曰く、「こんどニューヨークに来たときは、メールなさって。私の家族と一緒に、うちで夕飯でも食べましょう」 彼女はまさに、岡田さんが紹介なさっているニューヨーカーの姿そのものだった。「これは確かに何かある」 そう思わされた。

 こういうことは、これまでに何度かあった。会話のはじまりは、バスのなかで隣に座っている人から「道が混んでいますね」と話しかけられることだったり、図書館ですれ違った人から「靴が素敵だ」とほめてもらうことだったり、ハンバーガー屋で「御一緒してもいいですか? ひとりで食べたくないんです」といわれることだったり。たしかにニューヨーカーは、知らない人とでも、気さくにおしゃべりを楽しむように思われた。私は、これまでに住んだ日本の大阪や、韓国のソウルや、中国の長春で、こうしたことを体験したことがない。むしろ逆に、とつぜん話しかけてくる人がいると、変な人だと思って警戒したり、ひどい場合には無視したりするのが普通ではないかとさえ思う。それと比べると、ニューヨーカーは、たしかに気さくなおしゃべり好きだといえるかもしれない。

新しい自分になれる街

 では、ニューヨークに暮らす北東アジア人たちは、気さくに声をかけあうニューヨーカーたちをどう思っているのだろうか。この街で私が出会う人びとの多くは、ニューヨーカーの気質について、とてもハッキリ「こうだ!」と指摘する。他の街にしばらく住んでからニューヨークに来た韓国系や中国系の友人たちの場合には、なおさらのようだ。人それぞれにほぼ必ず「ニューヨーカーたちは……」という物言いをする。そのなかで、もっともよく耳にするのが、やはり「ニューヨーカーはおしゃべり好き」という評である。彼/彼女らは、総じていえば、これを好意的に受けとめるケースが多いようにみえる。

 このコーナーの初回にも登場した韓国人男性のAは、「それ(=他人どうしのおしゃべり)がニューヨークで暮らしていて、いちばん楽しい点のひとつ」と評価する。「韓国では、そんなこと、しないじゃない? 恥ずかしくて、誰かが話しかけてきても、話らしい話は出来ないよ。でも、やってみると面白いんだよ」 かねてから彼は、韓国に住んでいたときの自分がとても嫌いだったといっていた。そんな彼にとっては、よけいに嬉しいことなのかもしれない。つまり、韓国にいたころの自分には出来なかったことが、こうして出来るようになり、自分と社会との関わり方が、ひとつでも変わったわけである。喜ばしいことなのだろう。「まるで別人に生まれ変わったような感じ」にまでなれるのだそうだ。

 同じく韓国人男性のBは、「気さくなおしゃべりがなければ、ニューヨーカーは生きていけない」とまで考えているという。「ゴチャゴチャした都市で暮らしていたら、やたら息苦しくなるものさ。……あるいは、都市生活に慣れている人だって、都市の孤独に苦しめられる。そんなとき、誰かと話が出来たら、気持ちがずっと楽」 たしかにそうかもしれない。私も、最初の出張であの女性と話したときには、ちょっと大都会の人ごみにやられてしまっていた。だから、カフェでたまたま横に座った人でも心配になるほどに、「深刻な顔」だったのだろう。そして、彼女に気にかけてもらえて嬉しかったし、おしゃべりでリフレッシュも出来た。

 韓国人女性のCは、これがニューヨーカーだけの特徴だと思っていないという。「昔は、ソウルでも知らない人とおしゃべりしたものよ。電車のなかとか、お店とかで」 彼女の考えでは、それが失われていったのが韓国の都市であり、よく残っているのが欧米の都市、なかでもニューヨークなのだそうだ。「たとえば、私が高校生のころは、ほら、制服のここのところ(胸の部分)に名札が付いていたでしょう? 学校に通うのに乗っていたバスのなかで、私がこうやって立っているじゃない。そうしたら、座っている人がよく話しかけてきたものよ。「いい名前ね」とか、「うちの孫娘と同じ名前だ」とか。それで対話がはじまったわ」 そういえば、今年で76歳の私の母も、昔から病院の待合室なんかで、居合わせた人とよくおしゃべりをしている。祖母はもっとその頻度が高かった。大阪でも、かつてはもっと気さくにおしゃべりを楽しめたのかもしれない。彼女がいうように、知らない人とおしゃべり出来なくなったのは、それほど古いことでもないだろう。そんなことを話すと、Cは「日本も韓国も、今の北東アジアは、なんだか悲しいわね」と遠い目をした。私もうなづいた。

馴染めぬ自分との闘い

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筆者がよく待ち合わせする公園(2012年7月撮影)

