インドのヒンドゥー教徒は普通お墓を作らない。人が亡くなると、翌日までには村や町のはずれの火葬場で荼毘(だび)にふす。遺骨はガンジス河で流すのが理想だが、余裕がなければ、近くの聖地に散骨する。
肉体が滅ぶと魂は別の命に転生する。肉体の一部でも元の世界に残ったら、そちらに執着心が残る。それではきちんと転生できない。すると魂はこちらの世界をさまよい、人々に災いをもたらす。だから前世に執着が残らぬよう、遺骸(いがい)を片づけてしまうのだ。
しかし、そういう彼らも先祖供養は行う。9月の後半から10月初めごろに15日間シュラーッドという供養祭の期間がある。ヒンドゥーの暦は15日単位で循環するため、命日はそのどれかの日に当たることになる。供養祭期間中、祖先各々の命日に各家では祭壇を設け、家に戻ってくる祖先の魂に供物を捧(ささ)げる。身近な者への追憶はどこでも共通する人情なのかも知れない。
今の生はいつか前世の魂の転生した結果のはず。供養祭の間は、皆の魂が別の場所に「出張」してしまうのか?素朴な疑問をぶつけても皆笑うばかり。魂の里帰りの観念は人情に寄り添いつつ、輪廻(りんね)という世界観とおおらかに併存しているのだ。
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