国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

研究テーマ・トピックス|山中由里子

アーモンド (イランの正月)

 
ザグロス山脈をのぞむ
ザグロス山脈をのぞむ

ザグロス山脈からの雪解けの水が、白樺とアーモンドの花の谷をぬってゆく。その川面を、新緑の草の束が、ひとつ、またひとつと流れてゆく。


イランの新年は、春分の日にはじまる。日本のお正月にあたるともいえるノウ・ルーズにはさまざまな新春儀礼がとりおこなわれるが、その最後の日、元旦から数えて13日目は「戸外の13(スィーズダ・ベ・ダル)」とよばれ、家族や友とともに郊外に野遊びにでる日ときまっている。古都イスファハーンの人びとはこの日、ノウ・ルーズのあいだ、家に飾ってあった「七つのS(ハフト・スィーン)」(緑の草、リンゴ、にんにくなど、頭文字がスィーンの七つの縁起物)のうち、オオムギを盆の上で発芽させた緑の草を、ザーヤンデ・ルード(命生みだす川)に流すのである。

 

この光景をわたしは、イスファハーンから車で一時間半ほどの郊外にある、私有の庭園で目にした。その日は、友人たちとその家族が30人ほど、スィーズダ・ベ・ダルを祝うためにそこに集った。かなりひろいその敷地は、ザーヤンデ川がゆるやかな弧を描いているところにあり、手入れのゆきとどいた庭というより、さびれ果てた果樹園というようなものだった。


川沿いの白樺の木立を踏みわけていくと、薄紅色の花を咲かせた木々があらわれた。こんなところで満開の桜に出遭うとは、とおもわず息をのんだ。しかし、近寄ってみると、花は桜よりひとまわり大きい。枝の先に乾いてのこっている去年の実をみつけ、はじめてそれがアーモンドであると知った。洋菓子の材料としてはなじみがあるが、その木や花をみる機会は、日本ではめったにない。


じつはこのアーモンド、唐桃(からもも)、巴旦杏(はたんきょう)、扁桃(へんとう)ともいわれ、わが国ではすでに江戸時代に、ペルシアの特産品として知られていた。大阪の医師・寺島良安が編んだ百科全書『和漢三才図会』(1712年刊)には、「波斯(はるしゃ)」の項にその国の「土産」のひとつとして、「巴旦杏(アメントウス)」が挙げられている。良安は『和漢三才図会』を編纂するにあたって、明の王圻(おうき)の『三才図会』(1607年)などの漢籍を典拠としていると同時に、ヨーロッパ経由の新知識をもとりいれている。「巴旦杏」という中国名は、ペルシア語でアーモンドを意味するからきているとされるが(杉田英明著『日本人の中東発見』東京大学出版会 1995年)、それに添えてある「アメントウス」という読み仮名は、おそらくポルトガル語のamendoaに由来する。西域から中国を経由してきた旧知識と、ヨーロッパからの舶来品に関する情報が混淆しているというこの書の特徴が、ここによくあらわれているといえよう。


アーモンドの園を見渡し、「(イラン)革命以前は、この数倍の土地をもっていたんだが……。あの川向こうもぜんぶ我が家のものだったんだ」と友人はつぶやいた。園内にある別荘は、維持することができず廃屋となっていたが、そのほうがむしろおもむきがあった。ザーヤンデ川をみおろすヴェランダの床に食布がひろげられ、もち寄りのご馳走がならべられた。食後はバックギャモンに興ずる者もあり、自慢の楽器をとりだす者もあり、詩を朗詠する者もあり。


庭園の外に友人と散歩にでることにした。川に沿って歩くと、ところどころでおなじく遊山にきた人びとが、アーモンドの木陰の青々とした草の絨毯の上でくつろいでいる。川辺の斜面をのぼりきると、赤茶けた荒野がひろがり、その彼方にはまだ雪をかぶったザグロス山脈がそびえている。そして碧天のもと、朽ちた土壁のかたわらで、間延びした顔のロバがなにやら白昼夢にふけっている。


アーモンドの花の谷間を眺めおろしていると、ふと桃源郷の景観をそこに垣間みた気がした。陶淵明の「桃花源記」にみられる「良田美池、桑竹の属いある」東アジア的農村風景にくらべるとじつに西アジア的な、乾いたこの仙郷に春の訪れを告げているのは、あでやかなまでに花びらを散らす夭桃ではなく、雪解け水の流れにつつましく寄り添う扁桃であった。


別荘にもどってみると、宴もたけなわ。サントゥール(弦の打楽器)とトンバク(太鼓)の軽快なリズムにのり、踊る少女の軽い足どり、しなやかな手つき。酒はなくとも、楽の音があり、詩があり、人と人との絆がある。イランの人びとは、こうしてアーモンドの花とともに、春を迎えるのである。

 

[月刊みんぱく2001年4月号「アーモンド(民族博物誌80)より転載]

 
アーモンド
Prunus amygdalus
アーモンド(バラ科)
西アジア原産のバラ科の落葉果樹。種子の仁が食用・薬用・香料にされる。食用としてのアーモンドは江戸時代にポルトガル人によって渡来。苗木は明治初年に輸入されはじめたが、もともと夏季に雨のすくない温暖な地域に適するため、日本の風土になじまず、栽培・普及にいたらなかった。