旅・いろいろ地球人
音の響き
- (8)聖都の安宿で 2013年8月15日刊行
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菅瀬晶子(国立民族学博物館助教)
エルサレム旧市街、ダマスカス門のにぎわい=筆者撮影その昔、エルサレム旧市街にアル・アハラームという安宿があった。アラビア語でピラミッドという意味である。パレスチナなのに、なぜピラミッドなのかという疑問はさておき、わたしはこの温水シャワーすらない宿を、パレスチナとかかわりはじめた最初の数年間、ずっと定宿にしていた。
キリスト教徒の巡礼ルート、ビア・ドロローサに面しているという絶好の立地のせいもある。マネジャーの朴訥(ぼくとつ)な人柄が心地よかったせいもある。しかしいちばんの理由は、ここにいるだけで、聖都エルサレムに集う人びとの往来が手に取るようにわかったということに尽きる。市場の喧騒(けんそう)に交じって響く教会の鐘と、十字架を担いだ巡礼たちの聖歌。アザーンにあわせ、土産物屋のカウンターの陰で膝を折るムスリムのこまやかな祈り。真夏でも黒づくめの超正統派ユダヤ教徒の一団が、革靴を鳴らして嘆きの壁へ向かう。目を閉じてそれらの音に耳を傾けながら、わたしは混沌(こんとん)を愉(たの)しんでいた。混沌のなかにある、衷心からの祈りの強さを肌で感じることができた。
もう、アル・アハラームはない。しかしその前の通りでは変わらず、混沌と祈りが共存している。人の営みの普遍性を、今もそこを通りがかるたびに、いつも思うのである。
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