日本の家には、親や先代から受け継いだモノが残っている。モノは家族の記憶とともに大切にされている。たとえ個人的な記憶が忘れ去られても、モノはのちの人びとを魅了する。
ところがモノの価値なるものは、「見る目」がないとわからない、などといわれる。いいモノだと思っても、モノにふさわしい価値の判断基準を知らないと、これまた素人の物知らずといわれる。とくに、骨董(こっとう)品や美術品に関しては、「見る目」が構成するヒエラルキーが甚だしい。モノの価値がそれによって決まるといってもよい。
人類学の調査で世界の文化に触れると、当然ながらモノに対する価値観の違いにも出会う。「見る目」を持っていると自負する立場からは、アフリカやオセアニアなどの非西欧の美術品は「プリミティブ・アート」(原始美術)と分類される。日常道具の中に美を見いだした柳宗悦は、「民芸論」という思想を打ち出して生活の美を主張した。モノの価値を認めるということは、これほどまでに観念や思想を必要とする作業なのである。
とすれば、いかに世界を旅して多様なモノに出会っても、「モノを見る目」という「いかがわしさ」から自由になるのは、容易なことではないだろう。
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