研究テーマ・トピックス|関雄二
文化遺産概念がどのようにして誕生し、どのように政治的に利用されてきたのか、そして国民統合の装置としての役割から世界遺産という普遍的概念の表象として変貌を遂げようとする様相を、ペルーを対象として分析している。現在では、自明のこと、あるいは権利として語られる文化遺産保護の思想を一旦解体しようという試みである。このためには、文化遺産という概念が誕生する以前の植民地時代にまで遡り、文化遺産の代表例である遺跡がどのように扱われたのかまで考察の対象にする。遺跡そのものの扱い方を通じて、各時代の歴史観を読みとる作業を行うことで、これに続く時代の遺跡観の形成を解明することができると考えるからである。したがって、以下のように、いくつかのサブテーマが設けられる。
- モヘケ遺跡の前に立つフーリオ・C・テーヨ(左)と鳥居龍蔵(1937年撮影)
a.ペルー植民地時代における遺跡観
植民地時代、一攫千金を夢見てアメリカ大陸にわたったスペイン人達が黄金目当てに盗掘を行ったことはよく知られ、植民地政府やスペイン王室公認の「発掘商会」がその母体となっていたことも指摘されている。しかし、近年の研究によれば、「発掘商会」への出資者の中には、スペイン人ばかりか、先住民の首長や有力者が加わっていたことがわかってきた。こうした先住民の盗掘参加の要因を当時の社会的な状況から復元する研究を行っている。この結果、従来先行していた「虐げられた被害者=先住民」というイメージだけでは捉えきれない事態が見いだすことができた。積極的にヨーロッパ的貨幣経済の中に入り込んで、自らの立場の強化に努めるばかりか、ヨーロッパ人以上に蓄財を肥やす者すらいたのである。研究方法は、発掘商会の設立申請書類や出資内容を記した契約書といった文献の研究が主体となる。
b.近代ペルーの文化行政
- 19世紀末の国立博物館(現国立美術館)
とくにペルーで考古学が成立した時期に焦点をあて、近代国家の形成過程で、考古学がどのように政治的に利用されてきたかを問う。具体的には、博物館行政や植民地博覧会などへの参加、観光などの歴史を追い、インディオ擁護主義運動といった当時の政治思想との関連性を追っている。なかでも国立博物館の成立の歴史は、先住民、メスティソ、白人という多様な人口構成を持つ近代ペルーの国家としての統合に、考古学がどのように利用されてきたかを見る上で欠かすことができない考察対象である。また今世紀前半に活躍したペルー考古学の父と呼ばれるフーリオ・C・テーヨ博士は、先住民出身の国立博物館長として知られ、インディオ擁護主義を掲げた当時の政権に政治的に利用されたと考えられる。必然的に文献研究が主となる。
c.現代ペルーの遺跡保護の思想と地域住民が抱く遺跡観のズレ
- 盗掘現場。クレータ状の巨大な盗掘穴
ペルーにおける文化財保護法は、遺跡の破壊や盗掘を禁じているにもかかわらず、遺跡の盗掘はあとを絶たない。金製品などの換金目的の品を発見する利点は理解できるが、なぜこれほどまでに自らの祖先達が築き上げてきた建造物や彼らが眠る墓を暴くのかについては、従来深く追究されてこなかった。文化財保護=善なりという思想を押し進める前に、遺跡周辺の住民が遺跡をどのように捉え、彼らの歴史観の中で遺跡はどのように位置づけられるのかを考える必要がある。具体的に、主としてペルー北海岸を対象としてフィールド・ワークを行っている。北海岸はペルーでも有数の農業地帯であるが、農業政策の失敗等もあり農村社会は疲弊しており、白昼堂々と換金性の高い考古学的遺物の盗掘に精を出す者が多い。一方で、こうした商業的な側面ばかりでなく、キリスト教、あるいは伝統的呪術との関係で盗掘に手を染める者もおり、事態は複雑である。
d.世界文化遺産概念の検討
- 世界文化遺産。
チャンチャン遺跡の中に広がる農地
現在、ユネスコが推進する世界文化遺産の概念は、普遍的な「善」の概念として、人権と同じように語られはじめ、これに逆らうことは批判されかねない状況になりつつある。しかし、こうした世界大的な規模で進められる歴史観の統合化は、一方で、先進国に追いつくために国家統合を図ろうとする途上国の歴史観と軋轢を生みだしている。また国家ばかりでなく、国家内部に存在する一部の宗教的、民族的集団との齟齬すら見受けられる。一方で、資金的基盤を持たない国家では、金のかかる文化遺産の保護にユネスコからの援助をあてにせざるをえないという矛盾も存在し、行く着く先は複雑である。この問題点をラテン・アメリカ諸国の事例で検討する作業を行っている。具体的にはユネスコ現地事務所、遺跡保護プログラム関係者へのインタビューと文献調査を方法として選んでいる。