 同じ韓国人女性でも、Dの場合には、見知らぬ人と積極的におしゃべり出来ないという。「だいいち、私は(たんなるおしゃべりと)ナンパと区別がつかないの。何年たってもね」 たしかに、街角やカフェで異性にとつぜん話しかけられれば、「ナンパ」、つまり知らない人をデートに誘う行為だととらえても仕方がない。ただ、Dは未婚だ。「ナンパ」されても、いいではないか。「そうじゃなくてね。外国人[ママ]に比べたら、東洋人[ママ]は若くみえるから、私みたいな50歳を目の前にした人でも、30歳くらいに誤解されやすいの」 彼女は続けた。だから、「ナンパ」されても、後でDの実年齢を聞いて、相手が逃げていってしまったことがあるらしい。彼女は「ナンパ」されたいわけでない。それなのに「ナンパ」されたうえ、年齢を知って態度を変えられたら、たしかに空しいだろう。その空しさが彼女は嫌いなのだそうだ。「下心がある人や、変な人だったら、あとでこっちの気分がダウンするじゃない。……だから、話しかける人がいるたび、葛藤の連続よ」

 中国から来た男子学生のEは、別の理由でだが、やはりおしゃべりに慣れないと溜息をつく。ニューヨークで大学院に通って3年になるのに、こういう点で、いまだ彼はこの街に馴染めないそうだ。「何を話せばいいのか、よく分からないんですよ。英語で話すってことも、まだストレスだし」 彼の英語は、そんなに悪くない。しかし、どうも彼の場合には、これだけが理由でもないようだ。「僕は社交的じゃないんですよ。……孤独だけど、僕は僕。それが僕です」 こうして彼は、おしゃべりがもとで、よけいに自分の孤独を意識してしまうようである。

 しかも、最近のEには悩みがある。なかなか就職が決まらないのだ。その原因を、Eは友だちからこう指摘されたそうだ。「米国では、東洋人の男性は積極性に欠けるというステレオタイプがあるだろう? 君はまさにその(ステレオタイプの)とおりで、だから(余計に)その点が欠点としてみえやすいんだよ」 私は、これはこれで彼の個性だと思う。それに、おしゃべりに積極的でないとしても、彼には他に長所がたくさんあると思う。そういってみたが、彼の答えはこうだった。「もし、人と交わることにもっと積極的だったら、僕は仕事がみつかるんですかねぇ」 私は他人どうしのおしゃべりについて話したかっただけなのに、彼に嫌なことを思い出させてしまった。

 そもそも、おしゃべりを楽しめるか、どうかは、性格が社交的か、どうかだけの問題でもない。おしゃべり大好きな私だって、即急に退散したくなることはある。たとえば、こんなことがあった。道を歩いていたら、反対側から歩いてきた白人の男性が、唐突に「あなたは中国人ですか?」と聞いてきた。「いいえ、違います」 彼は、酔っているようにも、精神的に不安定な人にもみえなかった。むしろ、スーツをピシっと着ていたせいか、あるいは声色のせいか、とても知的で紳士的な人物にすらみえた。彼も、何か事情があって、私にこう聞いたのかもしれない。しかし、挨拶も何もなく、見知らぬ人にいきなり何ジンかと聞くのは、ニューヨークでもやはり一般的ではないし、失礼だとすら思った。彼はさらに続けてきた。「じゃあ、どの国……いや、何語が話せますか?」 私は「失礼いたします」と出来るだけ威厳ありげに述べて、その場を立ち去った。

 ただ、後で考えれば、私にはもう少し別の応対方法もありえただろうと思われる。こんな時、ニューヨークで育った人なら、どう応対するのだろうか。中国系米国人2世の男性Fに聞いてみた。答えは即座に返ってきた。もし彼だったら、「そんなことを道で尋ねるなんて、おそらく何か特別な理由があるのでしょうね」などと、神妙に相手をゆさぶるそうだ。さすがである。本当は私も、「ちょっと待ってくださいよ! 何ジンかと、何語を話せるかは、まったく別の問題でしょう?」と笑って答えたかった。そういうと、Eは「それも方法だね」といっていた。

 この体験で、ふたつのことが分かった気がする。ひとつは、こんど急に何ジンか聞かれたら、どう対応すべきか。もうひとつは、おしゃべりには場馴れが必要だということだ。英会話の能力や、性格の云々は、悩んでも仕方がないし、急なおしゃべりにも機転を利かせた対応が出来るようになるのには、相当の場馴れが必要なだけだ。こんどEに会ったら、さりげなく伝えてみようかと思う。

(次回に続きます)


ここで「ニューヨークの魔法」シリーズと呼ばせていただいているのは、具体的には以下の四作品のことです。『ニューヨークのとけない魔法』、『ニューヨークの魔法は続く』、『ニューヨークの魔法のことば』、『ニューヨークの魔法のさんぽ』(いずれも文春文庫)。