アフリカ最西端の国、セネガルでは、ときおり椅子を山積みに乗せたトラックを見かける。たいていは古びた鉄の椅子である。これらは冠婚葬祭のある家に運ばれてゆく。
椅子が家の外にまで並べられ、人びとが座っていると何かがあるのだなと思う。しかし、それが葬式かどうかは、にわかに判断し難い。人びとの正装は、黒い喪服ではない。しかもセネガルの衣装はかなり派手である。
わからないことはさらに続く。門の中にはおびただしい数の弔問客がいる。それも女性ばかりが目立つ。ただただ、いつまでともわからず座っている。故人との別れはない。そのころ、故人はすでに墓の中である。
葬儀には男性だけがモスクにおもむく。埋葬も男性だけが付き添う。白い布に包まれた遺体は、死後あっという間に埋葬されてしまう。
墓地は町や村のはずれにある。墓石には故人の名も亡くなった日も刻まれてはいない。メッカの方向を向いた頭の位置に、ヒョウタンの器が地面に被(かぶ)せてあるだけである。そもそも厳格なイスラームの教えでは、墓に執着することが禁じられている。
宗教と習慣の違いとはいえ、我々にとっては何やら寂しい永久の別れではある。
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